6月11日の歴史 戦国 古田織部切腹

慶長20年6月11日(1615年)
古田織部  豊臣方内通の罪に問われ自刃 (数え72歳)


(古田織部木像 京都興聖寺蔵)

武将,茶人,茶道織部流の祖

信長を記録した人物としても知られています

武にも優れ茶の道にも優れた織部とは?


【武士としての織部】

天正4年 山城国乙訓郡上久世荘の代官となる

天正6年 織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立てる

同年11月に荒木村重が謀反した有岡城の戦いでは
清秀を織田方に引き戻すのに成功する

羽柴秀吉の播磨攻めや、明智光秀の丹波攻め
甲州征伐に清秀と共に従軍

信長死後は秀吉に仕える

天正11年 伊勢亀山城の滝川一益を攻め

同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげた記録が残る

小牧・長久手の戦い、紀州征伐、四国平定にも出陣している

九州征伐、小田原征伐、文禄の役にも参加

武士としてもかなり活躍してます


【茶人としての織部】

千利休と知り合い弟子入りし
のちに利休七哲のひとりとされる

利休の死後は織部が天下の茶人とされる

茶人として朝廷や大名たちにも影響力を持つ

秀吉の死後
関ヶ原の戦いでは東軍に




最期は慶長20年

大坂夏の陣のおり重然の茶頭である木村宗喜が豊臣氏に内通し
京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられ
重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通していたため
徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせた疑いにより
大坂落城後の6月11日に切腹を命じられる
織部は一言も釈明せずに自害(切腹)

古田家は断絶

戒名 雲了院殿金甫宗屋大居士

墓所 京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺三玄院

京都府京都市上京区堀川通寺之内上ルの興聖寺




古田織部の世界が感じれる美術館ができてます

京都 鷹峯 古田織部美術館 
http://www.miyaobi.com/taikou-sansou/museum.html

京都府京都市北区大宮釈迦谷10-37

太閤山荘内




今週の日曜日 6月15日までは
古田織部とその周辺が開催されてます



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400回忌法要茶会も行われた事もすごいし

織部焼の名が残ってるのもすごいですが

古田織部の記録(日記)が
信長公記の参考になったとも言われてるのがすごい事ですね


文武両道!!