パラリンピックの興奮冷めやらぬ方も沢山いるでしょう。
車椅子同士がバンバンぶつかるシーンなど、本当に衝撃的でしたものね。私も時々名シーンを思い出しています。

この私が万に一つのチャンスがあったらパラリンピックに出場する可能性があったと言ったら「ウッソォー!」と目を剝くでしょ?実はあったのですョ。

それは日本テレビに届けられた1通の手紙から始まった。

「僕は障害者です。2月27日に幕張メッセで開催される “ 第一回車椅子ダンス世界選手権98 ” に出場したいと思っています。でもパートナーが見つかりません。松島さんはライオンとヒョウに襲われ大怪我されたにもかかわらず、元気に頑張っていらっしゃいます。その姿に勇気づけられてまいりました。ダンスもお得意とか。ぜひ僕のパートナーになって下さい。
長沢俊一」

私はといえば、小さい頃から踊ることが大好きで、バレエやモダンダンスの経験はあるけれど、車椅子ダンスは未知の世界。まして世界選手権に出場するなんて……私に出来るのだろうか……

「とにかく一度会ってお話しをお聞きしましょうよ」

手紙を届けてくれたディレクターの案内で、上尾にある長沢家を訪れたのは1998年1月25日の午後のことだった。
まず、シェットランド・シープドッグの賑やかな歓迎のなか、長沢さんが車椅子で登場。なかなかカッコイイ。続いてコロコロと転がるようにかわいい奥さんが飛び出してきた。

「あらー本物が来た!」

次はお母様、

「私、トモ子ちゃんのファンだったんですよ。夢のようですわ。ぜひ俊一と踊ってやってください」

今から13年前、22歳だった長沢さんはオートバイで桜田門の前を疾走中に、前の車に激突。彼の体はトンボのように空を飛び、反対車線の車道に叩きつけられた。
命はとりとめたものの、脊椎損傷で胸から下が麻痺。母親から五体満足に産んでもらったのに体の80%もダメにしてしまった。3ヶ月間、彼は涙が枯れるまで泣き続けたそうだ。当時を振り返ってお母様は

「それからの5年間、俊一と2人どうやって生きてきたのか、もう無我夢中でわかりません。でも俊一は、今では自分の事は全部出来るようになり、お嫁さんを迎え、あたしは本当に幸せなんですよ」

目の前の長沢さんの心の痛みは、私などには半分も理解ができないが、嬉しそうにお話しなさるお母様のあたたかい雰囲気に感動して、つい「私で良かったら……」と言ってしまった。それからの地獄の特訓など、想像すらできなかった。

1月30日、自由が丘にある四本(よつもと)ダンス・スクールでレッスンが開始された。長沢さんは2年ほど前からここで車椅子ダンスを習っている。

四本先生に促されて、私はまず車椅子に座っている長沢さんの両手を握る。
障害がどの程度なのかわからないので、非常に不安だ。
先生は

「遊園地のコーヒーカップを知ってますか?あれを回す要領ですよ、では、ハイッ!」

長沢さんの体重は67kg、車椅子の重さは9kg。彼は胸から下が麻痺しているので、まるで砂袋を引きずっているように重い。これで踊れるものなのかしら。選手権まで、あと1ヶ月もないというのに。目の前がたちまち真っ暗になる。
初日は、車椅子にズリズリ引っ張り回されるだけで終わった。体重40kgの私にとっては、踊りのレッスンに来たというよりは、宅急便会社の運搬係に就職した感じだった。

翌朝は首や両手が軋みだし、痛くて痛くて起き上がるのも辛い。私だって10年ほど前にライオンとヒョウに襲われた時、第四頸椎粉砕骨折になった身。

(ああ……とんでもない事を引き受けちゃったわ……)

後悔先に立たず。両腕両足に湿布、首には使い捨てカイロをしっかり貼りつける。おまけに疲労がかさむとよくあることなのだが、歯まで浮いてきそうな勢い。
それでもレッスンに入れば

「自分だけの力で引っ張らないで、車椅子と人間の間にカウンター・バランスをとりなさい」

と先生の檄が飛ぶ。
相手の力を上手に利用しなさい、ということだがこれが難しい。うっかりしていると車椅子に轢かれてしまう。約80kgの重さなので、これは本当に痛い。

障害者国際競技会では、出場者がよりフェアに参加できるように、競技開始直前に医師・理学療法士・スポーツ指導員で構成されるクラス分類判定委員会により参加選手のクラス分けが行われる。
車椅子ダンスでは、上半身がほとんど動かせない人は「クラスⅠ」。比較的自由に動かせる人が「クラスⅡ」。この二つに分けられる。長沢さんがどちらのクラスに入るかは、当日の検査までわからない。もし「クラスⅡ」に入れば、ジャッジは一層厳しくなるわけだ。

レッスンを始めて気付いたことは、健常者が―‥例えば四本先生が車椅子に乗って相手をしてくれる分には、座っていても足を踏ん張ってくれるので、相手は軽やかに動く。長沢さんにはそれが出来ない。その上腹筋も麻痺しているので、私が強く引っ張ると体勢を立て直すことが出来ない。途方に暮れている私に

「豆腐の上に頭と胸が載っていると思ってください」と、長沢さん。

「フェー!それじゃグズグズじゃない!」

これだけ重度の障害を持つ人は、手を挙げたり背中をまっすぐにするだけでも重労働なのだそうだ。ソロリソロリとやる。

「もう少し稽古を続けても大丈夫ですか?」と、私。

「大丈夫です」

本当に大丈夫なのかしら?こちらには彼の体力の限界がわからない。
あれこれ不安がつきまとう。腫れ物に触るような状態なので、思い切って前へ進めない。自分勝手な私はイライラが募る。稽古と休憩を交互に取りながら、ゆっくりとやらなければならない。

「ハーイ、今日はここまで」

四本先生のストップがかかる。先生は障害者の体の状態をよく把握している。
時々彼は「お尻タイム取らせていただきまーす」と車椅子からソファに移り、お尻だけ上にあげて横たわる。座りっぱなしのお尻を時々解放してやらないと痛覚がないので褥瘡(じょくそう)になってしまうのだ。平たく言えばと床ずれだ。お尻休憩タイムは20分くらい。そしてまたレッスンが始まる。

長沢さんの身分はサラリーマン。仕事は自動車のセールスで、社長は彼の冒険に理解が深く応援してくれている。お互いに仕事を持つ身なので稽古は朝か夜の時間帯が多い。
彼は上尾の自宅からダッヂのワゴンをひとりで運転してやって来る。車椅子ごと自由に乗り降りできる大型車だ。ダンス・スクールのある自由が丘まで約2時間、時には我が家の稽古場で2人で復習することもあるが、日常の行動では彼に手助けをする必要はない。問題はダンスだけなのだ。

さて、世界選手権では5種目を踊らなければならない。モダン部門でヴィニッツ・ワルツとタンゴの2種目、ラテン部門では時々手を離してよいので、彼がクルクル回ったり疾走したりしている間、私は自由に舞ってそれなりの見せ場を作ることができる。お互いに得意技をやって、また組んだりするのも可能だ。
モダン部門のワルツとタンゴは手を離してはダメ。組んだままなので、これが難しい。

彼のハンドパワーを手のひらで感じ、ちょっと力を与えると私の方へ向いていた車輪が右へ向く。ここで方向転換をするわけだが、これがなかなかスムーズに動いてくれない。自分が頑張るだけではどうにもならない。

常に相手のペースにあわせて……そう、思いやりが大切なのだ。
もう時間がない!と焦る私。自分自身をなだめるのに苦労する。疲労といら立ちが募る。私は汗ビショビショで、髪の毛は逆立ち、サポーターと湿布だらけ。長沢さんは汗もかかず、ピシッとお澄まししている。カッとした私は

「シュンちゃん、本当は立てるんでしょ。立ってよ!」

稽古場に大きな私の声が響く。周りは凍っている。

(あっ!これでこのパートナーシップはおしまい)

と、覚悟した。

この続きはまた次回……まだまだ引っ張る!
パラリンピックの秘密も出てないもんね。