10月12日、私の体に異変が起こる。
通夜の前々日、明日は久しぶり、沢山のお客様の前での講演だというのに。
私には過呼吸、パニック障害を起こした過去がある。
母が目の前で壊れていく様子に耐えられなかったからだ。
何か同じような症状が起こりそうな予感がする。
そして、足がパンパンに腫れて舞台用の靴が履けない。
かかりつけ医の所へ駆けつけた。
母が亡くなったこと、そして明日は講演の仕事があることを、説明する。
まだ通夜・告別式も済んでいないので、母の死をお客様には知らせず講演をしようと思っていたが、すでに新聞やらネットに流れ、触れずにはいられなくなった。
講演タイトルが「母とわたしの旅路」。冒頭で母の死に触れてから90分語るので、自信がないことを話す。
先生は
「僕はそんな何百人も前にして喋ったことないなー」
(そうじゃなくて)と、私。
でも、あたたかい雰囲気のこの先生が好きだ。
「なるほど、それは大変だ。お母様の亡くなられた様子も追体験しなければなりませんものね。よし、じゃ、お守りをあげましょう。このお薬は処方しますが、飲まなくていいですョ。飲まない方がいいんです。でも、お守りとしてポッケに入れといてください。危なくなった時だけね。でも、眠くなりますョ」
魔法のお守りをいただいただけで、ちょっと気持ちが楽になる。
その後、所用を済ませて大通りへ出ると、老婦人が道に迷ったようにウロウロしている。
声をかけようかナと思った時、マスク越しにもわかったのか、
「アラ、オメメのトモ子ちゃん」
「どうなさいましたか?」と、私。
「バスの降りる場所を間違えて、30分くらいウロウロしてますの」
「タクシーをお探しですか?」
「ハイ。タクシーが止まってくれませんの」
「じゃ、私が止めます。どこへいらっしゃいますか?」
「あのー、それが、思い出せませんの……」
「ハァ?」と、私。
「確か、病院だと思うのですが……???」
うーん。(゜-゜)
私も急ぎの用があるのだが、大変な方に関わっちゃったのかしら。
「どこの病院ですか?」と、私。
「サテ、ここの近くだと思うのですが……」
ここの近く、って言ったって……
沢山ありますが……
私はあてずっぽうに、さっき自分の行ったクリニックの名前を言ってみる。
「いえ、いえ、そんなんじゃなくて、」と、老婦人。
この近く、といえば
「あっ、医療センターですか?」
「あっ、それそれ!」
「じゃタクシーでお送りします。私はその後デパートですから、そんな回り道じゃありません」
「いえいえ、とんでもございません。あなた様にそんなご迷惑をおかけしては」
この老婦人を放ってはおけない。
母の姿が重なってみえる。
一緒にタクシーに乗り、まず医療センターへ。
ひとり降ろして、デパートへ向かうよう、タクシーの運転手さんに頼む。
車中で、老婦人のひとり語りが怒涛のように始まる。
「私はなにひとつ悪いことはしておりませんのに、どこもここも痛くて痛くて。ひとり暮らしですの。あんな役立たずの亭主でも、いないよりはましでしたわ。一人娘がおりますが、この娘も私をちっとも構ってくれませんので……マー、子供達もおりますし、お母さんはお母さんでやってちょうだい、とこうでございます。病院の予約も何度も忘れてしまって……今日はやっと来たのに……」
心配なので、病院玄関の正面まで車で入ってもらう。
握りしめたお財布から千円札を出し、私に渡そうとなさるので断ると
「アラ、よかった。私これだけしか持ってきませんでしたの」
ガードマンに老婦人を託すと
「まあ、今日はなんて良い日。あなたのような方とお逢いできて幸せ。神様のお引き合わせね」
と、さめざめ泣かれる。
私の両手を握りしめられるが、コロナでダメです、とは言えなかった。
運転手さんに「私あの方、知らないのよね。さっき道で逢ったの」と言うと、「フェー!」と驚かれる。
「親切なんですね」
「だって、どこへ行っちゃうか、危ないじゃない」
「あのお婆さん、家に帰ったら、松島さんに助けてもらったことなんて忘れちゃってますよ」
それでも、いいじゃない。
デパートに滑り込む。
場内アナウンスが飛び込んでくる。
“90歳くらいの老婦人が迷ってらっしゃいます。お連れ様は案内所までお越しください”
売り子さんも客も平然としている。
ビックリしているのは、私だけ。
大変な世の中になったものだ。