2月10日の歴史
源義経が奥州平泉の藤原秀衡のもとへ
壇ノ浦で平氏を滅ぼした後 義経は兄頼朝から
官位を勝手に受けたとか
自分の命を聞かなかったとか
言いがかりをつけられ
義経は兄・頼朝と対立することに
ここから義経のせつない物語が、、、
土佐の坊 堀川夜討ちに始まり
有名な静御前との吉野山での別れ
鎌倉側に捕らえられた郎党達の死、、、、
京の院や貴族が
義経を逃がしていることを疑う頼朝
京都側が義経に味方するならば
大軍を送ると脅したのでした!!
判官贔屓!!
京都に居られなくなった義経は
藤原秀衡を頼って奥州へ逃げるのです
『吾妻鏡』
文治3年(1187年)2月10日の記録では
義経は追捕の網をかいくぐりぬけ
伊勢・美濃を経て奥州へ向かい
正妻と子らを伴って平泉に身を寄せたそうです
一行は山伏と稚児の姿をしていた
奥州平泉到着後、義経の死とされる日以降も
様々な伝説が残ってます
アイヌを味方に鎌倉と戦うとかね!!
1度目の奥州へ旅立つときは
首途八幡宮で祈願してた義経
今回の奥州へ向かう前は
どこにも旅の無事の祈願をしてなかったのかな?
妙心寺近くラ-メン親父の左隣の路地にある
願王寺 かどで地蔵にも
1回目の奥州旅立ちでは祈願してたそうです
なぜ義経は奥州の覇者
藤原秀衡を頼っていたのか?
実は 母、常盤御前の再婚相手
一条長成と藤原秀衡は親戚関係だったんです
長成の支援があったのかもしれませんね
長成と常盤の子で義経の異兄弟である能成も
実は途中まで義経と行動を共にしていたのです
歴史的にも伝説的にも、数多くの逸話もあり
吉岡淳が歴史上もっとも崇拝する
源九朗義経公の歴史のお話でした
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