2月27日、当日。
幕張メッセで車椅子ダンス選手権を迎える……


まず、日本選手権の第一次予選から始まった。

エントリーは43組。最後の滑り込みセーフなのだから、私達の背番号は、もちろん43番。背番号は車椅子の背に付ける。
車椅子もこれだけ並ぶと壮観だ。真横にはスタンディング・パートナー(=私のような、健常者パートナーのこと)が付く。全員合わせて86名。フロアは331.24㎡もあるのに、4つの組に分けなければ審査が出来ないほど。私としてはこんな広い舞台で踊るのは初めてだし、沢山の人と一緒なのも初体験だ。そして選手と呼ばれるのも背番号でコールされるのも、何もかもが珍しい。
緊張のあまり、振り付けも一瞬忘れてしまいそう。パートナーの顔も引きつり固くなっている。

なんとか一次予選は通過した。シュンちゃんのためにも第一次だけは落ちないように、と願っていた。沢山の出場者の中、そもそも私達のダンスを見てもらえるのか不安だったのだ。

第二次予選もパス。バックステージの壁に、予選通過ペアの番号が貼りだされる。

「43番……あった!」

これでひとまず私のお役目は済んだみたい……

準決勝になると、観客がようやく松島トモ子に気がつき、43番がコールされると歓声があがるようになった。「43番!」と、掛け声をくれる人もいる。か細い私が片手でシュンちゃんの手を握り、バランスを取りながらクルクル回ると会場からは拍手が湧いてくる。
同情票かな?準決勝もパスしてしまった。

予選落ちも覚悟していたので、こんなに何回も踊るつもりはなかった。前半に飛ばしすぎて電池切れ状態。脚もパンパンに張ってくる。

いよいよ決勝戦。あんなに沢山の人達がいたのに、勝ち残ったのはたった6組。広いフロアに静かに登場。2人だけの世界のようだ。

私は疲れすぎたせいか気負いが抜け、会場を見渡す余裕も出てきた。
ノルウェー、オランダ、ドイツ、日本など、5人のジャッジの顔も見える。見せ場はジャッジの傍に寄って披露なんかしちゃったりして……良くも悪くも長年培ってきたプロの度胸があたまをもたげ、私の白いドレスに当たるライトが心地よいくらい。

(シュンちゃんのお母様、ご覧になっていますか。こんなに上手になりましたよ)

途中で脚が動かなくなってきたが、気力と観客の拍手で精一杯踊りきることができた。
やっと終わった……

さて、私達は何位になったでしょうか?

舞台の裏で倒れていると

「優勝、43番。長沢俊一・松島トモ子組!」

と、聞こえてくるではないか!
ウッソー。一瞬耳を疑う。

「優勝ですよ」と、スタッフに促され、彼の手をひいて煌々とライトに照らされたフロアを歩き、遠い遠い表彰台へ向かう。

不意に涙があふれた。舞台では泣かないことが私の信条だったのに……

レッスンの苦しさが走馬燈のように私の胸によみがえり、涙が止まらなくなってしまった。優勝した嬉しさより明日から車椅子ダンスをやらなくてもよい喜びの方が大きかった。

後日、日本テレビの報道番組「NNNニュースプラス1」で選手権の様子が放送されると、多くの方々から励ましの手紙や電話が寄せられてきた。読売新聞には

“松島トモ子さんの車椅子ダンスに感激。面識のない障がい者からの依頼で、車椅子ダンスに挑戦した松島さん。踊る姿の素晴らしさに、若さとは挑戦すること、美しさとは人を思いやることだと教えられました。” 

“車椅子が衣装の一部に見えるほど素晴らしかった。2年後のパラリンピック出場を期待”

などと掲載されていた。嬉しい。 (*´v`*)

1ヶ月後、打ち上げパーティの席でシュンちゃんに逢った。体がスッキリと締まり、自信に満ち溢れていた。

「母は喜びのあまり宙に浮いたまま、まだもとに戻っていません。五体満足の体に産んでもらったのに80%も駄目にしてしまい、母には顔向けができませんでした。おかげさまで、初めて親孝行をしました。トモ子さん、ありがとうございました」

深々と、頭を下げられた。

本当に良かった!

お調子者の私、言わなくてもいいのに、

「よし、シュンちゃん、ものはついでよ。パラリンピックもやる?」

2年後、シドニーの冬季パラリンピックで車椅子ダンスが正式種目に決定されていたら、万に一つのチャンスで長沢俊一・松島トモ子組は出場できていたかも知れない。
パラリンピックに出場の可能性、は本当だったでしょ?

この続きはまた次回。
まだまだ引っ張る。