7月3日の歴史 戦国 尼子氏滅亡


天正6年(1578年)4月18日から7月3日まで
播磨国上月城で毛利輝元と
尼子勝久との間で行われた合戦で

その7月3日上月城の戦いは終戦し
尼子氏は毛利軍に敗れ滅亡する

 



 

 

別所長治の離反と毛利本軍の出陣
それで羽柴秀吉は織田信長へ援軍を要請した


最初に摂津の荒木村重の軍が合流する

毛利軍は吉川元春・小早川隆景らが
上月城へ進軍する
4月18日に包囲を開始し
 
第二次上月城の戦いとなる

上月城を守るのは尼子勝久を総大将とする
山中幸盛・尼子氏久・尼子通久・神西元通ら3千
 
毛利軍が
上月城に向かったとの報を受けた羽柴秀吉は
三木城の中であったが自らの手勢を率いて
尼子軍支援のために高倉山に向かう
 
織田軍には織田信忠を総大将として
滝川一益、佐久間信盛
明智光秀、丹羽長秀などの
援軍が到着したが上月城の援軍ではなく
信長は三木城の攻略と毛利軍の足止め優先し
神吉城・志方城・高砂城といった
 
三木城の支城攻略に出る

信長の命であるから秀吉も上月城に援軍できず
 
秀吉は6月16日に京都へ向かい
織田信長に上月城援軍の許しをもらいに行くが
播磨平定を優先する信長の考えは変わらない
上月城の尼子軍は事実上の捨て駒となる
 




7月1日に尼子軍は

城兵の助命を条件に開城・降伏する

7月3日に尼子勝久・尼子氏久・尼子通久
勝久の嫡男である尼子豊若丸らが自刃した

 

 

 



尼子再興軍の中心的人物であった
山中幸盛(鹿之助)も捕虜となり

後に備後国鞆に送られる途上7月17日 
備中国成羽で殺害された

山中鹿之助は山陰の麒麟児と呼ばれ

尼子十勇士の筆頭である

尼子家再興のために
願わくば、我に七難八苦を与えたまえ
と三日月に祈った事は有名です


武門としての尼子氏は完全に滅亡した!!



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織田軍が援軍してれば、、、、、、


山中鹿之助はこの後の時代確実に戦乱の世で
名を上げた名将になったかもしれませんね!!