【男性性と女性性を取り戻す】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

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私も男に生まれたかったーと思ってた。

 

男だったら良かったのに、と言われてた。

男だったら家業を継がせたと言われた。

男だったら良い棟梁になっていたと言われてた。

 

かと思えば、

女性であなたみたいなタイプは珍しいけど、男性ならいっぱいいるから女性で良かったんやない?とも言われた。

 

なのでもうどっちでもいいやー

 

女性のネチネチしたのが苦手と思っていたけど、男性でもネチネチしたのはいるし、

女性でもさっぱりしてる方もいらっしゃる。

 

なので性別は関係ないのかなと思っているところ。

 

筋力とか体力は男性には敵わないけどね。

 

これはただの助平でしょ。

 

この反対のパターンもいるのかな?

身体は女性だけど心は男性なので男子トイレや男湯に入りたいとか。

 

記憶力の無い私には↑こんなん絶対に覚えきれまてんよ。
 
 
ちゅーことで、
チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。
いつもありがとうございます。
↓↓
 
【男性性と女性性を取り戻す】
 
危機とは、忘れられていた価値を思い出す機会でもある。
三年半前に奇妙なパンデミックが始まってから、私たちは免疫システムや自然医療に意識を向けるようになった。医療の闇の構造について、多くの情報が入ってくるようになったし、世界中の専門家たちが、免疫システムと病原ウィルスの関係について、集中して発言するようになった。それで、それまでは普通に西洋医学とつきあっていたのに、それ以来、病院に行くのを一切やめてしまった人も少なくない。20世紀初めに始まった現代医療は、まさに免疫システムについての知識や自然医療を弾圧することで、世界を支配していたということが、パンデミックをきっかけに見えてきてしまったのだ。
 
ウクライナの紛争は、やはりそれまで人々の目から隠されてきた、ロシアの多極化の方向に、人々の意識を向けることになった。それまでロシアについて何の関心もなかった人たちも、ロシアがいかに西側諸国から誤解されているか、あるいは意図的に虚偽の印象を与えられているかを知ることになった。そして、現実のロシアは言われているような国ではなく、グローバリストに腐敗させられている西側諸国が己の姿を投影しているだけだということもわかっていった。ロシアは、多極的な世界の構造を作ろうとしていて、まさにそのために西側グローバリストから叩かれているということもだ。
 
そして今、ジェンダーの自由化をグローバリストたちが各国政府に押しつけてくるという事態になって、自然の男性性女性性というものが、危機にさらされていることに気づかされている。
 
そもそも、ジェンダーの自由化などということが問題になる以前に、ジェンダーというものが、自然の男性性女性性から人々を切り離すために使われてきたということがある。ジェンダーというものは、生物学的な性差ではなく、社会的にこれが男の仕事、これが女のすること、というような役割分担のことで、それは伝統的な生活の中でバランスを取るようにできていた。かつては家族単位、地域単位で自給自足的な生活が成り立っていたわけなので、男も女もその中で共同で働いていて、それぞれに役割分担があったのだ。田畑は男が仕切って、台所は女がまかなう、というようにだ。だから、どちらが優位だとかいうこともなかった。それぞれに仕切る分野が違って、相手の領域には口を出さない、ということがあっただけだ。
 
ところが、これが資本主義経済になると、家族単位で自立してまかなっていた生活が消えていき、人々は労働者として、企業の言うなりに仕事をして、賃金をもらって生活するように変わっていった。そこで、ジェンダーというものが、労働者を都合よく働かせるためのものに組み換えられていったのだ。男の役割は、お金を稼いでくることであり、女の役割は、そのお金で物を買って、衣食住をまかなうことだということになった。男らしさとか女らしさというものが、グローバリストたちによって、新たに作り出されていったのだ。
 
ごく簡単に言ってしまえば、つまりは女らしさとは、物を消費して、男にお金を稼がせる能力であり、男らしさとは、お金を稼いで、女に消費させる能力だということになる。それで、どういう服装、どういうふるまい、どういう言葉使いが男らしいとか女らしいとかいうことを、テレビドラマだとか女性雑誌、男性雑誌みたいなもので、絶えず吹き込まれることになったのだ。
 
ジェンダーというものが、自然な日常生活の伝統の中でできていったものから、人工的に作られたものに変わっていったのだ。だから、その頃から、与えられたジェンダーに自分がしっくりとはまらないという感覚を持つ人が増えていったのも無理はない。それはむしろ、健康的な反応だと言えるかもしれないくらいだ。
 
女性らしくあることが、自己主張せずに従うことと同義のようになっていた頃は、女性解放運動がさかんになって、男のようにふるまう女性たちが増えた。そして、男らしくあることが、会社に従ってお金を稼ぐことと同義になったとき、男をやめて女になろうとする男性が増えていったのも、無理はない。
 
だけど、結局のところ、作られたジェンダーのどちらかを行ったり来たりしていても、本当の解決にはならない。重要なのは、このジェンダーというものが、実は支配者に都合よく作られたものにすぎないということに気づいて、本当の女性性、本当の男性性を取り戻すことだと思う。
 
私たちは、女は女性的であるべきで、男は男性的であるべきだと思っているけれど、実のところ、男にも女にも男性性と女性性の両方がある。そして、この2つのバランスが取れているときに、本当の女性性、本当の男性性が生きられるのだ。伝統的なジェンダーが機能していたのは、実はその点にあると私は思う。
 
保守的な社会では、女が虐げられていたとか、そういうことがよく言われるのだけれど、しかし、そういう社会ではジェンダーを拒否する人はほとんどいない。そのことから考えるに、虐げられていたとかいうのも、グローバル化を進めたい人たちが作り出した話なのかもしれない。実際、自由で平等であるはずの資本主義経済の国の方が、ジェンダーに違和感を感じて、ジェンダーから外れていこうとする人が多いのだ。それは、資本主義経済の国では、ジェンダーというものが自然に調和するようなものではないからなのだと思う。
 
私自身、自分が女性であることを受け入れられるようになったのは、40代も半ばをすぎてからのことだった。子供の頃から、外で自由に遊びたいのに、女の子だからということで禁じられてきた。私にとっては女性であることは、木登りとか冒険旅行がさせてもらえないということを意味していた。だから、男に生まれたかったとずっと思っていて、思春期の頃まで男の子みたいなかっこうをして、男の子みたいな言葉使いをしていた。そのあとも、女の友達とは感覚が合わなくて、男の友達とばかりつきあっていた。
 
私は40代半ばになって、とつぜん意識の領域が開けるという体験をしたのだけれど、そのときからそれが変わっていった。意識の領域では、女性性男性性というものは、男女ともに存在しているし、社会が押しつけてくるジェンダーみたいな窮屈なものではない。女性性とは、大地のような海のような大きさ広さを持ったものだし、男性性とは太陽のような嵐のような力と威厳とを持ったものだ。それは、意識の中で大天使ガブリエルと大天使ミカエルという姿で出てきていた。その二人の存在と関わることで、私は男性性と女性性の本当の大きさを知っていった。
 
陶芸で人物像を作ることはその前からやっていたのだけれど、そのとき初めて女性トルソを製作するようになった。それまで私が作っていた人体は、どれも中性的で頭が大きかった。それは、私自身の意識を投影していたわけだ。性がなく、頭だけが大きい存在。ガブリエルとして現れていた存在に出会って、その姿を形にしようとしたときに、私は頭のない女性トルソをこしらえた。頭ではなく肚で思考する存在。子宮の中に全世界を含み込んで、浄化し、産み出す存在。それが私にとってのガブリエルであり、女性性そのものだった。そして、その像を作りながら、私は初めて、自分自身の女性の身体を受け入れ、自分の中の女性性を知ったのだ。
 
そのとき、それまで押しつけられてきた女性性とは、まったく支配者に都合よく作られた、薄っぺらいものでしかなかったことに気がついた。だから、そんなものをその歳まで受け入れられなかったとしても、引け目に感じることはまったくなかったのだと思った。いや、こんな社会に生きながら、その歳で納得できる女性性を発見したこと自体が、貴重なことでさえあると思った。
 
女性性といったら、性的な存在としての女性性や母性としての女性性ばかりが強調されるのだけれど、霊的な存在としての女性性がそこには欠けている。日本でもヨーロッパでも、古代には、女性には自然に霊的な意識と繋がることができる能力があることが重要視されていて、縄文時代には神女のような女性祭祀が霊的な力で共同体を守る役割を果たしていた。そうした女性性が出てこないと、女性性は男性性とバランスが取れなくなるのだ。産業社会の中で生産し、お金を動かす能力ばかりが重視される世の中になって、女性性とは性の対象であり、母性であり、生産する男に奉仕するだけの存在になってしまったわけだ。
 
そしてまた、生産し、お金を稼ぐ能力としての男性性では、やはり重要なものが抜け落ちている。自立した生活を築いていく力、現実を切り拓いていく力こそは、男性性の力で最も重要なものだ。この地上で、己の人生を築いていく力だ。そして、男女ともに、女性性と男性性の両方を生きてこそ、本当の意味で女性は女性らしく、男性は男性らしくあることができる。
 
ジェンダーの自由化とは、まさにそうした男性性も女性性も抜け落ちたところで語られている。服装だとか、身体の形だとか、ごく表面的なことでしかない。本当の男性性、本当の女性性を解放するならば、そもそもジェンダーの自由化などということを求める必要もないことがわかってしまう。そうした男性性や女性性は、男にも女にも両方が備わっているもので、それを生きるのに、生物学的な身体を変える必要などまったくないからだ。
 
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画像は、当時製作していた陶芸作品「ガブリエラ」