明日の準備と、枯葉茶の季節 | キセキを紡ぐ Rut of hope

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今日は寒いかと思ったら暖かい。
日差しも強いよ。
 
なので日除けを少し調整して、ウッドデッキでイラスト仕事。
すずめたちがごはんを食べに来てるのも見えて、癒されながらのんびり出来そう(気持ち的に
 
 
向こうでは燻製がスタート。
と言っても私が作ってるんだけど。
 
 
ステンレス笊に入れて始めたけど、ステンレス網と入れ替えた。
旦那作のステンレス網はなかなかの優れモノなのだ。
 
ここから煙の様子を見ながら、同時進行で進める計画。
 
 
昨年見かけた枯葉茶を作ってみたいなー
と、さっきの椎の実拾いの時ちょいと物色したけれど、
イマイチ食指が動かなかった。
 
もっと森の奥で葉っぱを集めたいところ。
 
今日は緑茶で我慢しておこうっと。
 


ちゅーことで、
チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。
いつもありがとうございます。
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【枯葉茶の季節】
 
白樺が黄色く色づき始めると、私にとっては枯葉茶の季節が始まったということになる。
 
お茶といったら、若い葉っぱを干して作るものだと私たちは思っているけれど、秋になって色づいて落ちてくる葉っぱが、何とそのまんまおいしいお茶になるのだ。
 
きれいに色づいた落ち葉を何枚かひろってきて、それをしばらく薪ストーブの上で煮出せばいい。普通のお茶みたいに急須に入れて熱湯を注いでもいいんだけど、ちょっと煮出すと濃いきれいな色が出て、濃厚な香りのお茶ができる。
 
これが意外なおいしさなのだ。若い葉っぱを干したお茶とはまた違うおいしさだ。この葉っぱは、たっぷりと太陽を浴びて、天日で自然に乾燥した葉っぱだ。その太陽の力と味とが、すべてお茶の中に入っているように思える。熟し切った滋味のようなものがある。
 
夏の間は、庭に生えているミントとかタイム、アカツメクサやタンポポの花など、そのときにあるものを適当に摘んできてフレッシュティーを飲んでいる。夏の間は、そうやってそのときに生えているのをお茶にするのがさわやかさがあっていい。春先には、開いたばかりのまだ透明感がある木の葉もおいしいお茶になる。これは、新茶みたいな香りがあって、春だけの独特の味だ。
 
木の葉が大きくなってくると、今度はこれで紅茶が作れる。干して生乾きになったところで、もんでしばらく発酵させておき、それを煎って缶に入れておく。二三日経つと、味が熟してきておいしくなる。
 
白樺やヘーゼルの葉、桜や樫、それぞれに独特の香りがある。そういうのを飲んでいると、木の精と会話しているような、木の気持ちがわかるような気がしてくる。
 
 
実際、葉っぱの中には木の生命力のようなものが入っているわけで、お茶にするとその精のようなものがお茶の中に入ってくるんだと思う。とりわけ枯葉で淹れたお茶は、木の葉が春先から夏、秋になるまでの一年の物語を語ってくれているような気がするのだ。太陽の光を浴びて、葉っぱが大きくなり、硬くなり、色づいて落ちるまでの、水と太陽の物語。そうしたものが、枯葉のお茶の中にはすべて入っているような気がする。
 
 
街に住んでいた頃は、お茶というのは買うものだと思っていたけれど、田舎で暮らし始めたら、お茶になるものはいくらでも生えてくることがわかった。白樺やヘーゼルや山桜などは、このあたりでは草みたいに勝手にどんどん生えてくるし、ブラックベリーも放っておいたらあっという間にイバラの藪ができるくらいに生えてくる。ブラックベリーの葉は、大きくなったのはエグミがあっておいしくないんだけど、新芽を干したのはおいしいお茶になるし、枯葉がまたおいしい。ブラックベリーの枯葉をお茶にするときは、熟れないままで枯れてしまったベリーもいくつか一緒に入れている。これが甘いような香りがあって、なかなかいいのだ。
 
ヤナギランの葉っぱは、ロシアでは紅茶を作るのだそうで、これは実際、上等の紅茶みたいな香りの高いお茶になる。森の家の庭にも生えてきていたので、試しに作ってみたら、驚くくらいにいい香りのする紅茶ができあがった。他のところには生えていないので、葉っぱのために刈り取ってしまうのもかわいそうで、茎についたまま枯れてくるのを待っていた。それで枯れてパリパリになった葉っぱを集めて、ストーブで煎ってみたら、それだけでちゃんとした紅茶になっていた。
 
干して発酵させて煎るのも、木についたまま自然に熟して乾燥したのも、実は同じようなことなのかもしれない。木について自然に乾燥した葉の方が、何となく天然の太陽の味がしていいような気さえする。
 
それで、お茶もコーヒーも何も買わなくなってしまった。ここオーストリアでは、お茶もコーヒーも育たないので、どこか遠くから運んでくることになる。遠くから運んでくるものは、違う気候の違う土地で育ったものだから、自然なつながりというものがない。前は、それでもお茶は要ると思って買っていたけれど、庭に勝手に生えてくる葉っぱでおいしい紅茶ができるとわかったら、もう買う必要がなくなった。コーヒーはタンポポの根っこやどんぐりで作るのがおいしいので、これもやっぱり買ってない。
 
 
それで私は、どんどんお金が要らない生活になっていっているのだけれど、お金が要らなくなるごとに、生活の質というか豊かさみたいなものは逆にどんどん増してくる。それを体験していると、本当に生活に必要なものはすべて自然に与えられているのだということがよくわかるし、そういうものはお金で買えるものと違って、実に多様な豊かさがあり、しかも生命の力にあふれているのだ。その生命の力を感じていると、お金で買えるようなものはほとんどが価値のないつまらないものだとさえ思えてくる。
 
 
 
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近くの方も他県の方も遊びに来て下さいねー