【騙されていたのは、私たちの方だった】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

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旦那が見てるユー粒の音が聞こえてくるよ。

今もまだ露国悪でウクライナの悲劇と言うのを見ているっぽい。

ここに大きな思い込みの壁がある。

歴史をちゃんと学んでいる分、洗脳が深いんだろうなぁと思う。

私の脳みそには、教科書で学んだ歴史が頭に残ってないから、なんでもすんなりと入ってくるよ。

暗記のできない脳みそに感謝しておこうっと。

 

記憶力が無いのも役立ち事があるんだな、

ちゅー話。

 

ちゅーことで、

チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。

いつもありがとうございます。

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【騙されていたのは、私たちの方だった】

ソ連は貧しくて自由がない国だと、西側世界ではずっと言われてきたけれど、ソ連時代のコメディ映画、レオニード・ガイダイの「コーカサスの虜、あるいはリューシクの新たな冒険」を見ると、まったくそんな風には見えない。ソ連の人たちは、生活は保障されているけれど、ろくな品物がなくて、言論の自由もないというようなことが、西側世界ではずっと信じられてきたし、ソ連の人たちは、西側の製品に飢えていて、西側の国に逃げたがっているのだと言われていた。しかし、映画に出てくる人々は、そんな風ではまったくないのだ。

 

これは、アメリカのジャーナリスト、タッカー・カールソンが、2月にモスクワに行って、モスクワのスーパーマーケットや地下鉄を見たときのショックとも、似たものがある。言われてきたこととは、まったく違う現実がそこに見えるのだ。ないと言われてきたものが、そこにすべて当たり前のようにあったということが。

ソ連は30年前に崩壊して、ロシアはもうとっくに共産経済の国ではないのだけれど、それでもまだ西側の多くの人たちは、ロシアは貧しくて自由がない国なのだと思っている。そういう風な印象を西側メディアは与えようとして、ありとある商品でいっぱいのスーパーマーケットの画像などは出さず、どの国のいつの時代の映像なのか、空っぽの商品棚の映像を繰り返し見せている。

カールソンが、モスクワのスーパーに何がすべて売られているのかを動画で見せたとき、ロシアが貧しくて自由がないというのも、経済制裁で苦しんでいるというのも、まったくの嘘だったことが、世界中に示された。モスクワのスーパーには、西側の国で手に入るようなものは、すべて豊富にあったのだ。そして、値段もずっと安かったし、遺伝子組み換え作物がない分、品質もよかった。

 

モスクワのスーパーでの買い物がアメリカよりもずっと安いのを見せながら、カールソンは今まで騙されていたことに怒っている様子だった。ロシアが共産国で貧しいという話も嘘だったし、経済制裁で苦しんでいるという話もすべて嘘だった。それどころか今は、アメリカの街の方が貧困がひどくてスラム化している状態だ。モスクワには、ホームレスもいなかったのに。

ロシアは、ソ連崩壊後の90年代に経済が破綻して、貧困と犯罪の極みを経験したけれど、プーチン政権下で経済を立て直して、急速に復興していった。しかし、ソ連時代のロシアは、やはり貧しくて自由がなかったのだろうと、多くの人は思っていた。ソ連が崩壊して、ロシアの人々は独裁制から解放されたのだと。

 

1967年に作られたソ連時代のコメディ映画「コーカサスの虜、あるいはリューシクの新たな冒険」を見ると、ソ連についてのそうしたイメージも、実は作られたものにすぎなかったことがわかる。映画に出てくるソ連の人たちは、同じ頃のアメリカの人たちと、何ら変わりない生活をしていたのだ。服装も、家の中の風景も、店にいろいろな品物が並んでいるところも、通りを車が走っている様子も、そのまま同時期のアメリカの青春映画の場面と取り換えてもいいくらいだ。西側の文化は禁止されているみたいに言われていたけれど、それも作り話だったらしくて、人々はロックンロールをかけて、ツイストを踊っていた。

 

ソ連では、人々は共産党に支配されていて、自由がないように言われていたけれど、映画に出てくる人たちは、警察や役人や党員みたいな人たちに権威的に支配されているようにはまったく見えなかった。ナチの将校みたいな制服を着た人たちが、人々に有無を言わさず命令しているみたいなのが、共産国家だと思われていたけれど、まるきりそんな風ではないのだ。それどころか、ソ連の映画に出てくる警察官は、西側の警察官よりも、ずっと人間的なようにさえ見える。逮捕した犯罪者に対しても、裁くとか罰するとかいう感じじゃなくて、対等な人間として扱っている感じだし、何か相手に対して親身にさえなっているような感じがある。

アメリカ映画に出てくる警察の犯罪者に対する扱いとは、まったく対称的だ。アメリカ映画では、犯罪者は従わなければ撃ち殺してもいいような存在として扱われているし、警官は明らかに自分より下の人間としてあからさまに軽蔑的な態度を取っている。ソ連の映画に出てくる警察官はそんな風ではないのだ。犯罪者は、何かの理由で秩序を乱すようなことをしてしまった人たちであり、こういう人たちは罰するのではなく正すべきだと思っているかのようだ。ある意味、まるで親みたいに接している。

「コーカサスの虜」を撮ったレオニード・ガイダイは、リューシクを主人公とするコメディ映画のシリーズを出していて、これは英語字幕付きのが出ている。そこには、服役中の犯罪者たちが懲役労働に駆り出される場面や大学での試験の場面などが出てくるのだけれど、大学の先生も、学生たちに対して、権威的に接している感じはまったくない。ズルをして試験に通ろうとした学生に、「次回来なさいね」と言って帰したりはしているけれど、相手を下に見て、人格をおとしめるような態度に出たりはしないのだ。

 

これも、同じ時代のアメリカ映画に出てくる先生とは対称的だ。アメリカの先生の方がずっと権威的で、有無を言わさず学生を支配しているようなところがある。人前にさらして、人格を否定するようなことを言ったりする。そうやって、子供たちは権威に従うことを条件づけられている。ところが、自由がないはずのソ連の子供たちの方が、ずっと人間的に対等に扱われていたらしいことが、この映画を見るとわかってしまう。自由がなくて支配されていたのは、実はソ連の人たちではなくて、私たちの方だったのだということが。

ソ連時代の映画を見ていて、とりわけ西側の映画と大きく違うのは、登場人物が自分の利益だけでものを考えていないということだ。ハリウッド映画に出てくる人物は、まず自分のお金、自分の所有物、あるいは自分の名誉といったことを基準にして、行動を決めている設定になっている。あるいは、自分が抱えているコンプレックスから反応しているかのどちらかだ。ところが、ソ連の映画では、人々はそういうものを動機にして動いていないのだ。

 

たとえば、「コーカサスの虜」では、主人公のリューシクは、騙されて女の子を誘拐するのに手を貸してしまうのだけれど、「俺が誘拐したんだから、俺が救い出す」と言って、危険な冒険に出ていく。また、他のリューシクのシリーズでは、バスの中で優先席に座っている男が、妊婦が来ても席を譲らないという場面に遭遇して、サングラスをかけて目が見えない人のふりをして席を譲らせたりしている。

 

「コーカサスの虜」より。誘拐に関わる3人。
 

「コーカサスの虜」より。

右が民族誌研究者シューリク。左が誘拐される女子学生ニーナ。

 

「シューリクのもう一つの冒険」より。

学生のシューリクが、目が見えない人のふりをして、席を譲らせる場面。

 

「シューリクのもう一つの冒険」より。

右が女子学生のリダ。左が学生のシューリク。

リダのアパートでの場面。

 

それが、自分の利益のためというよりも、共同体の中で自分の役割を演じようとしているような感じなのだ。ハリウッド映画だったら、こういう場面は英雄ぶった感じで表現するだろう。だけど、リューシクのシリーズでは、そういう感じでもない。自分がどう思われるかみたいなところで反応しているのではなくて、当然誰かがやるべきことを、クリエイティブにやってみせているという感じだ。

ハリウッド映画に出てくる人たちは、絶えず自分の生活を守るためにたがいに戦い続けていなければいけない世界の人たちなのだと思う。だけど、ソ連の映画に出てくる人たちは、生活が保障されているから、自分の利益のためにたがいに戦う必要がない。自分の利益を主張したり、そのために争うのではなくて、全体の調和を作り出そうとして動いている感じがある。ソ連の映画に出てくる人間関係は、共生の感覚を感じさせるのだ。生存競争ではなくて、共生の原理で動いている人たちの関係性だ。

 

生物学の領域でも、生物は実は生存競争ではなくて、むしろ共生関係で生きているのだという説があり、そういう研究が近年注目されているけれど、生物の共生関係についての研究は、ソ連や東欧の方が進んでいるのだそうだ。弱肉強食の生存競争による生物進化論は、産業化が進んで資本主義の経済競争が盛んだったイギリスで生まれた。一方、共生関係についての研究は、ソ連や東欧で生まれた。それは、イギリスの経済が、まさに強者が弱者を淘汰する形で発展していっていたからで、生物進化論は、そうした人間関係を投影するようにして、生まれたのだ。そして、こうした理論は、経済競争で強者が弱者を犠牲にしていくのを、生物学的な真理として正当化してもいた。

 

ところで、弱肉強食的な経済原理は、必ずしも世界中すべてに共通するわけではなく、ごく一部の金融エリートが富と支配力とを独占しようとした結果、作り出されていた状況にすぎなかったことが、この頃わかってきた。生態学や微生物学では、強者が他を淘汰して独占するような状態は、むしろ病的なバランス欠如の状態だと言える。自然な状態では、生物は実はたがいに助け合って生きていて、全体としては多種多様な生物が共生していくようにできているのだ。

 

西側世界では、私たちはつねに他者を犠牲にして競争に勝たなければ生きていけないような状態で生きてきたけれど、それは自然なことではなくて、一部の金融資本家が意図的に作り出していたからにすぎなかった。それというのも、そうやって互いに争わせておけば、自分たちが淘汰されることがないからなのだ。それで私たちは、人間はたがいに自分の利益を守ろうとして争うものだと思い込んでいたけれど、実はそうではなかったらしい。

 

「コーカサスの虜」には、イスラム教徒の人たちが出てくるのだけれど、その人間関係を見ていると、ソ連には民族差別がないというのが、本当のことなのだということがよくわかる。ハリウッド映画だったら、違う民族、違う宗教の人たちは、違和感がある感じで出てくるけれど、ソ連の映画では、どういう民族だろうと、どういう宗教の人たちだろうと、まるで関係がないかのようだ。それよりも、同じソ連の同志だというような意識があるようで、その意識がどの民族、どの宗教の人たちでも、皆で共にこの国の中で生きているのだという感覚で生きているように見える。

 

「コーカサスの虜」の一場面。右が民族誌の研究者シューリク。

 

実際、ソ連は、経済発展で生じた余剰を一部の資本家が独占して、それによって他を淘汰しているのではなく、国民に還元していく経済を守っているシステムだった。それにより、人々はどの民族、どの宗教の人たちでもそれなりの生活ができるように保障されていて、学校や医療、音楽やバレエなどの習い事もすべて無料だった。西側資本主義の国でも、もし利益が国民に還元されていっていたら、50年も前にそのような状況になっていたはずだ。そうなっていたら、私たちもまた、自分のことばかり考えて生きるのではなくて、自然に全体の調和を作り出すように行動することになっていただろう。

 

ソ連の映画に出てくる人間関係は、共生の原理で生きるとはどのようなことなのかを、私たちに見せてくれるようだ。私たちは、そんな社会など理想論でしかないと思っていたけれど、搾取されていない社会では、当たり前にできていく状態なのだということをだ。

私たちは、ソ連の人たちが騙されていて、自由がないのに幸せだと思い込まされていたのだと思っていたけれど、事実は逆だった。搾取されて自由を奪われていたのは、私たちの方だったのだ。まさにその事実を知られないようにと、ソ連は貧しくて自由がない独裁国家だというイメージが植えつけられていたのだ。

 

   

 

 

 

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