童謡『赤い靴』にモデルがあったことを、ご存知ですか。

 

赤い靴はいてた 女の子

異人さんにつれられて 行っちゃった

 

横浜の波止場から 船に乗って

異人さんにつれられて 行っちゃった

 

いまでは青い眼に なっちゃって

異人さんのお国に いるんだろう

 

私は小さいころ、異人さんを“好いじいさん”と聞き間違えて歌っていた。

好いじいさんに連れていかれた女の子の黒い目が、なぜ途中で青くなるんだろうか……なんだか気味が悪い歌だなぁと思っていた。

 

全国広告連盟の大会が静岡で催され、私の歌う童謡の1曲目は『赤い靴』をと、特に指定された。いぶかる私に静岡放送プロデューサーが、この歌の由来を教えてくれた。

 

明治37年、静岡県清水市に住んでいた岩崎かよは、2歳の娘きみを連れて、北海道の開拓団に入った。あまりにも過酷な労働と悲惨な生活に、かよは娘を手放す決心をして、函館のアメリカ人宣教師夫妻にきみを託した。可愛い盛りの娘と離ればなれになるかよの気持ちはどんなに切なかっただろう。

かよは別れる時、娘に赤い靴を履かせた。

宣教師夫妻の養女となり、アメリカで幸福に過ごしていると信じていたかよは、そのことを知人にも話していた。

 

このことが当時、札幌で新聞記者をしていた野口雨情の耳に入り、童謡『赤い靴』が生まれた。『青い眼の人形』もほぼ同じ頃の作品である。

 

64歳で他界したかよは、最後に「きみ、ごめんね」と娘の名を呼んだという。

一方娘のきみは幼くして結核にかかり、横浜の波止場から船に乗ることもなく、宣教師夫妻の手を離れて施設に預けられて、そこで他界していた。たったの9歳で……母と別れて7年の命だった。

もちろん自分が『赤い靴』に綴られたことなど、知るはずもない。

 

今、清水市を一望に見下ろす日本平の山頂に、かよときみの母子像が建っている。離ればなれになったままで、巡り合うこともなく生涯を閉じた薄幸の母と子が、故郷でやっと再会して手を取り合っている。

 

後日わかったことだが、きみが預けられた施設とは、東京・六本木にある鳥居坂教会附属の孤児院で、お墓もその近くだったらしい。私の母の本籍地も六本木で、鳥居坂教会には時折礼拝に行っていた。偶然とはいえ、なにか細い糸で繋がっているような気がしてならない。

 

敗戦後、私は母の手に抱かれて満州から引き揚げてきたのだが、その時、親しい中国人が

 

「赤ちゃんは途中で死んじゃうから置いていきなさい」

 

と、私を欲しがった。

もし母があの時、私を中国人に託していたら、私達もこの母子像と同じ運命を辿っていたのかも知れない。

 

静岡放送のプロデューサーはこうした事情を知って、私にこの歌を歌うように求めたわけである。ならば歌わねばなるまい。

 

精一杯歌った。

歌いながら涙をこらえるのが大変だった。

涙が溢れた。

今でも思い出すと目頭が滲む。

 

横浜の波止場から、船に乗れなかったきみちゃん……

 

『赤い靴』の女の子は、小さい頃の私の分身のように思えてならない。