生後七ヶ月の私↑これからいろんなことがありました。

 

私の記憶が鮮明なら、燦然たる昭和芸能史を歩いてきた人間として、語り部のひとりになれたかも知れない。
しかし残念なことに、覚えていることといないことの差が非常に激しい。

4歳の映画デビュー以来、映画・テレビ・雑誌の撮影、その上1番大事な学校へ行くことなど、眠る時間もスケジュールに入れなければならないほど忙しかった。

その中でも忘れられない思い出がある。1958年公開の『白蛇伝』。
日本初カラー長編漫画映画(アニメ映画)のお手伝いをしたことだ。あの宮崎駿監督は、この映画を観た経験がアニメ界に入るきっかけのひとつになったと聞く。なんと光栄な……

さて、私は何をしたのでしょう?

ご存知の方もいるでしょうが、私は「ライブアクション」……今で言う「モーションキャプチャー」のモーションアクターをしていたのです! 

人物の動きをトレースして、アニメ化する。本物の人間である私達が実際に芝居をしたのだ。ディズニーの真似だと思うが、これも日本初だったと思う。監督もいて衣裳・かつら・メイク、全部イメージ通り。約1ヶ月撮影を行った。

ヒロインの白娘(パイニャン)は白蛇の精。演じたのは、当時東映の売出し中の若手女優、佐久間良子さん。なんと美しかったこと。

私の役は小青(シャオチン)という深海の底に住む青魚の精。白娘のお供で人間に化けると青色の服を着た小柄な少女になる。当時私は11歳くらい。完成するまでに2年を有したのだから、そのくらいの歳だったのでしょう。

佐久間さんのお供をして魚になったり人間になったり、チョコマカチョコマカ動き回っていた。撮影現場もなにやら新しくてすごいものが出来上がる、とみんな興奮していた。
私達も単に下地で画面に登場しないことは重々知っていたが、途中で全部忘れ、真剣そのものだった。佐久間さんも若手女優でありながら

「今感情がのっているから昼食は抜きでお願いします」

メシ押しで、などと今ではあり得ないが当時でもかなり珍しかったのでよく覚えている。この人度胸が据わっているな、将来大物になる……その後の大活躍ぶりでそれは証明された。私の勘は当たったわけだ。

確か私達の名前はクレジットされなかったと思うが、小青の衣裳を着てかなり難易度の高いバレエを踊ったモーションアクターの私を見て、バレエの先生が「アラ、あれトモ子ちゃんじゃないの?」と言ってくださったとか。動きの癖があるのでしょうね。その言葉を聞き正直嬉しかった。やっぱり私、自分が映りたかったのかな?

1972年、テレビアニメ『マジンガーZ』のヒロイン・弓さやか役を1話〜13話までやっている。

この話題はTwitterでもツイートされたこともあるようなので、ご存知の方もいるかも知れません。私が1クールで逃げ出したのは、当時の声優さん達の職人的上手さに圧倒されたからだ。みんな声優という職業に誇りを持っていた。

私は自分の姿にアフレコするのは得意だったが、アニメにアテレコするのは正直戸惑った。画が出来ているものは何とかなったが、間に合わないと弓さやかが●、兜甲児が×などと表現されるだけのこともあった。白い画面に●が出ると私が喋り出し、×は兜甲児。台詞の尺に後から画を合わせていたのだ。

●を見て弓さやかを想像できない私は、声優に向かなかったのでしょう。その頃は今と違って声優の地位は俳優より非常に低かった。


根をあげた決定的なことがある。当時は予算が少なかったのか、地下のスタジオで数本のマイクを何十人かで取り合っていた。とても換気が悪く、そもそも換気装置が付いていたのかどうか……私は酸素欠乏状態で水を離れた金魚のようにアップアップ胸が苦しくてたまらなかった。
デビュー作品の時もスタジオに暖房がなく、広いセットにガンガン(←ドラム缶に炭が入っている)がいくつか置かれ、4歳の私は一酸化炭素中毒になりかけたのでしょう。気持ちが悪くなり、何度もNGを出した苦い経験がある。空気の悪い場所は苦手。今も地下のライブ会場は行かないようにしている。

せっかくのヒロインに選んでいただいたのに、本当に申し訳なかった。
最後に辞めるご挨拶をしてスタジオを出る時、声優さん達のささやく声が聞こえた。

「何で辞めるの?」

「声優が嫌だったのサ」

イエイエ、決してそんなことはございません。

【もっと酸素を】

これが私の願いでした。