ナイロビから日本へ。飛行時間だけで約25時間位、抗生物質と痛み止めを飲みながら苦しい旅を続け、やっと成田空港に着いた。日本大使館の医師達も同行。
 

機内から外に出た途端、報道陣に取り囲まれた。動く歩道の片側にはおびただしい数のカメラマンやインタビュアーが詰めかけていた。トランジット先のロンドンで、私に起こった事故が公になった事は知っていたが、まさかこれほどとは……ライオンとヒョウに咬まれた芸能人だものね。

テレビ局のディレクターが機内で私に渡した想定問答、Q&Aが書かれたペーパーを何度もリハーサルさせられた。大人の事情もあっただろうが、内容は納得できるものだった。

 

私は自分が生きて帰れさえすれば何でも良かった。医師による記者会見の許可は確か20分。フラッシュがたかれ、会見場のことは痛み止めのためもあり、あまり覚えていない。鮮明に覚えているのは、

「動物が嫌いになりませんか?」という記者の問いに

「それでも、私はライオンが好き」

と答えたこと。
それがそのまま番組のタイトルになった。(バカですねー私)

記者会見が終わると、張り詰めていた気が緩んだのか急に足が動かなくなり、手足の痺れが始まった。

翌日、昭和医大に入院。絶対安静の身の上になる。40kgの体重が34kgになっていた。
首はギプスで固定され、頭の両側には砂袋が置かれて身動きができないようにされた。
新聞や週刊誌には

「全身麻痺寸前」
「全治六ヶ月」
「あと1mmで一生車椅子に」
「豹の嫉妬でこの痛ましい姿」
「ライオン+ヒョウ体験」
「瞬間、死の恐怖」
「ヤラセ説も!」

 

……などなど、大きな活字が踊っている。

私の怪我は正式には“第四頸椎棘突起(だいよん・けいつい・きょくとっき)及び椎弓(ついきゅう)粉砕骨折”、つまり頸椎の四番目がかじり取られ、骨が14個にもばらばらに砕けている状態だった。担当の主治医は頸椎の専門医で、レントゲン、CT像および脊髄腔(※(せきずいくう)造影写真を前に、

「こんな酷い頸(くび)の骨折は見たことがない。しかも、細かく砕けた破片が脊髄(せきずい)を圧迫していないなんて奇跡としか思えない。もしヒョウがあと1mm深く咬んでいたら、頸から下は完全麻痺を起こしていたでしょうね。本当に運が良かった」

と首をかしげながら説明してくださった。

考えてみれば、コラのキャンプに飛行機で戻ったり、ガタガタ道を車でゆられたり、私のとった無茶な行動を、神様はよく許してくださったものだ。これほど酷い怪我だとは思っていなかったものの、無知というものは本当に恐ろしい。

連日のように記者達の要請により、主治医は私の隣の部屋で頸椎の模型を前に、私の奇跡の生還の模様を、記者会見していたらしい。私は面会謝絶の部屋で、痛みのためウンウン唸っていたので全く知らない。その間にライオンとヒョウに咬まれた出来事は大騒ぎになり、有名芸能人がコントのネタにしていたことは後で知る。

夕方、母が病室から帰った後は、朝までたった一人。白い天井を見つめながら、私の首は動くようになるのかしら。仕事に復帰できるだろうか。もし出来ない場合は、私は一体何がやれるのだろうと、不安で胸が押し潰されそうになる。この時私は40歳だった。こんな酷い目にあわされる程、悪い事はしていないのに。

「いつ復帰できるのか。踊れるようになるの?歌は?芝居は?」

とうるさく問い詰める私に、主治医は

「生きて帰って来られただけでも、何億分の一の確率だ。今はそれに感謝しなさい」

と、取り合ってくれない。

(神様、私にもう一度奇跡が起こりますように……)

夜中にふと、コラのテントで別れたジョージのことを思い出す。去る間際、

「すぐにまた戻っておいで」

「ええ、すぐに帰ってくるわ」

「なるべく早く来ておくれ」

「何故?」

「私はもう年なんだから……死んじゃうよ」

淋しそうな顔だった。
照れ屋のジョージが私の手をしっかり握ったまま、車の所まで送って来た。
いつも人の顔を正面から見ないジョージが、今日は私のことをはっきりと見つめていた。目が赤くなっていた。

三週間の目まぐるしい出来事が、私の頭の中を駆け巡る。私の目にも涙が溢れてきた。死ぬような目に遭いながら、今までは一度も涙が出なかったのに……

「トモーコよく頑張ったね」

しっかり抱きしめてくれたジョージの胸の中で、声を出して泣いた。涙が後から後から流れて、ジョージの裸の胸を濡らした。
長かった。生と死をかけて戦ったアフリカでの三週間は、私にとって十年間にも匹敵する体験だった。

ジョージは元気にしているだろうか……
そしてこれからの、私の運命は……


十年後、「私を咬んだライオンは今」というタイトルで、ケニアのジョージのテントに舞い戻るということは知る由もなかった。テレビ局は逞しい……

乞うご期待!