臨済宗 天龍寺派 瑞雲山 宝寿院

 

由来説明


清原頼業公は平安時代後期の漢学者・儒学者で、

天武天皇の皇子、舎人親王の御子孫にあたり、

一族の中には三十六歌仙の一人である清原元輔、

その娘、清少納言らの名も見られる。


頼業公は大外記の職を24年間も任め、

和漢の学識と実務の手腕は当代無比といわれ、

晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかり、

兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた。

頼業公は平安時代末期の1189年(文治5年)に逝去され、

清原家の領地であった現在の社地に葬られ、

廟が設けられた。

やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、

「宝寿院」という寺が営まれた。

この寺は室町時代に至り、

足利尊氏により嵐山に天龍寺が創建されると、その末寺となった。

現在この宝寿院があった場所には

車折神社だけが残ってます 

芸能神社が境内にあることで有名な神社です


現在の宝寿院はといいますと


 

滋賀県大津市は比叡山登り口にある琵琶湖霊園の隣に


昭和の終わりころからあります!!


本尊は千手観音

そして平安時代のものであろう小さい弁財天があります





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