「寄り添いって、なんでも肯定してあげること」みたいに扱われる場面をよく見る。
でも僕が感じている寄り添いは、それとは少し違う。
不登校の子と関わっていると、「これ、やってみようかな」と小さくつぶやく瞬間がある。
不安も抱えながら、それでも前に出ようとしている、すごく大事な一言だと思っている。
そのときによく聞くのが、「無理しなくていいよ」という言葉。
もちろん優しさから出てくる言葉なんだけど、その一言が「やってみたい」という芽ごとそっと押し戻してしまうこともある。
僕はそこで、いつも「もったいないな」と感じてしまう。
この感覚は、回復期リハビリテーション病棟で働いていたときの経験ともつながっている。
時間はかかっても、自分で起きて、車いすに移って、食堂まで来る。
その一連の動きが、退院後の生活を支える力になる。
そこで介助しすぎてしまうと、その人の「本当なら自分でできたはずの力」を少しずつ奪ってしまう。
看護の世界では、それを「奪うケア」と呼ぶことがある。
不登校の子どもが「腫れ物扱い」されるときも、よく似たことが起きている。
刺激を与えないように、傷つけないようにと、周りの大人が極端に慎重になる。
その空気の中で、「無理しなくていいよ」とブレーキをかけられたり、本当はできそうなことまで大人が先回りして引き受けてしまったりする。
僕自身も、子どもの頃は不登校で、当時は今ほど「不登校」という言葉も知られていなかった。
周りもどう扱えばいいか分からず、結果として腫れ物のように扱われることが多かった。
その中で、「自分なんて何もできない子なんだ」と思い込んでいった感覚は、今もよく覚えている。
だからこそ今は、不登校の子どもたちを「壊れやすい存在」としてではなく、「ちゃんと自分で選んでいける存在」として見たいと思っている。
大人が思っている以上に、子どもはかっこいい。
不登校だからといって、人生から降りたわけじゃないし、「やってみようかな」と言える瞬間をちゃんと持っている。
その一言が出てきたときに、「無理しなくていいよ」で引き戻すのか、「一緒にやってみようか」と隣に立つのか。
寄り添いという言葉の意味を、もう一度見直したい。
全文はこちら→「寄り添い=全部肯定?」という違和感 - 完全訪問型フリースクール”なすび”
子どもとのスキンシップって、少し話題にしづらいテーマだと思う。
抱っこやおんぶ、ぎゅっとくっつく時間。
本当はあたたかいはずなのに、「今のご時世だから」という言葉ひとつで、すぐにグレーなものとして扱われてしまう空気がある。
僕は訪問型で不登校支援をしていて、このテーマから完全には逃げられない。
現場にいると、「それって本当に子どものための安全なんだろうか?」と感じる場面に、何度も出会ってきたからだ。
今、子どもと関わる場では「抱っこは基本なしで」「ハイタッチくらいまで」「安全のために距離を取ろう」といった、自主規制のようなものが増えている。
背景には性被害やハラスメントの問題があって、慎重になること自体はとても大事だと思う。
一方で、「安全だからダメ」という言葉が出た瞬間に、考えることが止まってしまうこともある。
本当は、一人ひとりの子どもの様子や、保護者の気持ち、その場の状況を見ながら考える必要があるのに、「危ないかもしれないから、やめておこう」でまとめて処理されてしまうことがある。
不登校の子と関わっていると、子どもは頭ではなく、身体で安心できる相手を選んでいるように感じる。
この人のそばは落ち着くか。気を張らなくてよさそうか。ちゃんと見てくれそうか。
そういった感覚の延長線上に、「抱っこしてほしい」という行動が出てくることがある。
小学生高学年の子でも、「抱っこして」と言ってくることがある。
その時間、僕たちはほとんど話をしない。
ただ、体重を預けて、呼吸が少しずつ整っていく時間を一緒に過ごすだけだ。
しばらくすると、その子は自分からふっと離れていく。
またゲームに戻ったり、自分の好きなことを始めたりする。
ずっと抱っこされたままではなく、「少し休んで、また自分の世界に戻っていく」ような動きになっている。
この様子を見ていると、一瞬の抱っこは自立を壊すものというより、心のバッテリーを少しだけ充電する時間に近いのではないかと感じる。
日常でずっと気を張っている子ほど、誰かに体重を預ける経験が少ないからこそ、その短い時間が大きな意味を持つことがある。
もちろん、「だから何でも抱っこすればいい」という話ではない。
距離感にはいつも慎重でいたいし、安全管理を軽く見るつもりもない。
それでも、「安全だからダメ」という言葉だけで、子どもが自分の安心にアクセスする機会まで切り落としてしまっていないか。
守られているのは、本当に子どもの心の安全なのか。
それとも、大人が傷つかないための安心なのか。
僕が大事にしたいのは、「抱っこは良い」「抱っこはダメ」という二択ではなく、目の前の子にとって何が必要かを、その都度ていねいに考える姿勢のほうだと思っている。
必要な子もいれば、必要としない子もいる。
同じ子でも、その日によって違う。
だから本当は、ルールだけに頼るのではなく、「この子の安心への入口をどう守るか」と「場としての安全」を両方見ながら、迷い続けるしかないのかもしれない。
その迷いはしんどいけれど、そのしんどさの先にしか見えないものがある気がしている。
全文はこちら→「安全のために」って言われたとき、子どもの安心はどこへ行くのか
不登校の子どもたちと関わっていると、
「どうやったら学校に戻れるか」
という問いが、あまりにも当たり前に置かれている場面をよく目にする。
校内フリースクールでも、話し合いの形はとっていても、
最初から「教室に戻る」ことを前提にした選択肢が並ぶことが多い。
その空気の中で、子どもたちは静かになり、
本音を飲み込んでしまう。
先生がいなくなってから聞くと、
「時間なんか決められたくない」
「その日にならないと分からない」
そんな声が、普通に出てくる。
一方で、皿回しを持って行ったときの子どもたちはまったく違った。
やり方は一つじゃない。
聞いてからやる子もいれば、触りながら覚える子もいる。
肘を閉じた方がいい子もいれば、頭の上まで持ち上げた方がやりやすい子もいる。
失敗して、工夫して、また試す。
できるようになった子は、自然と他の子に教え始める。
最後の一人ができた瞬間には、
まわりの子たちが自分のことのように喜ぶ。
そこには、学校に戻らなくても確かに回っている学びがあった。
YouTubeをきっかけに、
「放射線って何?」と質問してきた完全不登校の小3の子もいる。
画面の向こうの出来事が「なんで?」に変わった瞬間から、
その子なりの学びはもう始まっていた。
体験して、振り返って、意味づけして、また試す。
いわゆる体験学習サイクルは、
教室の中だけで起きるものじゃない。
だからこそ思う。
不登校の子を「戻す対象」として見るよりも、
学校の外でも学びが回る環境を、
もっと当たり前に増やしていけたらいい。
全文はこちら →不登校は「問題」なのかーー皿回しと体験学習サイクルから考える学びの場所
年が明けてしばらくたったとき、ふと気づいた。
今年の抱負をまったく考えていなかった。
毎年のように「今年はもっと〜しよう」「心機一転がんばろう」と言葉にしてきたはずなのに、今年はそれすら忘れていた。
そこで、「そもそも、なんで抱負を考えないといけないことになっているんだろう」と疑問が浮かんだ。
世の中は、年明けとともに一気に「切り替えモード」に入る。
新年の目標やテーマがあふれ、「ここで変わらなきゃいけない」という空気が生まれる。
けれど、冷静に見れば、12月31日の自分と1月1日の自分はほとんど同じだ。
カレンダーの数字が変わっただけなのに、「去年」と「今年」に自分を切り分けた瞬間、理想の今年の自分と、現実の自分とのギャップが生まれる。
そのギャップが大きいほど、スタートから苦しくなる。
目標を立てることやスモールステップは、本来は自分を支えるためのものだと思っている。
ただ、「去年の自分はダメだったから変わらないといけない」という自己否定から始まった目標は、うまくいかなかったときに自分を傷つける材料になってしまう。
年始の空気に押されて慌てて決めた目標も、自分のペースや余裕を見ないまま置いたハードルになりやすい。
行動変容モデルという理論では、人が変化していくプロセスには段階があるとされている。
すぐに動ける人もいれば、まだ動くつもりがない人、気になり始めた人、準備をしている人もいる。
全員が同じタイミングでスタートラインに立っているわけではない。
それなのに社会全体が「ここから心機一転」と合図を出すと、まだ準備が整っていない人ほど取り残されたように感じてしまう。
不登校の子どもたちと関わっていると、「今のままでもいいよ」と心から思えた瞬間に、その子の表情や言葉が少し変わる場面がある。
そこからすぐに大きな一歩が出るわけではない。
けれど、その静かな変化が、次の動きの土台になっていく。
変わるかどうかより前に、「今の自分をどう見るか」が問われている気がする。
年が明けたから変わらないといけないわけではないし、変わるタイミングは自分の内側で決めていい。
「変わらなくてもいい」と思えたとき、その瞬間からすでに静かな変化が始まっているのかもしれない。
全文はこちら→年明けに変わらなくてもいいと思えたこと
最近、子どもたちと関わる中で「本質って何だろう」と考える場面が増えた。
目に見える結果――成績や行動だけを拾ってしまうと、子どもがその瞬間どんな気持ちでいたのかが抜け落ちてしまう。僕が大事にしている“本質を見ようとするまなざし”は、その奥にある気持ちや願いにそっと目を向ける感覚に近い。
ある日、保護者の方が「ゲームばかりで大丈夫でしょうか…」と不安をこぼしてくれた。
その表情には、子どもへの心配と、どう支えればいいのか迷う気持ちが滲んでいた。
僕は「本当に好きなら将来の道につながることもありますよ」と伝えた。
それが正しい答えかどうかは分からない。でも、その方の表情が少しだけ緩むのを見て、“見方が1つ増えるだけで救われることがある”と改めて感じた。
僕は何かを決めるとき「本当にそうだろうか」「他の可能性はないだろうか」と自分に問いかける。
焦りや不安が強いときほど、この問いが消えてしまい、本質が見えなくなる。
立ち止まる余白を持つことは、子どもたちの声を受け取るためにも欠かせないと思っている。
そして最後に判断を振り返るとき、僕がいちばん大切にしているのは“子どもたちの笑顔がそこにあったかどうか”。
それは大声で笑う顔だけじゃなく、ほっとした表情や、安心して力が抜けた顔も全部ふくまれる。
その笑顔が生まれていたなら、その時間にはきっと意味があったと僕は信じている。
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最近、「ChatGPTにブログを書かせるのはどうなんだろう」という話をよく見かけるようになった。
それを見て、否定された気がしたわけでも、腹が立ったわけでもない。ただ、「AIを使っている」という理由だけで、中身を読む前に離脱されてしまうのは、少し悲しいなと思った。
実際、僕はChatGPTを使ってブログを書いている。
でもそれは、考えることを任せているという感覚とは少し違う。
自分の中にある考えを言葉にするのは、思っている以上に難しい。
だから一問一答の形で問いを投げてもらい、自分の中で内省が起きるきっかけとして使っている。
また、考えが散らかって途中で書けなくならないように、「今どこを話していて、最後どこに戻るのか」という地図を外に置く感覚でも使っている。
一方で、はっきりと線を引いているところもある。
自分が体験していない事例を、体験談のように書くことはしない。
AIが勝手に作ったオリジナルを、自分の言葉として出すことはできない。
そこは、自分が引き受ける部分だと思っている。
調べ物として使うことはある。
理論や他の事例を知るために使うこともある。
ただ、その情報をどう受け取り、どう考え、どう書くかは、自分で決める。
この使い方が正解だとは思っていない。
ただ、僕はこういうスタンスでブログを書いている、という自己開示として書いてみた。
※全文の方には、今回ブログを書いたChatGPTとのやりとりのリンクも載せています。
興味のある方は、そちらもあわせて読んでもらえたら嬉しいです。
👉 全文はこちら
不登校が過去最多。
そんな言葉を目にすることが増えた。
でも僕自身は、その数字を見て強い危機感を覚えることはあまりない。
むしろ「学校を休みたい」と言いやすくなっただけなんじゃないか、という感覚のほうが近い。
ただ一方で、不登校の人数が「問題」として語られている構造は、今も変わっていないとも感じている。
数字が増えたことそのものよりも、「増えたことが問題として扱われる」ことで、当事者が説明する側に回ってしまうこと。
そこに、しんどさが生まれているように思う。
背景には、「学校は行くもの」「行かなければならないもの」という前提がある。
善意や心配から出た言葉であっても、この前提が強いほど、行けない子は自分を責めやすくなる。
肩身の狭さは、その子の弱さではなく、選択肢が一つしかない構造から生まれている。
不登校の子どもたちと話していると、
「やりたいことなんてない」
という言葉を聞くことがある。
でも僕は、その言葉をそのまま受け取らない。
本当に何もないのか、言っても無駄だと思っているのか、心に余裕がなくて見つけられていないのか。
理由は一つじゃない。
だから僕は、「やりたいことを見つけよう」とは言わない。
代わりに、
「好きなこととか、やってて楽しいなって思うことはある?」
と聞く。
そうして話していると、「ゲーム」や「動画」という言葉が、具体的な名前に変わっていく。
抽象だった世界が、少しずつその子自身のものに戻ってくる。
このとき大事にしているのは、結論を急がないこと。
「学校に行きたくない」と言われたとき、
「でも行かないといけないでしょ?」と返すのか、
「今、行きたくない気持ちなんやね」と受け止めるのか。
その違いは、とても大きい。
話を聞くというのは、答えを出すことじゃない。
答えの出ない感情の前に立ち止まる、という姿勢そのものだと思っている。
不登校が問題かどうかよりも、
その子が今、どう感じているか。
そこを置き去りにしたままでは、先には進めない。
学校以外の選択肢が当たり前になったとき、
不登校という数字の見え方も、きっと変わっていく。
全文では、こうした考えを、現場での関わりを交えながら、もう少し丁寧に書いています。
👉 全文はこちら
不登校の子どもたちと関わっていると、
その子なりのペースで少しずつ回復していく“流れ”がある。
僕はポリヴェーガル理論を手がかりに、
その変化を「氷 → 危険・回避 → 安全」という段階で見ている。
最初は、動けなくなる時期がくる。
食欲が落ちたり、布団から出られなかったり。
好きだったことも手につかなくて、
ただ休むことしかできない時期だ。
でもこれは怠けじゃなく、身体が守ろうとする反応だと感じている。
次に、感情が揺れやすくなる時期がくる。
ゲームで負けただけで泣いたり、
言葉が荒くなったり、
動きが大きくなったり。
これは、エネルギーが戻ってきた証でもある。
扱いきれずにあふれてしまっているだけなんだ。
そして、緊張がゆるんでくると、
子どもの中に少しずつ余裕が生まれてくる。
この頃に「暇」と言うことが多い。
暇は怠けじゃなくて、
“やりたいことを探せる余白”ができてきたサインだと思う。
この時期に僕はよく
「こんなんやってみる?」
と軽い提案をそっと置く。
乗ってもいいし、乗らなくてもいい。
選べる状態に戻ってきていることのほうがずっと大切だ。
安心が戻ると、
「○○やってみたい」という声がふっと出てくる。
遊びの中で工夫が生まれたり、
表情や反応がやわらいだり。
これは安全モードが戻ってきたサインだ。
動けない日も、
泣く日も、
暇と言う日も、
「やってみたい」が戻る日も、
全部ひとつの流れの中にある。
どれか一つが欠けているんじゃなくて、
全部つながって、
子どもは自分の力で回復していく。
その道のりを信じて、
焦らずにそばにいてほしい。
全文はこちら↓
今回の自然学校では、これまでとはまったく違う空気が広がっていた。
子どもたちはお互いに関心を持たず、誰かが困っても助けようとしない。
失敗した子を馬鹿にして笑うような場面もあり、そこに信頼の芽は見えなかった。
信頼は、最初からあるものではなく、経験の中で少しずつ育つものだ。
誰かに受け止めてもらったり、裏切られなかった記憶を重ねることで、
「人を信じてもいいかもしれない」という感覚が生まれる。
けれど、それを感じる前に傷ついてきた子どもたちにとって、
信じることは安心ではなく“リスク”になってしまう。
今回の子どもたちの中には、そんな不安が行動として表れていたように思う。
誰かを笑ったり、無視したりするのは、ただ意地悪なのではなく、
自分が傷つかないための小さな防衛反応かもしれない。
そう考えると、「信じられない子たち」ではなく、
「まだ信じることを知らない子たち」だったのかもしれない。
さらに、全体には「自分のことだけしていればいい」という空気があった。
誰かが頑張っても、周りは関わろうとしない。
その背景には、“任された経験”や“託された喜び”の少なさがあるように感じた。
責任が生まれない場では、信頼もまた育たない。
だからこそ、誰かと協力して何かを成し遂げる体験が欠かせない。
そんな中で、一度だけ場の空気が変わった瞬間があった。
野外炊飯で散らかった藁を、取りまとめ役のリーダーが「10分だけ全力でやってみよう」と声をかけたとき。
その一言で、子どもたちは一斉に動き出し、声をかけ合いながら場を整えた。
たった10分だったけれど、そこには“協力の手応え”が確かにあった。
一緒にやればできる――その体験が、信頼の芽を生んだように思う。
信頼を育てるというのは、相手を変えることではない。
「この人となら大丈夫かもしれない」と思えるような、
安心と達成感を少しずつ積み重ねていくこと。
信頼を語る前に、まずはその“土”を耕すことが必要だ。
その地道なプロセスの中にこそ、人と人がつながる道がある。
子どもたちと関わっていると、
「整えること」より「信じて待つこと」の方が大事だと感じる瞬間がある。
少し乱れていても、すぐに正そうとはしない。
信じて待つ時間の中で、子どもたちは自分の力で立ち上がっていく。
支援とは“してあげること”ではなく、“信じて見守る勇気”なんだと思う。
人が変わるのは、知識を得た瞬間ではなく、心が動いた瞬間だ。
涙も、笑いも、沈黙も、どれもその子が生きている証。
感情が動くとき、人は少しだけ自分を知っていく。
感じ方に正解はない。
怒ってもいいし、笑いすぎてもいい。
そのままの自分でいられる空気の中で、
子どもたちは「感じる力」を育てていく。
成長とは、揺れを生きる力。
悩みながらも自分の足で前に進もうとする姿に、
人としての強さとやさしさが宿っている。
揺れの中でこそ、人は育つ。
正しさではなく、生きることを信じていきたい。
全文はこちら
