ジリジリジリ……開幕5分前。

舞台の袖で出(=で。ステージ上に出ていくこと)を待つ時の心境は、合格発表を待つ受験生の気分だ。

何回やっても決して慣れない。心臓が喉までせり上がり、飛び出しそうになる。頭の中では、今、この舞台が火事になるといいなー、地震が起きて公演が中止にならないかしら、などと、罰当たりで途方もない想像が駆け巡る。
やがて会場がざわめき、お客様が席に着く音が聞こえる。もう逃げられない。

私は必死の思いで過去の栄光を引っ張り出す。

新聞評で褒められたアレとコレ。上手にできたあの舞台のこと。5歳の時に賞をいただいた記憶まで並べ立てる。なけなしのアプローズの記憶を手繰り寄せても、まだ舞台に出るだけの自信が湧いてこない。

情けない告白だが、舞台に出る前にジタバタするのは私だけではないようだ。
楽屋に祀ってある神棚に柏手(かしわで)を打ったり、“人”という字を手のひらに書いてペロッと舐めたり、みなさん真剣な表情で色々とやっている。

舞台とはそういう空間だ。味方が欲しい。助けてもらえないのを承知で、誰かにすがりたい。
世界的に有名なオペラ歌手も、出の時間まで幕にしがみついて泣いていたとか。奥さんが頃合いを見計らって、ドーンと舞台に蹴り出すのだという。空中ブランコの名手も、奥さんに耳元で「あなたは世界一、あなたは世界一」と何回も呪文のように唱えて貰わないと飛べないらしい。

首をうなだれて出を待つ文楽の人形も、舞台に出て行く時は演者の「ハッ」という声で初めて息づくという。人形だって気合が入らなければ、動けない。人間のこの瞬間も、人形と変わらない。

お母様に、客席後部の監事室に居てもらい、ペンライトで合図を送ってもらっていた、という美空ひばりさんの話は有名だ。

(お嬢(=ひばりさんの愛称)、私はここにいますョ)

誰でもひとりぽっちになるのがおそろしい。

板付きの舞台(=最初から舞台に立った状態で居ること)では、緞帳(どんちょう)の内側に縫い付けてある「火の用心」の大きなマークを見つめながら出を待つ。
なぜ緞帳の後ろに「火の用心」と書いてあるのかしら。まさか火をつける人がいるわけではあるまいし……

私の子どもの時から、そして今も変わらない。

(あー、お客様に払い戻しをして帰っていただけたら楽になれるのに。逃げ出せるためなら、私どんなことでもするわ……)

実力のほか、美貌でも有名なオペラ歌手のマリア・カラスは、観客が入場してからも「今日は調子が悪いから」と度々公演を中止したそうだ。もちろん、払い戻し金をサポートしてくれるのは、恋人で世界の大富豪オナンスである。

(彼女はいいわね。気が乗らなきゃキャンセルできるんだから……)

でも、本当にそうかしら。

私にはそんな才能も勇気もないし、第一大富豪の恋人がいない。余計な心配をすることはないけど、キャンセルした後、どうやって楽屋を出たらいいのだろうか……

気の弱い私は、そっちの方が心配だ。
衣装を脱ぎ、メイクを落としてあっちこっちに謝って惨めな思いで家に帰るなんて、考えるだけでおぞましい。そんなことするくらいなら、どんな調子だろうと、這ってでも出てやろうじゃないか。そもそも絶好調の時がそんなにあるわけない。
「今日はやめましょう。私、歌わないわ」なんて、その判断を自分に下すのはとても難しいことだ。

舞台監督の合図でステージに出る。
真っ暗な海に向かって舟を漕ぎ出す心境だ。
暗い海は人を飲み込もうと待ち構えている。いったん漕ぎ出したらもう引き返すことはできない。闇に向かって突き進む。コワイ。本当にコワイ……

いったん舞台に出ても、すぐに落ち着けるわけではない。
少しずつ客席の空気があたたかくなって、それがうねりのように感じられれば、もう最高!熱気が細胞のひとつひとつに突き刺さる。こうなったら、空へだって飛べる。
反対に隙間風が吹き出すと、もうどうにもならない。ジタバタもがけばもがく程、観客の反応は白けて引いてゆく。

こんなことをどうしてやらなきゃいけないの?
時々、それを考える。誰に頼まれたわけでもなく、自分で選んだ道だけど、一体なんのために……?

すべてが終わり、拍手が沸き起こると、体中が総毛立つような感動をおぼえ、もうこのまま死んでもいい……本当にそう思う時がある。が、その一方で、この一瞬のために支払った代償が大きすぎると、そう思う時もある。この喜びを得るために、私が失ったものは山ほどあるじゃない!普通の幸せ、普通の人生、そして友人たち。

でも、この味を覚えてしまうと、もう後戻りはできない。アプローズの味は、厄介なことに体が憶えてしまっていて、決して忘れさせてくれない。

開幕5分前、突き上げるような不安とおそろしさ、あれは感動を味わうためのいけにえなのだろうか……

2年半ぶりに歌の舞台に立ちます。
コロナで世の中はすっかり変わりました。
今度は別の恐怖が私を苛みます。
幕を開けることが出来るだろうか。
お客様は来てくださるだろうか。
6月10日、祈る思いです。




【松島トモ子 コンサートvol.18】

日程:2022年6月10日(金)
場所:成城ホール
詳細:チラシ画像をご覧ください