6月3日、TBSラジオ「金曜たまむすび」に出演。
お相手は外山惠理ちゃん、玉袋筋太郎さん。

玉ちゃんが突然、木村政彦 vs 力道山の決死の対決の話をふってきた。興味のある方は、増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)をお読みください。

プロレスファンの玉ちゃんは、決死の対決の試合を目にした私に、話しを聞きたかったのであろう。試合は壮絶なものだった。

かつて、力道山はテレビ放送の開始とともに国民的ヒーローとして登場した。
外国人の大きな悪漢レスラーを、伝家の宝刀「空手チョップ」で次々となぎ倒してゆく雄姿に、日本中が沸き立った。敗戦国日本にとっての輝く星。

私も文章に残しているので、長い引用になりますが、お読みください。

(※以下引用↓)

1954年(昭和29年)12月、蔵前の国技館で“力道山対木村政彦”のプロレス日本選手権試合がおこなわれた。

力道山は大相撲の元関脇、対する木村は柔道界の鬼才といわれ、七段の資格を持っていた。

二人の対決に全国が沸いた。新聞は“巌流島の対決”“世紀の遺恨試合”といった表現で前人気をあおりたてていた。

当日の国技館はもちろん大入り満員。入場出来ないファンが周囲を取り巻いて騒いでいた。

私が何故現場に居たのかというと、子役仲間の小畑やすし君と、当時スターであった私は試合前にリング上で二人に花束を贈る役をおおせつかった。

私が力道山に、やっちゃんが木村選手に渡すことは、あらかじめきめられていた。私もやっちゃんも木村選手のことはあまり知らない。

「ボク、力道山!」

突然やっちゃんは云い出した。

「アレ?話し、ちがうじゃない。」

子供にとっても力道山はスーパーヒーローであった。

まわりの小父さん達がなだめたり、すかしたり。でもやっちゃんは頑として譲らない。
小父さん達の思惑にしても力道山、松島トモ子の方が絵になる。

とうとう、わたしは木村選手に花束を贈る役にされてしまった。

はじめて上がるリングは、マットが想像以上にフカフカして足場の安定が悪い。太いロープをくぐって、やっちゃんは力道山、私は木村選手の前に歩み寄った。

この時、私には木村選手はなぜか悲しそうに見えた。

場内は、試合前から対決ムードが盛り上がり、それは時とともに殺気だった雰囲気に変わっていった。

ゴングが鳴り両者の激しいぶつかり合いが始まる。リングサイドの私は、もう恐くてまともに見られない。ヒエーッと悲鳴にも似た喚声があがり、観衆は総立ちになった。チビの私にはリングが見えない。恐いもの見たさに、前の人の身体の間から首を出す……。

木村選手は血だらけになってマットの上に倒れていた。それをなおも執拗に蹴り続ける力道山。

「やめて!」

私はふるえながら叫んでいた。そこには外国人の悪漢レスラーを空手チョップで倒すさわやかな国民的ヒーローはいなかった。

木村選手は担架で運び出されていった。
黒のタイツ姿の力道山の腰に、太い太いチャンピオンベルトが輝いていた。
けれど、一万数千人の観客たちの顔色は変わり、アプローズも凍りついて、どこかとまどいが感じられた。

とても後味の悪い試合だった。あまりにも残酷なシーンをまのあたりにして、以来、私はプロレスが嫌いになり、テレビ放送も見たことがない。
日本一になった力道山は、その後、会うたびに憮然とした表情で私にこういったものである。

「トモ子ちゃん、どうしてボクに花束くれなかったの?なぜ、木村なんかにやったんだ」

本気で、いつまでもこだわっていた。
でも、私は木村選手にあげてよかったと思っていた。
執拗にこだわる力道山に大人気ない人の感を強くした。


ここまでが私の過去の文章だ。

書籍『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』にあるように、事前にどちらにも花を持たせる試合はこびの打ち合わせがあったのかは、知らない。
もしもあったとしたら、なぜ木村ともあろう人が、無防備にもそんな話を信じたのか、不思議でならない。

でもあの日、私があの場所で二人を見た事だけは、真実だ。