南叡山 養源院

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養源院へ行ってきました
養源院は浅井長政公の法名からきてます

長政公の21回忌に長女 茶々(淀君)が
秀吉公に頼み父の菩提を弔うために創建

建立後してすぐ落雷により焼失

元和7年(1621) に三女 江(崇源院)が
伏見城の遺構を移して本堂を再建しました


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養源院は豊臣家により創建され
徳川家により再建され菩提寺になりました

二代将軍秀忠公と江の娘である
徳川和子 (後に東福門院となる人物)が

後水尾天皇に入内した後 養源院は東福門院の要請により
兄である三代将軍 家光公により守られることになり

歴代京都所司代がその役目を引き継いでいくことになります

結局は浅井の血が守った(守らした)てことです


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養源院といえば血天井が有名です

 関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで徳川軍

鳥居元忠や約1000人の家臣たちが城を死守し
最後に自刃した廊下をこのお寺の天井にして菩提を弔ってるのです

遺体は8月から9月中旬まで1ヵ月以上放置されていたと言われています

だから今でもも生々しい血の痕があちこちに残ってるのです

同じく伏見城から移築した血天井は他に宝泉院・正伝寺・源光庵にもあります

【伏見城の戦いについて】

豊臣軍約4万の大軍 

総大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋
他に毛利秀元、吉川広家、小西行長、長宗我部盛親
長束正家、鍋島勝茂、大谷吉継など名だたる将が!!

伏見城を死守した徳川軍は約1800人の兵

鳥居元忠を総大将とした部隊でした

徳川家康は援軍要請を島津義弘に出してたのですが
鳥居元忠に話が伝わってなかったらしく 入城を拒否

鬼島津の軍勢1000がこの戦いに加わっていれば
ちょっとは変わったかもしれませんね

4万の軍勢が1800の兵相手に10日もかかった戦いですからね

大軍で攻められてても 天下の伏見城ですから充分戦えたはず


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ここで 綺麗すぎる 紅葉の風景をどうぞ



養源院には
俵屋宗達作の襖絵など重要文化財がある事も有名です

この絵とかも
伏見城で自刃した将や兵の供養するために描かれたものだそうです

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江の供養塔入れへんかった(>_<)


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養源院 御朱印


やっぱり俺は史跡巡り+御朱印巡りが楽しいです

歴史人物ゆかりの寺社仏閣の御朱印を集めると楽しさ倍増です