書店の棚を眺めていると、
「一流の〇〇」
「超一流の人の〇〇」
「一流になる〇〇の仕方」
なんて本がよくあります。
私も一流になれたら嬉しいので、よくそれを手にとったりします。
けれどそんな本を何十年も読んできて、いまだ一流になれないということは、やり方がまずいのか、そもそも無理なのか(笑)。
また、残りの人生で、果たして一流になれるのかしらん?と、ふと立ち止まります。
だけど、そもそも一流ってなんだ?
よく考えたら分かったような分からないような言葉です。
ふんわりとイメージするのは、
スペシャルにすぐれた人や、特別な地位にある人や、いわゆる上流階級とか、世間で言われる上級国民とか、そんな感じでしょうか。
ただどうもこのイメージ自体に、私のやっかみが入っているように思います。
で、広辞苑をひくと、
- 第一等の地位。最もすぐれている段階
- 一つの流派
- 他とは違う独特の流儀
と出ています。
となると、上流階級や上級国民のイメージではなく、
何かのことで、スペシャルだったり、ユニークだったりすればいいわけですよね。
なら、自分にもまだ道は残されていそうです。
ただこの、スペシャルやユニークになるのも、時間も労力が要りますので、他の人たちがすでに何十年も研鑽や努力を積み重ねてきたことには、なかなかおよばない。
「いまさら」なんて言葉も浮かびます。
さて、どうしたものか。
私の人生には、一流、はありえないのか?
どうがんばったって、二流、三流で終わるのか?
実は先日、そんなことをぼんやりと考えていたら、
自分にもまだ残された「一流」への道がある、と気がづきました。
まずはひとつは、
「一流のジジイになる」
これ、まだ出来そうな気がします。
いろんな意味で、ジジイを極める。
「あのじいさん、孫には優しいんだよな」
「あのじいさん、もの忘れひどくてよ!」
「あのジジイ、意外と物知りでさ」
「だけどあのじいさん、けっこうホラ吹くよ」
「ほんと、クソジジイー!」
「面倒見はいいよな」
「チョー スケベジジイ!」
なんていう、世間のジジイ像を網羅するジジイ。
包括的G産計画。
「一流のジジイになる」
これならできそうです。
もう一つあります。
もしも人生で一流になれないのであれば、
二流、三流を極める。
「二流の中の超一流」
「超一流な三流」
これもできそうな気がします。
「あいつはついに、三流を極めたね」
「なかなかあそこまで二流のやつはいないよな」
言われてみたいほめ言葉です。
まあ、なんにしても、何かを目指して生きるのが良さそうなのは間違いなく、
一流か二流か三流かは、世間様が決めること。
自分としては、目一杯の自分を生きて、
あとの評価は世間様におまかせすればいいのですものね。
何かを目指して、明日少しでも違う自分になる。
それを繰り返すだけですね。
今日もイイ日に。
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