と き:令和5年5月3日(水・祝)  14:00~16:00(開場13:20)
ところ: 大阪府神社庁会館 5階(℡06-6245-5741)
◇大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺6号 地下鉄「本町」駅15番出口西徒歩1分
テーマ:「国難迫るー急げ、憲法に国防条項・緊急事態条項の明記を!」
プログラム:
講演① 西田昌司氏(参議院議員・自民党憲法改正実現本部副本部長)
講演② 三木圭恵氏(衆議院議員・日本維新の会幹事長代理)
意見交換 〈コーデネーター〉 柳本 顕氏(衆議院議員・自民党)
参加費: 1.000円(大学生以下500円)
参加申し込みFAX:06-6243-1682(申し込み締め切り 4月28日金曜日)
主 催: 美しい日本の憲法をつくる大阪府民の会
後 援:日本会議大阪/神道政治連盟大阪府本部
お問い合わせ先:℡06-6245-5741

私が民族派の学生運動をしていた頃に貪るように読んだ本ばかりです。
私自身が特に思い入れのあるのは『憂国の論理』です。
全国学協(全国学生自治体連絡協議会)編集のこの本には

三島由紀夫先生の講演筆録である

「日本の歴史・文化・伝統に立って」が掲載されていますが、

私のブログの「松本恭助の日本の歴史・文化・伝統に立って」は

ここから取ったものです。
『殉国の教育者』も思い入れのある本です

沖縄戦の学徒隊の事や、蓮田善明や、藤田徳太郎を知ったのは

この本からでした。

『対話・日本人論』は三島由紀夫先生の思想研究には

絶対に欠かせない本だったので、

古本屋で手に入れたときの喜びは今も覚えています。

特攻隊の方々の遺書が三島由紀夫先生の決起に

結びついていると確信を持った一冊でした。

『浪曼人・三島由紀夫』は三島由紀夫先生の思想研究において

本当に示唆に富んだ文章が多数あり、

とても勉強になった一冊です。

 

私のブログの読者の皆様、本当にご無沙汰しております。

先月の11月19日に「自衛隊追悼式」で

宇都隆史参議院議員のfacebookの記事を

転載させて頂きましたが、

その投稿は実に2年ぶりの投稿でした。

ただ、その2年前の投稿というのが

「13秒後のベイルアウト」という過去のブログ記事のリブログで、

2年前は実質、日本会議大阪・大阪市支部総会に

小川榮太郎氏が記念講演に来られることを

宣伝した記事の投稿1本だけで、

その前はというとさらに2年前の投稿にさかのぼります。
私がこのブログを始めたのは10年以上前のことですが、

当時は民主党政権下で、参議院議員選挙を前に

たちあがれ日本が結党された頃でした。

また、私の息子が防衛大学校に入校していたこともあって、

政治に関する記事や防衛大学校・自衛隊に関する記事が多く、

同じように保守的な考えを持つさんフォロワーさんが増えて行き、

私も同じ様にフォローさせていただいておりました。
その後、民主党政権の打倒に成功し、自公政権が誕生したわけですが

私はと言うと日本会議大阪の事務局の方から

大阪市支部の結成にあたり幹事就任を打診されていました。
実は日本会議の前身の一つである日本を守る国民会議において

私は大阪の事務局次長をしておりました。
日本会議が結成されて、新しい体制になったのを機に

私は事務局を辞し、自分の仕事に専念させて頂くことになりました。

それが20数年の時を経ると、日本を守る国民会議時代の

大阪市内在住の役員の方々がほとんど鬼籍に入られてしまっており、

大阪市支部結成にあたり、当時を知る唯一の人間である私に

白羽の矢が当たったという事だったようです。

そうこうしている内に、大阪市支部の幹事だけでなく、

日本会議大阪の運営委員も兼任するようになり、

もうブログどころではなくなったというのが正直な所でした。
久しぶりにブログを覗くと、昔のフォロワーさんには

やはり消えてしまっている方、名前はあるけれど私同様更新のない方、

見覚えはあるけれど名前が変わっていて誰だったか思い出せない方、

相変わらず精力的に更新し続けておられる方がいらっしゃいました。

ブログを相互フォローしている方で実際にお会いした方では

まだ2人の方がブログを続けておられますが、

そのお一人の方から先日、オフ会に誘って頂きました。
ここ4年ほどろくにブログを更新しておりませんでしたが、

私の事を忘れずに誘って頂けたことは本当にうれしく、

もう何年もお会いしていなかったこともあったので

出席させて頂くことにしました。

当日出席された方は、誘ってくれた方以外は初対面でしたが、

中には以前からブログをフォローして頂いている方もいらっしゃいました。

今はコロナ禍の影響で仕事も日本会議の活動も停滞気味ですが、

来年からはいろんな意味で活動を再開することになりそうです。

なかなかブログを更新することはできないかもしれませんが、
また忘れた頃に何か書くかもしれませんので、

長い目で見てやってください(笑)

以下は本日の宇都隆史参議院議員のfacebookの記事からの転載です。


【自衛隊追悼式】

早朝9時より、防衛省殉職隊員慰霊のため、事前献花に行って参りました。

(本日は自衛隊追悼式なのですが、コロナ対策のため来賓等は縮小されているため、希望者は事前献花が許されました)

今回祀られたのは18柱、うち12名が「過重な業務等ににより殉職」された隊員です。

その中に忘れられない隊員の名前がありました。

植﨑廉偲(うえさきれんし)2尉です。

彼は今年の2月、米国留学中の飛行訓練事故によって殉職されました。

享年25歳の若さでした…。

数年前、防衛大学校の卒業式午餐会にて、あるお母様が父兄を代表して以下の様なご挨拶をなさいました。

「本人も国防という崇高な使命を担う覚悟を持って任官したでしょうが、親としても危険な任務や過酷な訓練等で、息子が命を落とすことになるかもしれないことを悩みに悩んで、とても重たい覚悟を持って送り出すことを決意しました。

わざわざ危険な任務に就くこと選択した息子は親不孝者ですが、私はそんな素晴らしい息子の親になれたこと、息子がこんなに立派に育ってくれたことを心から誇りに思います」

そんな内容のスピーチで、会場は割れんばかりの拍手と感動に包まれました。

その息子というのが、植﨑廉偲君なのです…

訃報を聞いた防衛省の担当者がご両親へご報告申し上げた際、お母様は「覚悟はしていたけれど、あまりにも早すぎる」と落涙されたとお聞きしました。

皆さんにご理解していただきたいことがあります。

自衛官は不死身のスーパーマンでも、修理可能なサイボーグでもありません。

怪我をすれば血の出る生身の人間です。

だから、危険な業務に当たれば、当然死ぬ事もあり、それを覚悟もしています。

でも、その背後には、彼の無事を祈り続ける両親、兄弟姉妹、無事の帰りを待ち侘びる妻や夫、子供達がいるという事を決して忘れないで下さい。

だからこそ、国防という危険で崇高な仕事に従事してくれる自衛官には「感謝の誠」を捧げ、国や社会をあげて大切にしなければならないのです。

18柱の御霊に、改めて心からの哀悼の誠を捧げると共に、現職自衛官の皆さんのご活躍とご武運長久を心から祈って参りました。

 

 

私も息子が防衛大学校に入校した時から、もしもの時の覚悟はしています。
息子の防衛大学校の同期生も航空自衛隊幹部候補生学校を卒業した翌年に殉職しました。
その事があってから、私は関係者ではないので自衛隊追悼式には行けませんが、

防衛大学校開校祭に行けるときは、防衛大学校関係物故者顕彰碑の前で

黙祷を捧げるようになりました。

今年の開校祭は先日11月13・14日に開催されましたが、コロナ禍ということもあり、

現役学生の父兄のみ入場できるという事で行く事ができませんでした。

明日は東京に行く予定ですので、靖国神社に参拝して祈りを捧げたいと思います。

 



 

しばらくご無沙汰しておりました。
 

さて、今月の28日(土)は大阪府神社庁会館におきまして

午後1時半より日本会議大阪・大阪市支部の総会が開催されます。

 

記念講演は

「平成史の振り返りを通じた次世代日本への道

令和はどうあるべきか

~安倍政権の方向性や日本の進むべき道について~」
と題して、文藝評論家の小川榮太郎氏の予定です。

 

総会は日本会議大阪・大阪支部の会員以外の方でも、

前もってお申し込みいただいたら参加できるとの事です。

お申し込みは大阪市支部事務局の田蓑神社(たみのじんじゃ)

FAX06-6471-5059まで。

 

小川榮太郎氏のお話は私も大いに関心がありますので、

仕事を休んで出席する予定です。

 

皆様も是非奮ってご参加を!

毎年11月1日の自衛隊記念日と前後して、防衛省をはじめ全国各地で

自衛隊殉職隊員追悼式が行われます。

 

 

今年の防衛省における追悼式では、新たに25柱の殉職者の名が銘板に刻まれ

殉職自衛隊員は1934柱となりました。

 

防衛大学校でも毎年、開校記念祭の初日の土曜日に顕彰碑献花式が行われます。

今年は今月(11月)の11日(土)、第65回防衛大学校開校記念祭で献花式がありました。

 

私が初めて防衛大学校の開校記念祭に行ったのは、

息子が入校した第1学年の年の第55回だったので、

ちょうど10年前(平成19年)になります。

 

そのとき私は2日目の日曜日に行ったので、顕彰碑献花式のことは知らず、

観閲式が終わって棒倒しが始まるまでの時間に昼食をとり、

防衛大学校資料館を見学したりしていました。

資料館の中を隈なく廻っていると、2階の奥に少し薄暗い部屋があり、

扉が開いていたので私は何も考えずに入室したのですが、

中を見て非常に驚きました。

そこは防衛大学校関係殉職者が祀られている部屋でした。

 

 

殉職された順に装飾された顕彰盤が安置され、

氏名、享年月日、殉職時の状況等が

銘板に刻まれているようでした。

 

防衛大学校を卒業し任官するのは

陸上、海上、航空自衛隊の順に多いのですが

殉職された方は逆に

航空、海上、陸上自衛隊の順に多いことを知りました。

 

この資料館は平成17年にできると同時に

2階の一番奥の部屋を「顕彰室」とし、

当時59柱の殉職者の名簿が奉納されたそうです。

 

 

私は初めての開校記念祭でしたので、身軽に普段着のまま行ったのですが、

顕彰室があることを知って、「この部屋にはこんな服装で入ってはいけない」と思い、

翌年の開校記念祭からはスーツとネクタイで行くことにしました。

 

翌年の開校記念祭で資料館の2階にあがると、顕彰室の扉は閉め切られていました。

どうやら、関係者以外は入室できないようになったようでした。

少し残念な気もしたのですが、開校記念祭のリーフレットを見ていると、

土曜日の午後に顕彰碑献花式というのがあることに気づきました。

2度目の開校記念祭も日曜日だけの参加でしたので、

献花式を見ることはできませんでしたが、

顕彰碑というのがあることを初めて知りました。

 

リーフレットに顕彰碑は防衛大学校人文科学館南側とあり、

校内案内図を見ながら足を運んでみることにしました。

 

 

土曜日の献花式で建てられた仮設テントの奥に顕彰碑はあり、

前日の献花式の花がそのまま飾られていました。

 

それ以降の開校記念祭では、顕彰室に入ることはできませんが、

土曜日の献花式(これも関係者のみ)には、外から献花式の様子を見守り、

開校記念祭が終わり、防衛大学校を出る前には

必ず顕彰碑に立ち寄り、黙祷を捧げてから帰るようになりました。

 

今年の開校記念祭で資料館の2階にあがったところ、

顕彰室の前にはイスが並べられていました。

献花式出席者のためのものだとすぐ分かりました。

そして顕彰室を見ると、関係者以外立ち入り厳禁の表示がありましたが、

右側の出入り口の扉が開いていたので、

扉の外から10年ぶりに中の銘板を見ることができました。

今年度は防衛大学校関係の殉職者は出なかったそうですが、

それでも100名近くになっているそうです。

つまり、資料館ができて12年の間に約40名の関係者が

殉職しているということになります。

現職の自衛隊員23万人中、防衛大学校卒業生は1万人にも満たないわけですから、

1934柱のうちの約100柱が防衛大学校関係者ということは、

やや多いのかなという印象を持ちました。

 

また、顕彰室は顕彰碑献花式に参列された方々のうち

希望者のみが入室できるということも今回知りました。

 

私は今年で開校記念祭は最後になるかもしれませんが、

来年以降の開校記念祭に参加される心ある方は

是非、お帰りになる前にでも顕彰碑の前で

黙祷を捧げていただけたらと願っております。

平成26年3月22日、防衛大学校の卒業式において安倍総理大臣は

訓辞の冒頭で次のように述べられました。

「本日、伝統ある防衛大学校の卒業式に当たり、これからの我が国の防衛を担うこととなる諸君に、

心からお祝いを申し上げます。

卒業、おめでとう。

諸君の、誠に凛々しく、希望に満ち溢れた勇姿に接し、自衛隊の最高指揮官として、心強く、頼もしく思います。

また、学生の教育に尽力されてこられた、國分学校長をはじめ、教職員の方々に敬意を表します。

日頃から防衛大学校に御理解と御協力を頂いている御来賓・御家族の皆様には、心より感謝申し上げます。

本日は、諸君がそれぞれの現場へと巣立つ、良い機会ですので、内閣総理大臣、そして自衛隊の最高指揮官として、

一言申し上げさせていただきます。

今日は22日。15年前の11月、中川尋史空将補と、門屋義廣一等空佐が殉職したのは22日でありました。
まずは、諸君と共に、お二人の御冥福を心よりお祈りしたいと思います。」

 

防衛大学校の卒業式でこの2名の殉職自衛官の話が出たのは2度目。

最初は平成13年の卒業式で、当時富士通名誉会長だった

故・山本卓眞氏の来賓祝辞の中ででした。

 

防衛大学校卒業式という晴れがましい席で

何故、殉職された自衛官の事が語られるのか。

ある程度の年齢で、自衛隊に理解のある方ならご存知の方も多いのですが、
平成生まれの若い方はほとんどが知らない話だと思いますので、

今日はそのことについて書いてみたいと思います。

 

平成11年11月22日13時02分 

中川尋史2等空佐(47歳、階級は当時)と門屋義廣3等空佐(48歳、同)の乗ったT-33Aが航空自衛隊入間基地を離陸。

中川2佐は平成10年の戦技競技会に第6飛行隊長として出場して優勝を飾り、指揮幕僚課程を履修するエリートでした。

門屋3佐も人格・指揮能力・空戦技術など全てに優れた戦闘機パイロットに与えられる称号"ベストガイ"の初代に選ばれた方でした。

2人は航空学生出身で、中川2佐の総飛行時間は5,228時間、門屋3佐の総飛行時間は6,492時間。

2,000時間以上の飛行経験者はベテランといわれる戦闘機パイロットの世界において

2人は超ベテランのしかも大変優秀なパイロットでした。

この日は、指揮幕僚課程に進んだために内勤となっていた中川2佐の年次飛行

(パイロットが内勤などになった場合、技量を維持するため年間に定められた飛行時間を確保し飛行訓練する)

にあたり、中川2佐がコクピットの前部に乗り、機長として操縦桿を握り、

現役パイロットの門屋3佐がその教官として後部座席に同乗していました。

 

13時11分  入間基地北方の訓練空域において訓練開始。

 

13時32分  訓練を終了し、入間基地への帰投開始。

 

13時36分 入間基地管制塔と通信設定。

 

13時38分  マイナートラブルの発生を通報、滑走路への進入ポイントへの直行を要求。高度約2,500フィート(約760メートル)

 

13時39分02秒  「ちょっと えー振動、えーと 変な音がしてオイルの臭いがしますので降ります。」(日本語による通信。交信記録ママ。)

高度約2,300フィート(約700メートル)

 

13時39分49秒 コックピットでの煙の発生を通報、直線進入による着陸を要求。高度約2,500フィート。

 

13時40分14秒 緊急事態を宣言。高度約2,200フィート(約670メートル)

 

13時40分53秒 管制塔からのこのまま着陸させてよいかの問いに対し「大丈夫だと思いますが。」

 

13時41分14秒 管制塔からの照会に対しコックピットでの煙を再度通報。高度約2,500フィート。

 

13時42分03秒  管制塔からの着陸許可と脚下げを確認。高度約1,200フィート(約365メートル)

 

13時42分14秒  ベイルアウト(緊急脱出)を通報。高度は約1,000フィート(約328メートル)

            このあたりで事故機は急速に降下。ベイルアウトが間に合うぎりぎりの高度にまで下がっていた。

 

ところが、その13秒後・・・・

 

13時42分27秒に何故か再度ベイルアウトの通報があり、これを最後にT-33Aからの連絡は途絶えました。

 

 

航空自衛隊入間基地管制塔の願いも空しく、事態は大変なことになっていました。

2人がベイルアウト(緊急脱出)した機体は、地上約200フィート(約60メートル)の高さにある超高圧送電線に接触。

送電線5条をを切断した後、機体は約90メートル離れた入間川河川敷の狭山リバーサイドゴルフ場コース内に墜落、炎上。

炎上した機体は14時25分に鎮火しましたが、送電線切断で南狭山線と併設されている日高線が停止したことにより、

埼玉県南部及び東京都西部を中心とする約80万世帯が停電し、それに伴い道路信号機や鉄道網は麻痺。

また、切断により送電線が落下し停められていた車を損傷させたほか、家庭電化製品の故障、家屋屋根損壊、

パソコンの故障及びデータ損失、不動産被害(ゴルフ場、畑)、工場の機械故障、パチンコ店営業被害、スーパー生鮮食品等被害、

商店レジ故障、錦鯉の酸欠死等の被害が続出しました。

 

そしてベイルアウトした2人の自衛官は死亡が確認されました。

 

この事故直後、マスコミ・新聞各社は当然のごとく自衛隊を叩きました。

「自衛隊がまたも事故」「送電線を切断。80万戸が停電」

「すぐそばに住宅地。一歩間違えば住民を巻き込む大惨事の可能性」と・・・・・

T-33Aは練習機だったため、操縦していた自衛官の腕が未熟だったという憶測もあったようです。

しかし、近隣住民の目撃証言もあり、調査が進むとそこには驚愕の事実が浮かんできました。

 

13時39分49秒 コックピットでの煙の発生(コックピットスモーク)を通報

このとき機体は基地まで18kmの地点にあり、直線距離の最短コースて基地への帰還を連絡。

しかし、機体内部では燃料ホースが破れ、そこから漏洩した燃料がコントロールユニツト付近で発火していました。

13時40分14秒 緊急事態(エマージェンシー)を宣言。

エンジントラブルは思ったよりも深刻で、機体は降下し始めます。

近隣住民の証言によると

「プスンプスンと変な音を立てながら、機体が降下して行った。エンジン音はしなかった。」

「飛んでいるときのエンジン音は無かった。」と

エンジンは既に止まっていたと考えられます。

急激に高度が低下し、基地まであと4kmの地点で高度1,000フィート(約360メートル)に降下。

ベイルアウト(緊急脱出)し、パラシュートが開いて無事地上に着陸するにはぎりぎりの高度でした。

そして13時42分14秒 中川2佐からベイルアウト(緊急脱出)の通報がありました。

 

ところが、その13秒後の13時42分27秒 管制塔が再び中川2佐からの「ベイルアウト」の言葉を受信します。

つまり、最初のベイルアウトの通報で2人は脱出していませんでした。

そして13時42分36秒、T-33Aは地上約100フィート(約60メートル)の送電線に接触し、

入間川の河川敷に墜落・炎上しました。

 

近隣住民の目撃情報によると、T-33Aが送電線と接触する直前、

乗員の1人が脱出。後部座席の門屋3佐でした。

そして、中川2佐が脱出したのは送電線と接触した瞬間だったようです。

門屋3佐はパラシュートが半開きの状態で地面に墜落して死亡。

中川2佐はパラシュートが開いておらず、送電線のほぼ真下で発見されました。

 

事故の翌年4月、航空自衛隊の事故調査委員会の調査結果の発表によると

中川2佐が最初に「ベイルアウト」を通報した時、

機体は狭山市の東京ゴルフ倶楽部及び西武学園文理中学校・高等学校付近の上空にあり、

柏原ニュータウンの住宅地が前方に、河川敷は更にその先の左手に位置していました。

実際に、事故機の飛行経路からは通報後に河川敷に向けてコースが修正されていることが確認でき、

仮にこの修正がないまま機体が針路を直進した場合、柏原中学校付近の住宅地に

墜落していた可能性があったのです。

 

一度は「ベイルアウト」を通報した中川2佐でしたが、

エンジン停止の状態の中で操縦桿を離さず、機体を河川敷へとコントロールさせました。

ベテランパイロットですから、それが何を意味するわ分からないはずはありません。

そして、人の住んでいない入間川の河川敷まで機体を運び、墜落ぎりぎりまで踏ん張り続けました。

送電線を切断して80万戸を停電させたことは事実です。

しかし、民間人の生命に被害が及ぶことを防ぐために

自分らの命と引き換えに最後の13秒を戦ったのも紛れもない事実でした。

 

これは余談になりますが、ベテランパイロツトの2人がペイルアウトしたとき、

既に絶望的な高度まで降下していたのは承知していたと思われますが、

それでもやはりベイルアウトしたのは何故でしょう?と、

ある新聞記者が航空自衛官に尋ねました。

するとその自衛官は、「機体を整備した整備士のためだと思います。

脱出しなかったら、脱出できなかったのではないかと整備士は責任を感じるでしょう。

私も例え無理だと分かっていても、やはりそうするでしょう。」と答えたという。

 

自衛隊法第5章 隊員 の 第4節 服務 に

次の規定があります。

 

隊員は、防衛省令で定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。

 

防衛大学校の卒業式はその第2部において、

陸海空自衛隊に曹長として任官する卒業生の

曹長任命式があり、全員で服務の宣誓をします。

自衛隊最高指揮官である総理大臣の前で

服務の宣誓をするのは防衛大学校だけだと思いますが、

その宣誓文は以下の通りです。

 

                             宣 誓
 私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、

一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、

政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、

身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。

 

殉職した2人の自衛官は、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、

もって国民の負託にこたえ」ようとした自衛官の姿であったということなのです。

 

今年も明日あさってと防衛大学校開校記念祭が行われます。

実は私も大阪から行く予定にしています。

多分、これが本当に最後になるかもしれません。

家が近くなら毎年でも行きたいのですが、

防衛大学校OBの息子が来年は東日本方面隊から

異動になってしまうのです。

年に1度の旅行でしたが、今年で最後と言うことで

目一杯楽しんできます。