木食応其に命じて大仏(銅造)の復興を図る
慶長7年(1602年)流し込んだ銅が
漏れ出たため火災
慶長13年(1608年)より再建が開始
慶長13年(1608年)より再建が開始
慶長15年(1610年)6月に地鎮
慶長17年(1612年)には
大仏に金箔を押すところまで完成
慶長19年(1614年)には梵鐘が完成
同年7月26日に開眼供養の延期を命じる
秀頼が奉納した鐘の銘「国家安康」に対し
徳川家康から言いがかりをつけられる!!
大坂の陣の原因にもなったとされる
【その後】
寛文2年(1662年)の地震で大破
大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興された
この再興された大仏も
寛政10年(1798年)落雷による火災で焼失
この事は京のわらべ歌 京の大仏になってます
この事は京のわらべ歌 京の大仏になってます
京の京の大仏つぁんは 天火で焼けてな
三十三間堂が 焼け残った
アリャ ドンドンドン コリャ ドンドンドン♪
大混乱で皆見に行ったそうです
【方広寺から移築】
東寺の南大門は
方広寺西門を明治になって東寺に移築したものです
方広寺・豊国神社
ここは吉岡淳の幼少期の遊び場やったんです
隣の町内に住んでましたからね
大仏殿があった事が 交番の名前として残り
通りの名前=正面通り
(大仏の正面)として残ってます
方広寺の大仏殿は
それこそ城の天守よりも遥かに巨大やったそうです