今回は、僕の潔癖症ぶりについてお話させていただきます。

 

前回記事の怖い話の中で少しだけ触れさせていただきましたが、僕は案外と潔癖症です。

 

本人は極度の汗かきで、その湿気から不衛生気味にもかかわらず、そこは棚上げで、世にはびこる不潔の陰に怯えながら生活をしています。

 

電車のつり革を持てないなんて、序の口どころか、町内会のわんぱく相撲大会レベルです。

 

僕は潔癖キャリアを着実に積み上げてきていますので、電車によく乗るものの、つり革には10年以上触れたことがありません。

 

そんな僕から、潔癖症の目から見える世界について、みなさんに解説をさせていただきます。

 

 

基本的に、水回りには多くの恐怖が潜んでいます。

 

トイレなんか当たり前です。

 

誰がどう使ったか分からない公共性の高いトイレは、僕のイマジネーションを掻き立てます。

 

便器の水を流すレバーやボタン、個室のカギ、手洗い場の蛇口・・・誰がどんな手で触れたか分からない以上、最悪のシナリオを想定して、慎重に向き合います。

 

用を足し、神経をすり減らして手洗いを終えた後、目の前のトイレの入り口にドアがある場合、僕は心が折れかけます。

 

男性社会では、用を足した後に手を洗わないという、絶対に接点を持ってはいけない反社会的な勢力がのさばっていますが、その勢力の構成員が触れたものに触れるということは、その勢力に手を染めるということに等しいからです。

 

そのドアのドアノブが、ガッチリ握る必要のある丸いタイプだった時は、意識が遠のきます。

 

こっそりヤバいのは、液体せっけんの容器で下から押すタイプのやつです。

 

不潔の恐怖を消し去ってくれる魔法の液体が、必ず誰かが触れた部分を触れなくては得られないのです。

 

そして、みんなが触れる部分に接した時点で、魔法の液体は、もはや魔法の液体ではなく、潔癖症にとっては、恐怖の対象でしかないのです。

 

 

もちろん、大浴場も余裕で苦手です。

 

あったかいお湯に浸かって体をポカポカさせるのがお風呂の醍醐味ですが、それは、たくさんのお出汁が出ているということを意味します。

 

さらに、掛け湯すらせずに湯船に突入する非道の輩などを目にする度に、浴槽の中には何が入っているのか分からないという妄想が止まらなくなります。

 

社会生活を営む上で、どうしても大浴場に足を踏み入れなければならない際は、臥薪嘗胆の一念で気をたしかに持ち、退場寸前に人類の叡智の集大成とすら思えるシャワーを活用し、物理的にも精神的にも、全てを水に流します。

 

 

ここまで、反社会的勢力や非道の輩が登場しましたが、彼らの活動範囲は、決して水回りに留まるわけではありません。

 

彼らは、世界中を縦横無尽に飛び回り、各地に点在すると同時に、その爪痕を随所に残しながら生活します。

 

彼らの存在は、僕たちにとって脅威でしかなく、目に映るもの全てを疑わざるを得なくなります。

 

電車のつり革は、その象徴と言えるかもしれません。

 

僕たちには、全てをコントロールできるプライベート空間以外に心の拠り所はありません。

 

 

・・・僕たち潔癖症が生きる苦しみの世界について、多少のご理解をいただけたでしょうか?

 

この世界で生きることは、本当にタフです。

 

だけど、僕はこの世界に甘んじるつもりはありません。

 

僕たちの苦しみは、驚異的存在による蛮行の氾濫を疑う不信感に由来します。

 

蛮行の撲滅によってのみ、僕たちの世界は照らされます。

 

つまり、全人類のマナー、エチケットの徹底こそ、僕たち潔癖症が苦しみの世界から解放されるための唯一にして最大の手段なのであります。

 

つきましては、この記事も偉大なる啓蒙活動の一端であると言え、お読みいただいたみなさまのご理解、ご支持、ご支援を賜りますよう、心よりのお願いを申し上げます。

 

僕たちの真の解放を勝ち取るために粉骨砕身し、ありとあらゆる手段を尽くすことをお誓い申し上げ、また、潔癖症界のチェ・ゲバラとなることを宣言させていただき、今回の記事の結びといたします。

 

 

最後に一言・・・ネクタイの先端は、想像以上に不潔!!