ともすけの読書と音楽鑑賞の日々
  • 15Nov
  • 18Sep
    • 『伝奇集』「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」 ボルヘス

      こんにちは、ともすけです。久しぶりに読書の感想を書きます。ボルヘスの『伝奇集』収録、「八岐の園」のなかの短編、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」です。 伝奇集 (岩波文庫) 842円 Amazon 27ページほどの物語ですが非常に面白い形式・内容になっています。こういうの好きな人ってかなりいるんじゃないかなーと思います。きっと学校の現国では見ることのできない小説でしょう。1940年ころに書かれているのかな。現代から眺めてみると非常に示唆的な部分があります。あらすじだけ書いてみます。あらすじを書くのが非常に難しい小説ですがチャレンジします。ネタバレ超注意です!第1章わたしは友人(ビオイ・カサレス)と議論していました。「語り手が事実を省略もしくは歪曲し、さまざまな矛盾をおかすために、少数の読者しかーーーごく少数の読者しかーーー恐るべき、あるいは平凡な現実を推測しえない、一人称形式の小説の執筆についてである。」その中で友人は、ウクバールの異端の教祖の一人のことばを思い出します。それは『アングロ・アメリカ百科事典』のウクバールの項に載っているといいます。しかしわたしは調べてみたが載っていない。ビオイめでっちあげたなとわたしは思います。しかし翌日にビオイから電話があり、第46巻に書かれているという。わたしはビオイとビオイの持つ『アングロ・アメリカ百科事典』を調べます。すると私の持つ46巻は917ページだったが、ビオイのものは921ページだった。この余分な4ページにウクバールが書かれていたのです。わたしとビオイは丁寧にウクバールの項を読んでみました。すると「厳密な文章のかげに重大な曖昧さがひそんでいることに気づ」きます。地理の部に出てくる14の名前のうち11がわからず、知っているクーラサン、アルメニア、エルズールスも曖昧なかたちで本文に組み込まれています。歴史上の名前は、「いかさま師で魔術師」のスメルディス1人だけ。「言語と文学」の部は短いものでした。ウクバールの文学について書かれていて、その叙事詩や伝説はまったく「現実と関わりを持たず」、ムレイナスとトレーンというふたつの架空の地方にまつわるものでした。文献に4冊あげられているがそれをわたしは見たことはない。しかし、ド・クィンシーの本『著作集』第十三巻のなかで、その4冊の1番目の『小アジアのウクバールという国にかんする、興味深く読むに値する考察』の著者ヨハン・ファレンティン・アンドレーの名前を発見する。彼はドイツの神学者で薔薇十字という空想の共同体について記述している、そしてこの共同体は彼が予測したところにならって他の人々によって設立されたこと、を知ります。その夜、わたしとビオイは国立図書館を訪れますが徒労に終わります。ウクバールに足を踏み入れた者はひとりもいないらしい。第2章わたしはハーバート・アッシュという男について想像します。男やもめで子供もいない、数年ごとにイギリスに帰り日時計と樫の森を訪れたと。わたしの父と彼はイギリス流の友情で親交を結んでいたらしいです。「あの土地に滞在したことを彼は一度も口にしていなかった……。」彼とはアッシュです。アッシュは死ぬ前に封をした書留小包をブラジルから受け取っていました。英語で書かれた「トレーンを扱った最初の百科事典第十一巻。Hlaer-Jangr」。「オルビス・テルティウス」という文字の入った、青い楕円形のスタンプが押されてありました。「百科事典第十一巻」の「存在」を否定するもの、それに反論するものが現れます。アルフォンソ・レイエスは第十一巻以外を復元しようじゃないかと提案しました。「獅子は爪で知れる」ということだそうです。「トレーンを考え出したのは、果たして何者なのか?」1人の隠れた大天才にひきいられた「秘密結社」の創造物だと推定されました。最初、トレーンは単なる混沌、無責任で放埒な想像力から生まれたものと信じられていました。しかし、いまではそれは「一個の宇宙である」ことがわかってきます。わたしはその「宇宙観」について語りだします。ここからはあらすじを書くのが非常に難しいです。********「ヒュームは、バークレイの主張は論駁の余地がなく、しかもおよそ説得的ではない」と書き残しました。しかしこの断定はトレーンの場合にはまったく誤っているといいます。トレーンという天体の人々は唯心論者なのだそうです。「彼らにとっての世界は、空間における物体の集合ではない。」「独立した行為の異質的な連鎖なのである。」「連続的で、時間的だが、空間的ではない。」「あの天体の人間たちは、空間ではなく時間のうちに継続的に展開する一連の心的過程として、宇宙を認識している。」「この一元論もしくは完璧な観念論が科学を無効のものにする。」「トレーンの哲学者たちは真理を、いや真理らしきものをさえ探求しない。彼らが求めるのは驚異である。哲学は幻想的な文学の一部門である。」トレーンの学説で唯物論が問題になりました。ある思想家たちはそれを熱狂的に主張しました。十一世紀のある教祖は九枚の銅貨の詭弁を考え出します。結論だけを書くと、それは反駁されました。教祖は銅貨に「存在」という神聖なカテゴリーをあてはめようとしたということだそうです。百年後ある思想家が大胆な仮説をとなえます。その推論によれば、「ただ一個の主体しかなく、この不可分の主体は宇宙の存在のすべてであって、これらの存在は神性の器官であり仮面である。」というものです。『百科事典第十一巻』には、3つの主要な理由がこの観念的汎神論の完全な勝利を決定づけたことが書いてあります。①唯我論の否定、②諸科学の心理的基礎を保持することの可能性、③神々への礼拝を継続することの可能性、です。トレーンの幾何学はふたつの体系①視覚的なもの②触覚的なものを持つ。②がわれわれの幾何学に相当する。トレーンでは②は①の下位にある。かなり端折っています。文学において唯一の主体の観念は万能である。書物に署名があることは珍しい。僕たちにとっては署名があることが当たり前のように思いますよね。トレーンでは違います。署名は批評家が捏造したものです。何世紀にもわたる観念論の支配は現実に影響したといいます。「トレーンのもっとも古い地方では、失われた物体の複製も珍しくはない。」第一の人間が鉛筆を発見するとします。第二の人間がまた鉛筆を発見します。それはフレニールと呼ばれるのです。フレニールの組織的な生産が始まったらしいです。最初の試みは失敗しましたがその「作業方法」は記憶に値するものでした。重要な発見をもたらした囚人に自由を約束して発掘をさせるという実験をしました。彼らは発見するべきものの写真を見せられます。しかし彼らはさびだらけの車輪いがいのフレーンを発掘することしかできませんでした。「期待と渇望はむしろ障害になる可能性がある。」この実験は3つの大学で失敗に終わります。4つ目の大学で学長が発掘の初期に死亡したため、ひとつの黄金の仮面と、ひと振りの古い剣と、二、三の素焼きの壺と、いまだに解読されていないが碑銘入りのさびを吹いた、手足のないトルソを発掘します。つまり「造り出した」のです。「集団による調査はたがいに矛盾する物体を生産する。現在では、ほとんど行き当たりばったりの、個人による作業が好まれている。」「トレーンにおいては事物はみずからを複製する。同様に、人々に忘れられると輪郭が薄れ、細部が消える傾きがある。」1940年、サルト・オリエンタルにて********ということでトレーンの宇宙観の話は終わります。1941年3月、ハーバート・アッシュの持っていたヒントンの本のなかにグンナール・エルフィヨルド直筆の手紙が発見されます。手紙はトレーンの秘密を完全に明らかにするものでした。ある秘密の慈善団体ーーーダルガルノ、バークレイがいたーーーがひとつの国を創造するために集まったそうです。彼らは一世代では一国を創りあげるのに充分でないと悟ります。そして世襲制を取ることにします。2世紀の空白があり、秘密の慈善団体はアメリカで息を吹き返します。1842年、メンフィスで会員のひとりが禁欲主義の百万長者バックレイと話し合いました。バックレイは一国の創造ではなくひとつの天体の創造を提案します。それプラス、彼のニヒリズムの所産=秘密にしておくこと、を付け加えました。バックレイはまた、架空の天体にかんする組織的な百科事典の刊行を提案します。バックレイは神を信じていなかったのですが非在の神にたいして、死すべき人間も世界を産むことが可能であることを示そうと望んだのです。1914年、結社は300人を数えるその協力者に、『トレーン第一百科事典』の最後の巻を配布しました。この『トレーン第一百科事典』は英語ではなく、トレーンのさまざまな言語で書かれたべつのものより精細なものになるはずでした。それは『オルビス・テルティウス』と名づけられました。その造物主のひとりがハーバート・アッシュでした。1942年、ファウチニ・ルチンゲ公妃の受け取った銀製品の入った大きな箱の底から逸品が現れます。「荒々しい紋章の動物が刻まれたユトレヒトやパリの銀器と1個のサモワールである。」そのなかに神秘的におののく1個の磁石が混じっていました。青い針がしきりに北極を指そうとあがいていたそうです。金属のケースは凹面をしており、盤の文字はトレーンのかずあるアルファベットのひとつに属していました。これが幻想世界の現実世界への最初の侵入だった。第二の侵入をわたしは目撃します。それは数ヵ月後、ブラジル人経営の雑貨屋で起こります。わたしとアモリンはその雑貨屋で簡易ベットを用意してもらい横になっていました。隣の見えない男のせいで一睡もできなかったそうです。そしてその見えない男は明け方に死んでいました。彼は数枚の銅貨と、さいころほどの幅がある輝く金属の円錐を持っていました。その金属の円錐の重さは耐えがたいものでした。この重い物体を手に持ったその痕跡は「嫌悪と恐怖という不快な印象」を与えたそうです。アモリンが数ペソでそれを買い取りました。その死人についてはどこから来たのかも何もわかりませんでした。円錐はーーーこの世界のものではない金属で造られたトレーンの「ある種の宗教における神性の表徴なのである。」そうです。ここでわたしの個人的な物語は終わります。残りはすべての読者の記憶のなかにあるそうです。1944年頃、メンフィスの図書館で、『トレーン第一百科事典』の四十巻が発見されます。第十一巻のいくつかの信じがたい点、フレニールの増殖などは記述を削除されたり加減されたりしていました。現実世界との妥協が行われたようです。そして現実もいくつかの点で譲歩します。弁証的唯物論、反ユダヤ主義、ナチズムーーーに代わるものとして。人々は譲歩を願っていたようです。人々はトレーンにどうして呪縛されずにいられるでしょう。「現実は、われわれが究極的に認識しえない神の法則ーー換言すれば、非人間的な法則ーーにしたがっている。トレーンは迷路かもしれない。だが、それは人間たちによって工夫された迷路、人間たちによって解かれるようさだめられた迷路なのだ。」「トレーンとの接触やその習俗はこの世界を崩壊させた。その精密さに魅惑された人類は、これがチェスの名手の精密さであって天使のそれではないことを忘れる。くり返し忘れる。」われわれが学んだ、調和的な(そして感動的なエピソードにあふれた)歴史の授業は、「わたしの少年時代を支配した歴史を抹殺してしまった。」そうです。記憶のなかではすでに虚構の過去が他のものの位置を占めているのです。後者(虚構の過去)についてはわれわれは確実なことを知りません。虚偽のものであることすら知りません。古銭学、薬物学、考古学、そして生物、数学も変化の時を待っています……。そして、「いまから百年後に、何者かが『トレーン第二次百科事典』の百巻を発見することになるだろう。そのとき、英語やフランス語、ただのスペイン語などは地上から消えるにちがいない。世界はトレーンとなるだろう。」「だが、わたしは気にしない。アドロゲーのホテルで静かな日々を送りながら、ブラウンの『壺葬論』のケベードふうの試訳ーーー出版しようというつもりはないがーーーの校訂を続けるのだ。」と締めくくられます。うーん、伝わるだろうか。現代小説まで連なる小説といわれるものの原点のひとつとなっているのではないかと僕は思いました。小説自体についての考察は気が向いたら。興味を持たれた方は読んでみてください。

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  • 17Apr
    • 『享楽社会論』松本卓也 人文書院 その2

      資本主義を乗り越えろ!僕の友だちがコミュニティをつくって自然に還ろうぜ的な仕事をしていて、その影響を受けている、ともすけです。僕もそろそろ本を読むことは卒業しようかなと考えているところです。飛躍しすぎか・・・。矛盾しますが本の紹介です。 享楽社会論: 現代ラカン派の展開 2,376円 Amazon 『享楽社会論』。その2人間よ、享楽せよ!とラカンが言っているわけではありません。享楽し続けなければ生きていけない時代、それも享楽しなければ息ができないほど苦しい、そんな時代な気がします。ツイッターでツイートし続けること、スマホをひたすら見続けること、仕事をし続けることもそうでしょう。すべてがどこかでなにかおかしくなっている。コカ・コーラをエンジョイすることになっている、そんな時代に生きる私たち。さて、人間にはこころというものがあるようです。こころにはどうしても自分では制御できない部分がある。恋をしたときもそうだし、困難に直面したときもそう。そういったときに人は自分ではどうしようもないこころの一部分を感じてしまいます。あなたは神に誓ってその「我」がまったく偽っていないと言えるのか?自分の制御できないこころが「我」に混じってはいないのか?デカルトはそんな「我」について、「我考える、ゆえに我あり」と答えたと僕は考えます。我々のうちに潜む制御できないなにか、それを人はしばしば「狂気」と呼びました。詩人たちは恋の歌を歌う。それは狂気の歌とも言えます。本当の狂気を歌ったヘルダーリンのような人物もいました。しかし、そんな狂気をも我々の理性が成長していけば克服することができる、そう考えたのがヘーゲルです。「絶対精神」、人間の理性の完全体と言えるでしょう。しかし、僕はまだまだ人の理性が狂気を押さえ込む時代は来ないと思います。AIが我々のまえに現れましたが、きっとAIもこころを持つでしょう。そして同じく狂気を抱え込むと思います。人間の「こころ」に潜む狂気は科学では決して克服することはできない、そう思います。それが「人間らしさ」の最も「徴」であると思うからです。AIのもつ狂気もその「徴」となるでしょう。しかし、人間というのはAIより遥かに優れている。人間には薬が使えるからです。薬を使って狂気を克服できるでしょう。そのことについてドゥルーズやラカンは考えていたようですが勉強不足なのでここでは書きません。フロイトは人間のこころを「心的装置」として概念化したようです。人間は外界の刺激を受けると心的装置を通して運動末端へと伝わっていく。俗に言う無意識や前意識などは心的装置の一装置です。ラカンはこの心的装置に記憶痕跡として残ったものに注目したようです。それは乳幼児期の満足体験の結果現れるもので、我々はそれを一生追い求める、僕はそんなふうに解釈しています。この心的装置にトラウマとして記憶痕跡が残ると人間は病むようになる。これは乳幼児期だけではありません。さまざまな年代でトラウマとして記憶痕跡を残すでしょう。それを満足させたいが満足させることができない。その欠如を埋めようとする欲望がさまざまな症状として現れるのではないでしょうか。心的装置を通さない、直接満足体験を味あわせるもの、それが薬です。麻薬がその最たるものではないのかなと思います。薬は心的装置を飛び越え満足させてしまう。それゆえ薬というものは手軽である、しかし代償として依存が起きてしまう。人間のこころは複雑だと思って生きてきましたが、僕はこの歳になって意外と人間ってのはシンプルだなと思うようになりました。理性は理性として、狂気は狂気として受け止めることができている、そんな気がします。なにかを克服したい!自分を否定して新しいなにかになれば変わる!成長することこそいいことだ!そんな気持ちからシフトし、肩の力を抜けたからかもしれません。悟りの道への第一歩、スタートラインに立てたのではないかなと。第一歩で、これから悟るまで何万歩あるかはわかりませんが。この『享楽社会論』も読んでみると頭の中がすっきりする本です。その3があるかはわかりません。

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  • 04Apr
    • 『享楽社会論』松本卓也 人文書院

      こんにちは、ともすけです。人文書院から出ている『享楽社会論』を読みました。 享楽社会論: 現代ラカン派の展開 2,376円 Amazon この著者は『人はみな妄想する』という本も出しています。 人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想- 3,456円 Amazon どちらもジャック・ラカンについての本です。ラカンは20世紀のフランスで「構造主義の四銃士」と言われた人です。レヴィ=ストロース、バルト、フーコーと並んでです。現代思想の始まりにある構造主義に興味がある人は内田樹の『寝ながら学べる構造主義』という本がおすすめです。とてもわかりやすく構造主義のことが書いてあります。 寝ながら学べる構造主義 ((文春新書)) 842円 Amazon 構造主義は簡単に言うと、言語になんでも置き換えちゃうようなところがあって、それが構造を持っているという感じです。サルトルの実存主義に対するアンチとして生まれてきたようなところもあるようです。レヴィ=ストロースに関しては数学をその基礎においているようです。それは下の本に。 はじめての構造主義 (講談社現代新書) 821円 Amazon 『はじめての構造主義』は本当に構造主義の基礎付けみたいな話なので読んでいて面白いと思うかどうかは疑問です。ですが数学の好きな人にはいいんじゃないかなと思います。結局構造主義でなにがわかるの?みたいな感じにはなると思いますが。ロラン・バルトに関してはいろいろな実績はありますが、初期の仕事に演劇の批評があってそれは僕も影響を受けています。細かいことは書きませんが演劇というのは演者に感情移入して観る人が多いと思います。ミュージカルとかだと声を張り上げて身体を精一杯使って喜びや悲しみを観客に対して表現する。それに感情移入して観客は笑ったり泣いたり喜んだり悲しんだりする。それを「同化」と言います。それに対して演者が必要以上の演技をしないで観客に感情移入をさせない。そんな演劇があります。ブレヒトの演劇が有名ですが、たぶんベケットもそうでしょう。ベケットの『ゴドーを待ちながら』。 ゴドーを待ち&#x306... 1,296円 Amazon 舞台に2人いてなにかわからないが話をしている。ゴドーを待っているだけ。そうするとなにか変なおっさん2人がいるだけなので感情移入できないのでしょうね。自然とこの人たちは何をしているのだろう、この演劇は何を伝えたいのだろうか、と思うわけです。批評の目線になるわけですね。そういう演劇を「異化」というんじゃないかな。そういうのをバルトは好んだのです。話がそれまくりましたが、『享楽社会論』はラカンについての本です。もう少し正確に言うと、ラカンの思想を受け継いだジャック・アラン・ミレールを中心とした話で現代ラカン派の話です。結論を言うと、この世界は享楽社会だ、ということです。そのままです。この「享楽」というものが非常に重要で、前期ラカンとはまったく違っています。現代の資本主義を鋭く描いていると言えるでしょう。ラカンの思想というのは非常にわかりにくくて、たぶんラカン独特の「ワード」の概念を理解することは専門家でないと無理でしょう。なぜなら臨床として使っているものなので素人が臨床経験なしにそれを掴むのは非常に難しいからです。それはもちろん哲学だろうがなんだろうが専門家なので同じではありますが、精神分析となるとそうとう難しいというか非常に危険なところがあるように思います。すべてはアクチュアルに捉えなければならないのですがそれを理論だけで弄りまわしてもそれは自慰行為にしかならないというわけです。この『享楽社会論』は現代の精神科医療、新型うつ病、政治まで幅広く現代社会の問題を取り上げています。その点においても非常に信用できる本だと僕は思います。本の内容については今後書くか書かないかは未定ですが、ちょっとだけ今書くと、ラカンは後期に享楽というものを中心に精神分析を考えたということが書いてあります。第一部が「理論」に当てられていて、ここではジャック・アラン・ミレールの理論を中心に書かれています。僕が現代思想に初めて触れたのが1990年代中頃で、その頃がどうだったかよく覚えていないのですがラカンを享楽という観点からは見ていなかったと思います。ラカンについては上にあげた『寝ながら学べる構造主義』のイメージが近かったです。ラカンは精神を象徴界、想像界、現実界に分けていて、象徴界が言語で出来上がった世界でわれわれが最も意識できる世界としていたように思います。この象徴界が不安定にならないように人間の精神は様々なシステムを使って構築されている、そんなイメージです。享楽はその象徴界の安定を壊すものとして、難しく言うと「法に対する侵犯」をするものとして書かれていてなんだか恐ろしいものだったのです。それを後期ラカン、ミレールは精神分析の中心に置いたのですね。現代社会はこの享楽によって支配され人間は知らず知らずのうちに殺されかけている。そんなイメージでしょうか。この本の冒頭にありますが、「法が永遠にコカ・コーラをenjoyし続けることを要請」していると。別にコカ・コーラじゃなくてもいいです。スマホでも漫画でもアニメでもスポーツでもバラエティでも、もちろんこの『享楽社会論』という本でもいいです。enjoyし続けろと要請するのです。この考えはフーコーの医療というものが人間を支配しているというのと似たようなところがあると思います。なにかテレビで政治家やコメンテーターの話を聞いていて、もしくは人と話していておかしいなと思ったことはありませんか。この本でも引用されていますが、精神科医の鈴木國文はそれを「たしかに正しいのだけれども、何かがおかしい」「その言説が可能になる「手前の問い」が問われないままに言説が流通する」と表現しています。何かおかしいなと思っていた人、そんな人はこの『享楽社会論』を読んでみることをおすすめします。なにも思わなかった人はコカ・コーラをenjoyしている人でしょう。enjoyしてください。そんな感じの本です。興味を持った人は読んでみてください。

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  • 23Feb
    • 分人とはなんだ?

      こんばんは、ともすけです。平野啓一郎の創り出したらしい概念に「分人」というものがあります。「分人」とはなんだ?読書メーターで平野の『私とは何か』の感想を読んでみる。読書メーターの『私とは何か』なるほど~。なにもピンとくるものがない…。 私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) Amazon なので平野の『ドーン』を買ってみました。 ドーン (講談社文庫) Amazon 帯に、「『私とは何か』『「生命力」の行方』で話題の「分人主義」の原点。」とあります。まだ60ページしか読んでないのですが、分人についてでてきたところを引用します。「『親しいプライヴェートな友人に《散影》で行動をチェックされても、いい気はしませんよ。いや、赤の他人に見られるより、もっと不安でしょうね。面と向かい合ってる人間の中に、自分が日々の生活で、あちこちにバラまいてきた姿の断片が、なんだかごちゃ混ぜになって、ヘンな具合にまとめ上げられているなんて考え出したら、どうやって接して良いのか、分からなくなりますよ。どんな分人dividualだってーーーsのdivisualじゃなくて、dのほうのdividualですよーーー成功するはずがない。 この人には、こういうところを見せたい。でも、見せたくない面もある。そういうふうに、自分の情報を、ある程度はコントロールできるっていうのが、対人関係の基本でしょう?』」(『ドーン』講談社文庫 p34)これを読んでなるほどと思いました。《散影》というのは街中にある防犯カメラのようなもので、それを人が検索して映った人のデータを見ることができるものです。『ドーン』という小説がSF設定なのでSF的な発想で書かれてますね。防犯カメラの映像をごちゃまぜに組み合わされて「人物」のアイデンティティをつくりあげると。googleをイメージしていただけるとわかりやすいかもしれませんね。近い将来そうなる可能性はあるでしょう。というかワイドショーで取り上げられる芸能人や政治家なんてそのものですよね。そういうものを否定して「分人dividual」という自分のコントロールできる自分を見せること、それが分人ですね。不思議に思うのは『私とは何か』での「分人」は読書メーターの感想を読むとその場その場で自分を使い分けるというような印象を持ってしまうことです。そんなのを認めてしまったら「責任」の主体がなにもののものなのかがわからなくなってしまいますよね。個人individualをいいように使い分けることができれば責任は軽くなるかもしれないけどそれは昔から人間はそうやっていたのじゃないかな~。近代になって個人の責任というものを問うようになったのではないかなと。う~ん、そう考えると過度な責任に耐えられなくなった現代人にとってはもしかしたら有効に働く概念なのかもしれない。『ドーン』を読んで、『私とは何か』も読んでみたいと思います。ちなみに上の引用で「divisual」とあるのは「散影」という防犯カメラを英語で「divisual」というだけのことです。

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  • 29Jan
    • わたしとは。

      こんにちは、ともすけです。最近は夏目漱石の『こころ』を読んでいました。『こころ』は僕が最初にまともに読んだ小説です。僕は『こころ』を読んだとき、僕という存在を根底から考えさせられる、そういう体験をしました。それはいったいなんだったのでしょう。そのなかの大きな要因のひとつに、「下 先生と遺書」があると僕は考えます。 こころ 坊っちゃん (文春文庫―現代日本文学館) Amazon 「下 先生と遺書」は先生がもうひとりの主人公「私」に向けた手紙=遺書です。この遺書は先生の実体験をもとに書かれています。漱石の『こころ』という小説のなかに存在する先生が私に過去を告白する。そういう形式を取っています。先生は遺書を書いたわけですが、それが僕には先生の私小説のように読めました。僕はきっとその私小説のもつ力の吸引力に惹かれていったのだと思います。僕は先生の遺書から先生の「わたし」を感じ驚愕し震え戦いたのです。これは私小説の元祖といってもいいかもしれないジャン・ジャック・ルソーの『告白』に近いかもしれません。僕はこの小説を無視することはできないです。自分の過去を赤裸々に告白する。「最後の審判のラッパはいつでも鳴るがいい。わたしはこの書物を手にして最高の審判者の前に出ていこう。高らかにこう言うつもりだーーーこれがわたしのしたこと、わたしの考えたこと、わたしのありのままの姿です。よいこともわるいことも、おなじように率直にいいました。何一つわるいことをかくさず、よいことも加えもしなかった。(略)永遠の存在よ、わたしのまわりに、数かぎりないわたしと同じ人間を集めてください。わたしの告白を彼らが聞くがいいのです。わたしの下劣さに腹を立て、わたしのみじめさに顔を赤くするなら、それもいい。彼らのひとりひとりが、またあなたの足下にきて、おのれの心を、わたしとおなじ率直さをもって開いてみせるがよろしい。そして、「わたしはこの男よりいい人間だった」といえるものなら、一人でもいってもらいたいのです。」(『告白』 J・J・ルソー)先生の遺書とルソーの『告白』の恐ろしいまでの切迫感。これが僕のいう「わたし」の謎です。その謎を僕は追いかけてきました。しかし最近になりますが、芥川龍之介の「藪の中」を読んだのです。 藪の中 Amazon 「藪の中」は説明する必要のないほど有名な作品ですので説明はしませんが、多襄丸、妻、死んだ夫の3つの視点からひとつのある出来事が描かれています。ここで使われているのはWikipediaにありますように内的多元焦点化という手法です。僕もよく理解していませんが、「藪の中」は3人がそれぞれ事件の起こったことについて証言しています。それがそれぞれ3人の言っていることがかみ合わない。これはどういうことだろうという話です。僕は「藪の中」を読んで気づきました。ひとりの人間=「わたし」が真実だと思うことをどれだけ切実に訴えても、三人称視点で書いてしまうと「わたし」が本当の真実だと思ったことが実は真実ではなくなるのだと。多襄丸にとって、妻にとって、夫にとっては真実であることが三人称という視点で見ると本当に自分の思い込みのようなものになってしまう。さらに技術的には三人称の特性として語り手が隠蔽されてしまうために真実は現れてきません。僕はそれを考えたとき、『こころ』の先生の遺書は先生にとっての真実でしかなく、実際起きた出来事はもしかしたらそうではなかったのだろう部分を多く占めているのではないだろうかと思いました。しかし先生は書いた。そうせざるを得なかったからです。僕たちも相手に自分の思いを伝えるために何かを書いたことがあるでしょう。その方法は告白になるように思います。そして日本近代文学の王道であった私小説も自己暴露という性質を多分に抱えているためにそのような要素が大きいのではないかと思います。飛躍しますが、つまり日本の近代小説で僕がもっとも考え重要だと思っていた「わたし」は一人称に現れるわたしであり(三人称の私小説もあります)、それは三人称で描かれるとそのフィクション性が暴露されてしまうのではないか、と僕は感じるに至りました。もしかしたら私小説作家たちはそのことに自覚的に作品を書いていたのではないかと思ったりしました。それはあまりにも悲しい。ですがそれゆえに尊い気がします。最近読んだ本に、佐々木敦の『新しい小説のために』があります。この本では新しい私小説の方法が検討されています。わたしというのは本来ひとつの決まった形はもっていない。接する相手やその場所、時間によって様々なわたしを使い分ける。そういう時代に強固なわたしなど必要があるのか。そのときそのときで自分を変化させていく、平野啓一郎のいう「分人」という概念もそれに近いかもしれません。そしてこの本ではさらに踏み込んで、わたしという身体的制限さえ超えていこうとしています。SNSというコミュニケーションツールが日常化したとき、わたしはそのSNSの一部となります。そこでは自分の意見と他人の意見の境界が不分明になっていく。あるグループの一員として、わたしの代わりはいくらでもいそうな、そんなコミュニティのなかで自分を保っていく方法論として「わたし」ではなく「わたしたち」というものが私小説における「わたし」へと現代はアップデートされているのではないか。僕は読んでいてそう思いました。 新しい小説のために Amazon 僕のように「わたし」は「わたし」でしかない。その「わたし」で人とぶつかっていきたい。そう考える時代は過ぎたのではないか。僕はそのように感じました。ただただ虚構の「わたし」を夢見る僕。そんなことを考えたとき、もう終わったのではないかと僕は感じました。それゆえここで『こころ』を巡る旅はひとまず終了。そう思ったわけです。しかし、そう思っているときに僕に救世主が現れました。僕に哲学のしかたを教えてくれたY師匠です。名前はいちおう伏せさせてもらいます。Yさんのデカルト解釈を読んだとき、僕は自分が本当に井の中の蛙でしかないことに気づかされました。そうなのだ僕が求めていたものはそんな簡単な「わたし」だけではないんだ、僕にはもっともっと考えることがある。Yさんはデカルトの言っているのは「Cogito, ergo sum」ではない、それはスピノザのいうように「Ego sum cogitans」なのだと。それがデカルトの真髄であり、後期ハイデガーが目指したテーマなのだと。新しい「わたし」を自分で考えたい。僕が自分で考え、身体の隅ずみまで浸透し納得する「わたし」というものを。そのためにはまだまだやることがあるだろう。まずはもう1度デカルトを読んでみよう。自分が納得いくまで。頭の悪い自分でもなにか見つけることができるはずだ。そういう希望がYさんのおかげで湧いてきました。Y師匠から芭蕉のうたをいただきました。「雲雀より上に安らふ峠かな」雲雀よりも高いところにある安らぎの場所に到達できるのだろうか。いつかYさんとそんなところで一緒におにぎりを食べてみたい。僕はきっと一生このうたを忘れないでしょう。Yさん、ありがとう!!まだやれる!そう思ったともすけでした。

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      テーマ:
  • 21Nov
    • 竹田青嗣の『現象学入門』を読んで。

      おはようございます、ともすけです。竹田青嗣『現象学入門』を読みました。 現象学入門 (NHKブックス) Amazon 1989年に出版されています。この時代の雰囲気は覚えていますが、僕はこの時代の本というのは疑ってかかるところがあります。このころに出版されたものはチャート式○○のような僕から見るといかがわしいと思えるモノが多かったからです。この本もこの時代の空気のなかで書かれたものだなという印象を受けました。まあ書くスタイルの好き嫌いは人にあると思うのでそれはさておくとして、この本はフッサールの現象学をもとにして書かれています。「フッサールの現象学」ではないようです。「竹田青嗣がフッサールの現象学をアレンジした本」と言っていいでしょう。それも1989年時点ですので現在とは30年ほどの開きがあります。最新の現象学についてはそれ関連の本は結構出ているようなのでそちらを読んだほうがいいのかもしれません。僕がなぜこの本を選んだかというと、といっても買ったのは十数年前になりますが、他の現象学の本が難しすぎたというのがあります。「現象学」って何?という人もいると思うのです。現象学とは僕に言わせると、フッサールという数学専門の人が哲学について考えたもので、とても綿密で地味な作業を行っているもので思考のダイナミズムのようなものはまったくないものです。「私」の意識から主観、客観のもつ臆見を取り除いて「私」にとっての真の世界を見てみようというものなのかもしれません。この『現象学入門』では竹田青嗣は「主観ー客観」図式というものを軸にしています。この図式に哲学はこだわり続けていたと。それはフッサール以降の実存主義、構造主義、ポスト構造主義もそうなのだと。しかし現象学は「主観ー客観」図式を取らない。だからすごいのだと言いたいようです。読んでいても竹田現象学が主観ー客観図式をなんというか乗り越えているというような感じはするようなしないようなという感じなのですが、僕はこの本の90ページの「6 <内在ー超越>原理」というところが興味を引きました。内在と超越の違いを竹田は、「もはや明らかだろうが、フッサールによれば、「超越」(たとえばひとつの机がある経験)は一種のドクサとして”構成”されたものだが、「内在」としての<知覚>体験は、原的な体験であり、いわばそれを疑うことに意味のないような、「不可疑性」の根源と見なされるべきものである。」(『現象学入門』P91)と書いています。内在というのは根源であるのですが、それは、この本を読むとわかるのですが独我論から始まった竹田現象学においては、掘っていくとどんどん掘り進められる井戸のようなものできりがありません。竹田の言っていることはおそらくそういうことではなく、その時間での知覚における”内在”的な感覚体験、人がそのように感じたという初源的な事実のことを「内在」と言っているようです。どっかで区切りをつけろみたいないい加減なことでもなく、考え方を変えてその「時間」=いまにおける根源を「内在」と呼んでいるようです。つまり竹田は「可疑性」と「不可疑性」の境界をつくりたいわけです。そうすると「内在」が「不可疑性」のモノ、「超越」が「可疑性」のモノということになります。ここに竹田現象学のひとつの鍵があるように僕は思います。現象学的還元をしていくときに「超越」はドクサを含むとしてエポケーし、「内在」だけを「妥当」するものとして信じるみたいな感じでしょうか。その内在を「知覚経験」とまた読んでいます。ここの時点で個々の人間は疑うことができない=「不可疑」自分の限界に到達するわけで、それが「内在」なのでしょう。この「内在」を知覚体験に限定したフッサールなのか竹田の視点は白眉だと思います。これはこれで考えてみたい問題です。しかし疑問も湧いてこないわけではないです。まず「内在」の話の前に書いた「主観ー客観」図式と「内在ー超越」は似てないかということです。いや、フッサールの内在は主観ではないのだと言うかもしれません。ここで書くには時間がないので(すいません)書きませんが現象学のやり方はデカルトのいうように「コギト」という魂の座を与えることはしていないようです。しかし「内在」=知覚体験になにか形而上学的なものを感じないでもないと思うのは僕だけでしょうか。このことは知覚体験というものがなんなのかを説明しきったときに解決されるものだと思います。そして「主観ー客観」図式が哲学の陥った罠だみたいなことがずっと書かれているのですが、別にそういうわけでもないでしょう。スピノザやライプニッツ、そしてフッサール以降のドゥルーズやデリダは二元論でモノを考えていない。デカルト、カント、ヘーゲルという教科書的ラインだけを取り出して批判しているところに竹田の考えに?と思ってしまう部分があります。さらに言うと「内在」ということですが、ドゥルーズは「内在」をもっと多様に捉えています。構造主義は言葉というもの、外部に形而上学的なものを持ってきたと批判されているようですが、デリダはそれを脱構築しています、ドゥルーズは構造主義を明らかに超えています。僕はドゥルーズの言っていることはよく理解していないのですが、ドゥルーズのいう「内在」はメビウスの輪のように内在と超越が結びつくもので、ゆえに主観と客観も結びつくし心と身体も結びつくものである気がします。竹田はこの本で、デリダの『声と現象』だけしか取り上げていないということも説得力に欠けるところだと思います。約30年前の本なので日本にはまだデリダがそれほど受容されていなかったのでしょうか。いまは続々とデリダの本が翻訳されていますものね。と書きましたが、この本は現象学について書かれたもっとも簡単な入門書であると僕は思いますし、これを読むことで、サルトルが目の前のカクテルについて語れるようになった感動を追体験できると思います。現象学はそれ以降の実存主義、構造主義、ポスト構造主義を語る上で欠くことのできないものです。サルトルの『嘔吐』の吐き気も現象でしょう。構造主義は現象学批判から始まっています。僕はこの本を読んでいて還元した意識があまりに抽象的であり、これではとても共通了解を説明できるとは思えませんでした。確かに頷くところはあります。男と女という違った性では性欲に共通了解がない・・・いま流行りのテレビの不倫騒動などを見ていて感じますw

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  • 01Nov
    • 宮崎駿からいろいろ考える。

      こんばんは、ともすけです。宮崎駿監督が監督復帰なされるようで、いちおう宮崎アニメは一通り観てきた僕としては次回作を楽しみにしています。最近出た本で宇野常寛の『母性のディストピア』というものがあります。この本はアニメをおもに扱って日本を語ろうぜ、みたいなものになっています。章として取り上げられている作家は、宮崎駿、富野由悠季、押井守。僕は宮崎駿のところまで読みました。僕はこの3人だったら富野由悠季の『機動戦士Zガンダム』を主人公と同じ年齢のときに(再放送で)観ていますので富野由悠季に1番興味があります。 母性のディストピア Amazon 宮崎駿ですが、この『母性のディストピア』では「母性のディストピア」というのは富野由悠季の章のタイトルになっています。宮崎駿の章は「母性のユートピア」となっています。「母性のユートピア」というからには、大雑把にいいますと、女性に母性を求めているということになっています。女性が理想的な「母」的存在として男を支えているみたいな。その庇護のもとで男は「飛ぶこと」ができると。『カリオストロの城』のルパン三世、『天空の城ラピュタ』のパズー、『もののけ姫』のアシタカ、『千と千尋の神隠し』のハク、『風立ちぬ』の堀越二郎などなど。僕が思い浮かんだのだけ書いてます。女性は勝手に飛ぶみたいな感じもあります。『風の谷のナウシカ』のナウシカ、『となりのトトロ』のサツキとメイ、『魔女の宅急便』のキキなど。『もののけ姫』のサンとかもそうなんでしょう。この本を読んでいると、宮崎作品の男ってのはそんな情けなかったかな~とか思います。宇野常寛的に言うと、この男を補完する形で女性も「母なるもの」の役を進んで演じているらしいです。だから男女相互補完的に日本ってのは役割分担をして戦後から現代に至るまでやってきたということなんだろうなと。それからまあこの本には名指しでは書いていないのですが、『けいおん!』からのアニメの流れ。僕はこれ、正直何を意図してやっているかまったくわからなかったのです。それがですね、どうやらアニメが虚構=仮想現実、VRを描いていた時代から拡張現実、ARを描く時代に移ってたらしいのですね。どうやら。つまり現実と地続きでないとダメなんだと。そう考えると今日の『ラブライブ』から『ポケモンGO』に至るまでなるほど~と納得できるわけです。『君の名は。』もそう考えられなくもない。もしかして観た人の多くはあの入れ替わりをオカルトと取るのではなく、SF的発想力と取ったのかもしれない。これからもしばらく拡張現実、この世界になにかを付け加える作品が主流になっていくだろうと思います。こういう技術的なことが表現の分野に如実に関わってくるのですね~。だからAIがもっと発達したら違う表現の作品が出てくるでしょう。僕も最近、仮想通貨に興味をもちましてそれ関係の本を読んでみましたら、P2Pとかはかなり古いとしてもブロックチェーンの仕組みとか読むとやはり最先端の技術のもとに出来上がっていると感じましたし、このブロックチェーンの仕組みって最新の哲学にも取り入れられているなと気づきました。どんなものもやはりその時代の最先端を見ていかないといけないんだなと感じます。まあ今書いたことはネットや本で知ることができますので最先端じゃないかもしれませんが。文学なんかもそういうところあるのでしょうね。もちろん昔の文学作品の価値が下がるとか技術的に劣るとかいうことではなくて、新しい文学は新しい技術を利用して書かれると。上の『母性のディストピア』なんかは宮崎駿と村上春樹を並べて彼らの時代はもう終わった的に書かれているように思いましたが、それは最先端ではないというだけで残るものは残ると思いますけどとんでもなく新しい小説を書いている人もいるのでしょうね。知っている方がいたら教えていただきたいです。僕はなにしろ夏目漱石をいまだに読み続けている100年以上遅れた人間なので。『母性のディストピア』で押井守が書かれているのですが、たまたま押井守監督作品の原作『スカイ・クロラ』を何ヶ月か越しで読んでいるので読み終えたいと思います。果たして押井守の世界を宇野常寛はどう捉えているのか。その前に富野由悠季はどう捉えられているのかが気になります。 スカイ・クロラ (中公文庫) Amazon

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  • 21Oct
    • カントと漱石の近代。

      こんばんは、ともすけです。図書館で坂部恵氏の本を借りてきました。 坂部恵集〈1〉生成するカント像 Amazon この全集1の月報は柄谷行人氏と鷲田清一氏が書いています。柄谷行人はここで、坂部氏の書いた『仮面の解釈学』と『理性の不安ーーーカント哲学の生成と構造』が同じ時期に出版されたことに注目しています。それは意図的にそうされたのだと。 仮面の解釈学 Amazon 理性の不安―カント哲学の生成と構造 (1976年) Amazon 『理性の不安』は、西洋哲学の可能性を探る本。『仮面の解釈学』は、日本と日本語で哲学することが可能かを問う本。西洋哲学を学ぶ人間が早晩直面する2つの問題。1、西洋の哲学が普遍的であると考え、その水準に追いつき追い越そうとする人。2、西洋哲学の普遍性を疑い、日本あるいは東洋で形成されてきた思想に普遍性を見出そうとする人。それに対して坂部氏は、「坂部氏はそのどちらでもない。氏は、西洋に由来するものであろうと、近代国家と近代資本主義という意味での『近代』に、われわれが否応なく属しているという認識から始めている。このような条件は考え方を変えたくらいで超えられるものではない。さらにいえば、坂部氏は、日本に回帰するまでもなく、はじめから日本の中に立っている。だが、日本および日本語による経験がそのまま普遍的であると考えたりはしない。ただ、それは普遍的な認識のために重要な貢献をなしうる、と考えるだけである。その意味では、日本の外に立っている。とはいえ、このように、日本の中にあり且つ外にあるというアンチノミーは、論理的に解決することはできない。これを解決するためには、いわば分裂を生きるほかない。」この分裂を生きるほかないということわ示したのが上の2冊だと言います。そして柄谷氏は、日本の近代化という短期間の出来事の中に、歪んだ西洋近代の諸問題が圧縮されて現れていると言います。そしてその一例として夏目漱石の名を挙げています。漱石はご存知のように教科書的には「余裕派」と呼ばれ自然主義やロマン主義の作家から区別されています。漱石の好んだ作家はスウィフトやスターン。彼が文壇に評価されたのは『道草』という自然主義的小説を書いてからでした。それも『猫』から発展して『道草』に至ったと評価されています。このような歴史観は間違いであることは疑いないでしょう。 ガリヴァー旅行記 (岩波文庫) Amazon トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1) Amazon 吾輩は猫である Amazon 道草 (新潮文庫) Amazon 漱石の作品には西洋近代の歪みが書かれている、それも坂部氏のように日本の中に立ちながらかつ外に立っている、そのような分裂のなかで書かれたものだと僕は思います。そこに西洋でもなく日本でもない近代の普遍的な問題が書かれていると僕は思います。柄谷氏はまた、三人称客観小説が小説を未熟な形式として抑圧してしまったと書いています。この三人称客観の視点はカントの「超越論的主体」という仮構に対応するものだと言っています。カントは「超越論的主体」を書いたいわゆる『三批判書』の前に『視霊者の夢』というスターン的な視点の作品を書いています。ここに僕は漱石とカントの類似点が見られると思うのですがどうでしょう。 純粋理性批判 1 (光文社古典新訳文庫) Amazon 実践理性批判1 (光文社古典新訳文庫) Amazon 判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7) Amazon カント「視霊者の夢」 (講談社学術文庫) Amazon 坂部氏と柄谷氏の視点から近代というものを考えてみたら面白いのではないでしょうか。前の記事で書いたようにポスト構造主義というパラダイムから別のパラダイムへと移行しようとしている時代ですが、僕は近代の問題も並行して考えてみたい。そこに現代社会の問題を解く鍵があるのではないか、そう思っているからです。

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  • 20Oct
    • てつがくについて。

      おはようございます、ともすけです。久しぶりの更新になりました。書く事がないので書かなかったのですが、最近哲学についていろいろ学ぶ機会がありそのメモ書きとしての記事で残しておこうかなと思い書きます。これを書くにあたって、昔あがためのおさんについて書いた記事でめのおさんについて僕の理解が不足していたということを謝罪したいと思います。まだまだわかっているとは言えませんが、めのおさんはメルロ=ポンティの現象学に強い影響を受けておられたのだなと数年間哲学書を漁っていた結果思い至りました。自分としてはデカルト以降から近年の哲学にいたるまでのいわゆる哲学史のようなものに目を通し終わり、ある程度書いてもいいだろうと思いましたのでちょっとこれから書いていこうかなと思っています。哲学が現代において無用の長物だとは思っていないにしてもあまり役に立たない、ただの知的好奇心を満足させるだけのものではないかと思ってらっしゃる方もいると思います。しかしそれは間違いだと僕は思います。哲学は西洋、今に至っては世界を理解するのに必須の知識だと僕は思います。人工知能やインターネット、政治、経済、人類学や文学に至るまでほぼすべてのことに哲学は非常に深い影響を及ぼしています。僕も社会学の隆盛や分析哲学へと哲学が傾いたことにより哲学の使命も終わったかなと勘違いしていた時期もありましたが、それはまったくの僕の認識不足でした。もちろん「人生哲学」としての哲学を言っているわけではありません。そんなわけで哲学についても記事を書こうかなと思っているのでもしかしたら記事を更新する頻度が高まるかもしれません。僕は哲学の専門家ではないので正しい研究のようなものを書く事はできませんし、哲学の最前線も知りませんが、近代の広い意味での芸術家から現代のトップアーティストたちにまで哲学的な思考を僕は感じています。そこのところを哲学と関連付けて書けたらなと思います。例えばカントの哲学がゲーテやシラー、ベートーベンにどのような影響を与えたのかなどということですね。ゲーテの『ファウスト』とはいったいなんなのか。現代の政治家小池百合子をマキャベリストと呼んでいる人もいますが、小池百合子はどうしてマキャベリストと呼ばれているのか。知っている方には当たり前のことですがわからないかたに向けて何か考えるきっかけになるような記事を書ければと思います。なぜ小池百合子はアウフヘーベンと言うのか?なにか違和感があるなと思っている人もいるのではないでしょうか。僕はずっと約100年前の思想にこだわってきました。ニーチェやヘーゲル、そして日本では夏目漱石。彼らのなかで蠢く思想に現代の人間の苦悩の根源を見るからです。それがいま完全に解かれようとしている、そう感じます。この世界のパラダイムが完全にシフトしてしまう。僕はそれに取り残されるかもしれない、そんな恐怖とともに一方で快感も感じているのです。それは漱石の『こころ』で先生が抱いたような感情ともしかしたら似ているかもしれません。この時代のなかでわたしは生きてきた。それについて話そう。そんな気持ちでまた書きたいなと思っています。書き始めるにあたって僕の盲を開いてくれたゆっきーさんには改めてお礼を言いたいです。彼女の親鸞論に僕は多大な影響を受けています。西洋だけではなく日本の思想も含めて書いていきたいですがそこまでの能力は僕にはありません。しかし最終的にはこの日本で僕らがどう生きていくべきなのか、それが唯一の問題となるのではないかと思っています。どこまで書けるかわかりませんがやってみようかと思っています。

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  • 07Sep
    • フロイトの鑑別診断

      こんにちは、ともすけです。ご無沙汰しております。ほぼ毎晩、信頼すべき愛すべきパートナーと楽しく知的興奮に満ちた会話を繰り返していて、その代わりブログを書く時間がないので長らく放置しておりました。これではいかん!ということでブログに会話で書き漏らしたことを書いていこうと思い、また書き始めることにしました。精神分析で有名なジグムント・フロイト。彼の鑑別診断について、松本卓也氏の『人はみな妄想する』を読んで考えてみました。フロイトの理論のわかりやすいガイドは、 フロイトの精神分析 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!-) Amazon これ、シンプルなんですけど、ツボを押さえているいい本です。フロイトについて詳しい人でも(精神医学を学んだ人はたぶん別にして良いと思いますが)フロイトの用語をあまり理解しているとは思えない…僕はそう思っています。特に日本語に翻訳するとニュアンスが印象が変わっちゃうので、きちんとその用語をフロイトがどのように定義したかを見ていかなければなりません。鑑別診断とは果たしてこの患者は神経症なのか、それとも精神病なのかというのを鑑別するということです。そういうシンプルな分け方は日本の精神医療ではされていないようですが、フロイトやラカンはそうしているということかな。で、『人はみな妄想する』を読むと、フロイトの鑑別診断がどのように変わっていったかが書かれているのですが、僕はそれを読みましたがよくわかりませんでした。フロイトはその思索の過程において鑑別診断について考え方をいろいろ変えているのです。そのことについて詳しく書かれていた本は今まで読んだことはなかったなー。でもね、読んでみると面白いのです。僕は臨床医でも臨床心理士でもないので思想として、たとえばある作家の神経症的兆候、精神病的兆候を読み取ることに面白みを感じています。「人はみな神経症である」とラカンは言ったらしいですが、この松本氏の本のタイトル「人はみな妄想する」というのは新しい鑑別診断の可能性を感じられて非常に興味をそそられます。ただ難しいのでなかなか先のページをめくることができません。1894ー1896を区分けして、このときフロイトは防衛の種類による鑑別診断論を展開していきます。「防衛」・・・なんのことやらと思うと思いますがこういうところをしっかりと押さえていかないとあとあと何を言っているのかまったくわからん・・・ということになります。まあ防衛のメカニズムから、神経症/精神病の鑑別診断を行おうということですね。1894ー1896の時点では「欲動」という言葉が使われていないようで別の説明のされ方をしているのかな。そもそもフロイトの鑑別診断の完成形がどのようなものか読んでいても素人なのでよくわからないのです。読んでいて非常に強いストレスを感じます。防衛を説明するためには、いろいろ言葉の定義を知る必要がありますが、とりあえず適当に書きますw 心的装置というものが人間にはある。その記憶系に表象がやってきて結びつけられる。そこで結びついた表象を自我が受け入れないと強い情動を生み出す。それを防衛のメカニズムによって解決しようとする。ちなみにここで出てきた表象と情動を合わせて「欲動」というらしいです。この防衛というのが科学的にどのような根拠があるのかは「防衛ー神経精神症」というフロイトの論文に書いてあるのかなー。全集にあたって確認していないのでそこはわかりません。彼女とこのことについて話したとき、証明できないものは信じないと言っていましたが信じないというのもありでしょう。フロイトはもともとが神経学者でありますし、症例をいくつか経験してきていますので、思いつきで防衛について書いているわけではないと思いますが。ラカンはきっと精神分析を科学とするために数学を使ったのでしょうね。とんでもなく端折りますけど、神経症と精神病では防衛の働き方が違います。そこで鑑別するわけですが、神経症はその症状の原因がなんなのかよくわからないのが特徴でしょう。なぜなら転換や配転が起こり、表象がそのまま現れないからです。一方精神病では排除が起こるわけですが、表象と関連する表象がそのまま現れてくるのです。そういう意味で真実を語っているのは精神病者の方だということになるでしょう。とまあ今回はこんな感じで終わりますが、この鑑別診断はドゥルーズとまったく考えを異にしているわけです。それはドゥルーズの精神分析批判の書とも言える『アンチ・オイディプス』という題名に現れているでしょう。しかし、それは過去のことであって、この『人はみな妄想する』という本はその見方を新たに書き換えることを目指しているようです。まあそのためにはまずフロイトの理解、そしてラカンの理解が必要なわけです。精神分析は人間の思考のメカニズムの新たな見方を示したということで、このメカニズムを踏まえて文学作品などを読んでみると新しい発見があると思います。興味を持たれた方は上のリンクにある『フロイトの精神分析』はわかりやすいので入門書となりうると思います。

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  • 18Aug
    • ラカンについて。

      ともすけです。しばらくぶりです。取り立ててなにをしていたわけでもないのですが、フランスの精神分析家、フランス現代思想の中心人物であったラカンの本を何冊か読んでいました。今回はラカンについて短いですがちょっと書こうと思います。興味のない人はまったく興味がないと思いますが、僕にとっては最も興味があるところなのです。では。ラカンを読んでいて思うことはふたつある。第1に、ラカンの精神分析の基本には西洋哲学がある。特にハイデガーの存在論があるように思う。これを意外に取られる方もいると思う。ラカンに影響を与えた人物としてはコジェーブがいて、彼のヘーゲルの『精神現象学』の講義からラカンはフロイトを読み取っている部分があるからだ。第2に、ラカンの精神分析の基本には数学がある。こちらはおそらく納得される方も多いと思う。ラカンはいちおう構造主義者としてくくられている。その構造主義の「構造」とは数学の「構造」であるからだ。ラカンはそれゆえに数学を使って精神分析を科学的なものにしようとしている。しかし、以上の2つを組み合わせるといささか厄介なことが生じるらしい。それは何かと言うと、数学によって精神分析を基礎づけようとすると、ラカンが最も基礎づけたい人間の「主体」の部分、人間の存在の部分がどうしても(ラカンの当時の)現在の数学とうまく整合されないらしい。これはソーカル問題が起きたことからもわかると思う。僕はフランス現代思想を20年ほど読んでいて、ドゥルーズ、デリダ、フーコー、バルトなどをおもに読んでいたがラカンをあまり読まなかったのには理由があって、まずラカンの場合はラカンの著書『エクリ』と『セミネール』が非常に読みにくいし、本の値段が高くて手元に置いておくことができなかったということ。そしてもうひとつがラカンを解説した本がその当時少なくて、ほぼジジェクしかなかったためラカンを読むとなるとジジェクを読むということと等しかったということだ。そしてもうひとつ些細な点ではあるが見過ごすことはできないので告白するが、ラカンは構造主義者であるということで、ぼくのなかではポスト構造主義のほうが先の思想であるという認識があったということはあるだろう。もちろん大学で学んだのがドゥルーズとフーコーであり、ラカンではなかったというめぐり合わせもあるだろうが。最近、書店の棚を見るとラカン関連の本は結構多く見られる。ラカンの思想に現代がやっと追いつきつつあるのだろうと思う。ラカンがやろうとしているたことを僕なりに書いてみると、僕が1番注目したいのは「主体」についてだ。この主体というものはフロイトの「自我」に近いが同じくくくることはできないだろう。ラカンはこの主体を説明するために数学を使っている。だがここで問題が起きることは想像できる。ラカンは構造主義者であるので主体を数学で構造として表したいと思っている。しかし、構造主義というものは本来、主体というものを排除したものなのだ。ラカンは構造主義に主体を忍び込ませようとしている。ではなぜラカンはそのようなことをしているのだろうか。それはラカンが西洋人だからであろう。彼は西洋がずっと考え続けてきた宗教と哲学の問題。神の存在と人間の存在を構造主義で解こうとしている。それは存在論であって、それもラカンは僕が思うにハイデガー的な「存在」を意識しているように思われるのだ。そうなると非常にやっかいなことになるだろうが、ラカンはそれをやろうとしているのだ。ラカンは自己言及性のパラドックスをどう解くかと考えたと思う。この問題は多くの哲学者がすでに考えていたことは当たり前なのだが、パスカルはそれを「人間は考える葦である」と的確に言い切った。人間は葦にしかすぎないのだが、世界について考えることができる。これはどうしたって狂っているとしか思えないのだと。ラカンはその狂った人間を、「すべての人間は神経症である」という言い方でアレンジしたと言えるだろう。ではラカンは自己言及性のパラドックスをどのように解いたかというと、それは残念ながら途中までしか解かれていない。どういうことか。ラカンが考えたと思われるのはアリストテレスのカテゴリーだろう。そしてその後人間の理性を基礎づけたカントのカテゴリー表であろう。カントは人間の超越論的な理性(言い方が間違っているかもしれない)、純粋理性とは何かを定義したが、カントのやり方ではフロイト、ニーチェ以降の「主体」のあり方を説明できない。ラカンが考えている主体は精神の主ではないのだ。カントの考える主体(主体という言葉は使わないだろうが)は精神の主である。ラカンは主体を現代に合う、構造主義、つまり数学で説明するためにメビウスの輪というものを用意する。メビウスの輪は知られているように表と裏がひとつに繋がっている。つまりメビウスの輪の構造を使うことにより、パスカルの言うような人間と人間の意識というものの狂気がつながるのだということを図で示すことができる。もちろんラカンはメビウスの輪だけでそれを説明しようとしているわけではない。それは『エクリ』や『セミネール』を読めばわかるし、それ以前にフロイトの著作からの異常と言っていいほどの読み取りの作業が見られる。しかしメビウスの輪を使うことによって、少なくともカントが考えていた純粋理性というものは、人間の意識を3次元のものとしてしか捉えていなかったのだと言うことはできると思う。その成否というものは僕にはわからないのだが。ラカンの著作を見ていくとクロスカップという構造まで人間の主体についての考察を深めているが、ラカンがおそらく意図していただろうことを思うのならば、主体の解明はまだ道半ばであろう。なぜならば数学がより新しい局面を見せるのならば、それを使ってラカンの主体の概念はまだまだ進化を遂げるからだ。おそらく新しい書き手が現れてラカンがフロイトを継いだようにラカンを継いでいくのであろう。ラカン派の精神分析が現在どれほどの成果をあげているかはわからない。臨床としての精神分析について語れることは何もないのだが、ラカンの、僕に言わせるのなら、差異の精神分析はアメリカ的な自我心理学では捉えきれない面を多く持っているのではないかと期待させてくれるように思う。ラカンは読めば読むほど面白いのだが、難解であるということは否めないので万人にオススメすることはできない(それはラカンの書き方に問題があると言っていいと思う)。だが最近ラカンを読んでいて、フランス現代思想がまだ生きていた時代の人間としてはラカンを知らないでは済まされないであろうということはわかった。ラカンの理解なしでポスト構造主義(それがあるならば)を語るべきではないだろう。今まで結構記事にしてきたが・・・。

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  • 06Aug
    • 『坊っちゃん』について。

      お久しぶりです、ともすけです。ブログを初めてからおそらく1番長く放置していたと思いますが、まだやめたわけではありません。石原千秋氏の『漱石と日本の近代』を読みました。 漱石と日本の近代(上) (新潮選書) Amazon この本には、『坊っちゃん』から『それから』までの作品が書かれています。そのなかで『坊っちゃん』は「教育と資本」という観点から書かれています。まあ簡単に言うと、坊っちゃんが兄からもらった600円の手切れ金をどのように使ったかという話です。坊っちゃんはそのお金でいまの東京理科大学で勉強して数学の教師になるわけです。それを資本にして四国に教師として赴任する。読んでいて面白かったのはかなり詳細なデータを出して、坊っちゃんがいかに近代日本の人びとに好かれる人間だったかを分析していることです(本当かな・・・)。坊っちゃんが江戸っ子であることは当たり前のようにされていますが、結構江戸っ子ぽくない。この作品を通してやっぱりおれは江戸っ子なんだなと気づくような話のようです。僕もそんな話になっていたのかもしれないと思い直しました。坊っちゃんは四国に赴任してからどんどん悪くなっていきます。きっと坊っちゃんは差別主義者で四国(ほぼ確で松山)で彼らを田舎者扱いしますし、教師も西洋かぶれのクズ扱いします。うらなりみたいなよくわからないやつに勝手に肩入れし、山嵐とは会津っぽということで結託する。かなり滅茶苦茶な人間に書かれています。まあ破天荒なやつみたいなのかもしれませんが、実はそんなに派手な行動もしてない気がする。逆にみんなにいじられているような。マドンナはよくわからないけどうらなりから赤シャツが奪ったことになっていますが、この本を読むと松山のなかで1番偉い!帝国大学出身!の赤シャツ様と婚姻関係を結ぶことはそんなに悪いことではないっぽい。むしろ冴えないうらなりから赤シャツに乗り換えるのはこの時代の自由恋愛にかなっているのかもしれない(これも本当か・・・?)。つまり『坊っちゃん』という作品は負け組に優しい作品なんだろうなと。旧幕府側の坊っちゃんや山嵐、恋愛弱者のうらなりくん。そういう人たちが近代日本の強者赤シャツや野だいこを叩きのめす、痛快極まりない話として描かれているようです。当時の人びともそんな感じで読んだんじゃないかな~と思います。ただ坊っちゃんの学歴が少々高い気がしますが、帝国大学出身の漱石から見たらこんなもんでいいかという感じだったのかもしれませんね。清という人も負け組なわけですが、彼女は坊っちゃんには逆に江戸っ子としてではなく新しい近代日本人として立身出世してほしかったようです。清は坊っちゃんにあなたは将来大物になると言っていますが、清は世間のことがよくわかっていないのでそれはあくまで願望でしかありません。坊っちゃんもそれがわかっていて、この婆さんはなにを言っているのだろうと不信がっている部分もあります。そんな清を坊っちゃんは母親のように愛しているのでしょうけどね。結局、坊っちゃんは敗れ、四国を後にするのですがこの『坊っちゃん』という作品は明治新政府に敗れた佐幕派の小説なんだろうと思います。やはり日本人は敗れるものの美学に弱いのでしょう。痛快、痛快で進みますが、最後はちょっと悲しい結末。最後は清という江戸の生き残りとひっそりと暮らす坊っちゃん。立身出世!イェーイ!ミリオネア!!金も女も思うがまま!!的なハリウッド映画的なものではなく、物寂しく世間の片隅で生きていく、でも母親のような清がいるよみたいな。そう考えると、『坊っちゃん』も他の漱石の小説と比べてもそんなに異色ではないのかなと思いました。まあ内面が酷い偏見の塊なのですけど。『坊っちゃん』論っていろいろありますけど、いろんな見方があるな~と思います。それだけ読み継がれていく作品というのは凄いなと思います。(本当に読まれてるのかは疑問ではある・・・)。

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  • 27Jun
    • ドラクエ王国

      こんばんは、ともすけです。うちにドラクエのモンスターたちがやってきました。トミちゃんにいただきました。既に僕とトミちゃんはできている・・・いや、それはブロガーの方々の想像にお任せしましょう。僕の部屋に散らばっていったモンスターたちを見てみましょう。テレビ台の上になにやらキング級のスライム発見!しかし、うまくできてるな~。王冠とかどうやってつくったんやろ・・・。ピンクのマダムっぽいスライムもいかす!右はキングスライムですね。左の方は・・・王であることは間違いありますまい!僕のテレビはスライム王たちに占拠された!この画面のなかにスライムがいます。気づかれないと思いますが。スライムベス!!砂漠のようなところを更新するホイミスライムたち。それを見守るスライムたち。列を乱すな~進め!おや!?なにやら高みからこちらを見下ろす影が!!なにものだ!!?タ、タホドラキー!!!!そんなところにいたのか!?さあ、みんなで踊ろうぜ!いいな~いいな~スライム~っていいな!おい!ドラキーも混ざってるぞ!後ろから見守る、はぐれメタルとバブリン。みんな楽しそうだね。実は後ろで隠れてるミニスライムくんもいます。これがスライムとドラキーたちの仮の住処だ!近々ジオラマ化する予定です。うちの猫に襲われること確実ですが・・・。トミちゃん、ありがとう。こんなに嬉しいことはない・・・僕にはまだ帰れる場所があるんだ・・・。こんなにつくってくれて嬉しいです。これだけつくるのにどれだけの労力がいったか・・・。ふっ、それも僕への愛が深かったからのこと。愛とは罪なものだ・・・。嘘!嘘!嬉しいな~トミちゃんアリガトウ!手紙、とっても嬉しかったよ。あんな情熱的な手紙をもらうとは・・・この手紙の衝撃は昔、湯川秀樹先生の手紙を読んで以来のこと!ちなみにトミちゃんとは永遠の愛を誓いました(信じるかどうかは自由です)。以上、ドラクエ王国のお話でした。

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  • 20Jun
    • 日本の仏教文化について

      こんばんは、ともすけです。日本に仏教が伝来してどのように受け入れられていったかについて書きたいと思います。高校レベルの日本史で習っていると思うので今更感はあるかもしれませんが、別に書いている『平家物語』と関連があるものなので、確認ということで書かせてもらいます。寺を見ていきたいと思います。学校でならったあの伽藍配置から見ていくと、まず蘇我氏の飛鳥寺、聖徳太子の建てた四天王寺、法隆寺まで。飛鳥寺、四天王寺は卒塔婆中心に配置されていますが、法隆寺で金堂と対等になっています。これはとても興味深いですね。そして天武天皇が建てた薬師寺に至っては、卒塔婆は脇役となっています。聖武天皇の東大寺では外に追いやられているようにも見えます。ここに仏教に対する考え方の移り変わりを見ることができるように思います。聖徳太子の時代は日本で仏教を熟知している人はおそらく聖徳太子一人だったでしょう。少なくとも聖武天皇の時代でも、なにかよくわからぬが国を治めるために・・・的な雰囲気を残していた気がします。ちなみに金堂は仏像があるわけですが、卒塔婆には釈迦の骨(仏舎利)があります。天武天皇はお釈迦様よりも薬師如来のご加護がほしかった、と考えると薬師寺の伽藍配置もなるほどそうなのだなと思います。薬師寺の三重塔はフェノロサをして「凍れる音楽」と言わしめていますね。卒塔婆が軽んじられていたわけではない気がします。聖武天皇は鎮護国家思想の持ち主・・・まあ仏教を利用して国を収めようとした人です。国分寺、国分尼寺をつくって国中に仏教を広めた人ということは確かでしょう。この時代は東大寺大仏開眼供養会などの大きなイベントがあったり、中国のスーパースター鑑真が日本に来てくれたりして、日本の仏教にとっては輝かしい時代だったと言えるでしょう。南都六宗で学問的に仏教が研究されたりもしています。奈良は大仏教パーティーだったでしょう(意味不明)。鑑真について少し書くと、鑑真は戒律を日本に伝えました。東大寺に戒壇院を建立しています。天下三戒壇のひとつです。ここで授戒しなければ正式な僧ではないのです。なにげに聖武天皇が授戒第1号だったようです。鑑真は唐招提寺で没します。鑑真は今で言うとどうなんでしょう、サッカーで言えばメッシが日本の小学生のサッカークラブに招かれてプレイするみたいな感じだったんじゃないでしょうか。鑑真なくしては日本に正しい仏教が普及するのはさらにさらに時間がいったでしょう。奈良の大仏教パーティーが続きますが、寺をつくったり仏像をつくったりでお金を浪費していきます。さらに僧の政治力が強くなり自分が政治の実権を握ろうと考える人が現れます。代表的な人物が道鏡ですね。道鏡は自分が天皇になろうとするというとんでもない僧でした。スキャンダラスなものを含んでいるようですが、それだけ仏教というものの影響が強かったということです。あまりにも熱狂した奈良の大仏教パーティーから逃れるべく、京都へと遷都することになります。ここから京都で新仏教が現れてくるわけです。それは次回に。

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  • 16Jun
    • 『平家物語』 その3

      こんばんは、ともすけです。『平家物語』 その3です。この『平家物語』は平安末期の平家六代の話ですが、歴史を知らなくても楽しむことができます。また、高校レベルの歴史、古文の素養があれば十分その文化的深みまで味わうことができると思います。要するに日本の文化に触れていれば誰でも楽しむことができるものです。 平家物語〈1〉 (岩波文庫) Amazon 冒頭。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。紗羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」このフレーズ、『らんま1/2』の九能帯刀という登場人物を思い起こさせます。彼には祇園精舎の鐘の声が聞こえていたのだろうか・・・ポーズだとは思いますが・・・。「祇園精舎」とは古代インドのコーサラ国の大きな寺の名前です。そこに無常堂というものがあることを覚えておきましょう。無常堂は坊主が死を待つときの建物です。無常堂の四隅には玻璃の鐘があります。その鐘が鳴っているわけです。ではなぜ「鐘の音」ではなく「鐘の声」なのか。「諸行無常是生滅法生滅滅巳寂滅為楽」(雪山偈)おそらく祇園精舎の鐘の音が声のように響いてきたのでしょう。僕たち日本人には馴染み深い自然観、輪廻転生の思想というものが現れています。この当時流行った浄土思想は念仏を唱えることにより阿弥陀如来に極楽浄土へ導いてもらえるというものでした。沙羅双樹というのは釈迦が亡くなるときに横たわったときに東西南北の隅に生えていた樹の名前です。釈迦が亡くなると成長し、北と南、東と西が1本になり、釈迦の上で葉を茂らせ花を一気に咲かせたといいます。ここまでで「白」のイメージが伝わってきます。祇園精舎の鐘は白銀です。雪山偈の雪山はヒマラヤです。そして沙羅の樹は白い花を咲かせます。釈迦の死を沙羅双樹の白い花で表してもいます。釈迦は2月15日に亡くなりましたが、季節的に白い花を咲かせない沙羅の樹が咲かせたということには奇跡の意味もあります。これは一見すると死を白のイメージで表しているようにも取れますが、これは「無常」を白のイメージで表しているととるべきでしょう。続く。

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  • 21May
    • F+f

      こんばんは、ともすけです。夏目漱石から考えたことを書いてみたいと思います。決して『平家物語』をやめたわけではありません!書きたいことはまだあります。義経の情報収集力の高さ、まさに孫子の兵法、戦う前に勝つという・・・それは次回以降に。漱石に『文学論』という本があります。文学論 (上) (岩波文庫)Amazonそこに「文学的内容の形式」が示されています。F+fFとは焦点的印象、または観念。fはこれに付着する要素。言い直すと、F=認識的要素f=情緒的要素です。これを僕たちの日常の「経験」に当てはめると3種類に大別できるとあります。(1)Fあってfがない場合。(2)Fに伴ってfが生ずる場合。(3)fのみ存在してFがない場合。漱石は経験論的なものの見方をしているような気がします。詳しくはわからないので次に。(1)は数学的あるいは科学的描写。写実的描写はここに当てはまるのかなと。(2)は(1)の描写からf(情緒)が喚起されるもの。まあいろいろありますよね。もしかすると1番オーソドックスであり難しいところかもしれません。(3)は心理描写。こうはっきり言ってしまうと違うかもしれませんが分類するならここでしょう。あと会話文なんかは概ね(2)に入るのでしょうか。漱石は『文学論』でShelleyの「A Lament」を(3)の例として出しています。”Out of the day and nightA joy has taken flight;Fresh spring, and summer, and winter hoar,Move my faint heart with grief, but with delightNo more---Oh, never more!”ロマン派っぽい詩ですがこの詩には具体的な情景描写はありません。心理描写だけではないので違うだろと思う方もいると思いますがこの詩がすべて概念と心理的要素だけでできているというところは納得していただけると思います。アニメの歌なんかを聴いていると(3)の例はよくあるように思います。例えばテレビアニメ『3月のライオン』のED曲「ファイター」。たぶん歌詞を書いてはいけないと思うので書きませんがEDアニメのYouTubeのリンクを貼っておきます。歌詞を読んでいただければわかると思いますがすべて概念と心理で構成されています。こういったタイプの歌詞はアニメの絵との相性がとてもよいと思います。歌詞で描かれなかった部分をアニメの絵が補完してくれる、そんな気がします。このED曲には、「『深淵』をまえにして、いたずらにそれにおののくのではなく、その「深淵」の上に橋を架けることを考えるべきだ。」とヴァレリーがパスカルを評して言った言葉がよく当てはまるように思います。なにかを乗り越えようとしている少年の心理を絵が補完してくれている。曲としての完成度はわかりませんが絵との相性のよさは秀でていると言えるでしょう。(1)と(2)が合わさった(F+f)の形式というものを漱石は想定しています。それがどのようなものかを言うことは難しいですが、例えば宇多田ヒカルの「花束を君に」。この歌は朝ドラの主題歌になっていますが(F+f)に近いのではないかと思います。歌詞を書かないとどうしても説明できないのでちょっとだけ書きます。「普段からメイクしない君が薄化粧した朝始まりと終わりの狭間で忘れぬ約束した花束を君に贈ろう愛おしい人愛おしい人・・・」最初の1行が(2)。異議もあるでしょうが歌詞という性質を考えると映像をつくるなら歌詞の方が主導権を握ると考えて納得してください。2、3行目が(1)。加えるなら4、5行目が(3)。無理やり感はあるかもしれませんが概ね(F+f)形式というものがどういうものかを感じ取ってもらえるのではないでしょうか。文章を書いて伝えるということはとても難しいことだと思います。漱石の『文学論』は100年以上前のもので古びていると思われる方もいらっしゃると思いますが、ものごとというものは常に先端がいいというものではないと僕は考えています。その時代時代の最高知性が命を賭して書いたものはやはり素晴らしいものになっている、そう僕は思います。文章を書くときに書き手はなにかを伝えようとします。僕もこの文章を書くときになにかを伝えようとしています。哲学で真理とは何かという問いがあります。僕はこの文章で真理を書かなくてはならないと要請されていると無意識に感じています。それがどのような形をとるかは別としてです。文学でも形式と内容のどちらを重視するかという問題があります。ここ数年のヒット作の傾向を見ているとやや形式に流れている気がします。去年の邦画最大のヒット作だった『君の名は。』は形式的な完全さを求めた作品だったような気がします。観客はその内容、意味することには関心を向ける必要はなくその物語の形式を楽しんでいた、僕は1回だけしか観ていないのですがそのなかの1人です。(余談ですが真理論には整合説と対応説というものがあり、このような見方は整合説に近いと思います。このような見方は真理の源を認識主観におきます。)「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション(早期購入特典:特製フィルムしおり付き)5,184円Amazon内容の方を重視する作品というのはほとんど見かけなかったというか僕がボンクラだったからかもしれませんがおそらく時代の要請がないのかそれを許さない状況があるのではないかと思います。強い信念とそれに対応する事実の結びつきが内容をより強くするのだろうと思うのですが、そのような作品は重い作品となり敬遠されてしまうのかもしれません。(また余談ですがこちらは対応説に近いと思います。経験論はこちらをルーツとすると言えるので『文学論』を書いた当時の漱石はこちらの考えをベースに作品を書いたのかもしれません。)ここまで読んでくださった方は、結局なにが言いたかったのだと思われる気がしますが僕は何かを伝えたいと思っているのだと思います。それを確信しているのに表現することができない。だから書き続けているのでしょう。また尻切れトンボになってしまいましたがこの阿呆みたいな文章を読んでくださった方、ありがとうございます。

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  • 16May
    • 『平家物語』 その2

      こんばんは、ともすけです。『平家物語』 その2です。 平家物語 (岩波文庫 全4冊セット) Amazon 『平家物語』は院政期から平家滅亡を書いた作品です。上では岩波文庫の本のリンクを貼っていますが、『平家物語』は幾種類もあります。大きく分けると読み本系と語り本系があります。岩波文庫は語り本系の覚一という人が書いたもので、覚一本と呼ばれるものをもとにしています。語り本系と読み本系の違いは前者より後者は源氏について詳しく書かれていることのようです。語り本系は「語り」ですから聞いて楽しむことを優先した部分もあるのではないかとも思います。具体的に中身がどう違うかについてはこの記事が長続きしたら書くことにして・・・。『平家物語』は作者未詳ですが、なんとなくこういう経緯でできたのではないかということはわかったいるようです。1330年にできたと言われる兼好法師の『徒然草』に『平家物語』についての記述があります。それによると比叡山の天台座主が慈円だった頃に、その慈円の庇護のもとに信濃前司の行長という人が書いたと思われます。また、慈円の書いた『愚管抄』と『平家物語』を読み比べてみると、その時代に起きた出来事の真偽が見えてくるところもあります。このほぼ同時代に書かれたと思われる作品に共通する特徴は比叡山延暦寺の影響が強く見られるということです。『平家物語』を読まれればわかることですが非常に強い宗教性が感じられます。そして『平家物語』は安居院流の唱導僧によって語られることが多かったといいます。唱導Wikipediaより「広義の「説教」に属する「唱導」は音韻に抑揚とメロディともない、経典の趣旨を取り出して比喩や因縁話を用いて語ることで人びとを仏教信仰に導いたのである。」ですからこの『平家物語』という作品は強い歴史性・宗教性・娯楽性を兼ね備えた文学作品だということができると思います。続く(たぶん)。

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  • 14May
    • 『平家物語』 その1

      お久しぶりです、ともすけです。これから何回かにわけて『平家物語』について書いていこうと思っています。 平家物語 (岩波文庫 全4冊セット) Amazon 基本、参照しているのはこの岩波文庫版です。他には、 いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 Amazon 『いっきに学び直す日本史』で『平家物語』で起きる事実関係を確認しています。『平家物語』には日本の中世に起きた出来事が書かれています。中世とはいつごろかというと、平安時代末期から江戸時代の前までだそうです。ですからほぼ500年ほどです。その中でも平安末期の院政が始まった頃から平家政権の成立、繁栄、衰退、滅亡までの期間を扱ったのが『平家物語』です。読む前の知識として知っておいたほうがよいことはその当時の政治システム、経済システムです。院政というものがどういう意図を持って成立したのか、それがどのような歪みをうみ、平家という武家の軍事政権を成立させることになったのか。どのような経済的基盤が当時の政権を支えることに役立ったのか。ここらへんがわかっていると物語を非常によく理解することができるでしょう。この朝廷の政治経済システムと当時の仏教勢力の関係も知っておくとなおのこと理解も進むことでしょう。また、その前後、藤原摂関家の繁栄と鎌倉幕府の成立にまで視野を広げればまた見えるものも違ってくるかもしれません。 人形歴史スペクタクル 平家物語 完全版 DVD SPECIAL BOX 45,684円 Amazon 昔の作品ですが、NHKで放映されていた人形劇『平家物語』があります。買う必要はありません。YouTubeで観ることができます。長いですが古文が苦手だった方はこちらを観るとよいかとも思います。 NHK大河ドラマ 平清盛 完全版 DVD-BOX 第壱集 45,360円 Amazon こちらは最近の作品になります。NHK大河ドラマ『平清盛』です。あまり好評ではなかったようですが僕は楽しめました。こちらはYouTubeなどにはないようなのでレンタルがオススメです。この『平家物語』はジャンルとしては「軍記物語」とされていて、日本には7つあるようです。『将門記』『陸奥話記』『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』『太平記』です。どれも平安から室町時代までの中世が描かれています。ちなみに江戸時代は近世です。近世の頃は韻文は高い評価がされていたようで、勅撰和歌集などを天皇の命で編纂していましたが散文はそれほど高い評価はされていませんでした。それゆえ散文には作者不詳というものが多いらしいです。『平家物語』がつくられたのはおおよそ1230年から1240年と言われています。

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  • 20Apr
    • 漱石 『草枕』を読んでみる。

      こんにちは、ともすけです。夏目漱石の『草枕』。 草枕 (1950年) (新潮文庫) Amazon 読むのは何度目かもうわかりませんが、この小説はまあ出来事が起こらない小説と言われて有名です。出来事が起こらないというのがどういうことかよくわかりませんが、主人公の画家が架空の街に旅をする。読んでいると夢か現かよくわからない気分になってきます。画家は「非現実」を追求しようとしています。非現実というのはこの言葉だけで想像してみてもいいと思いますが、時代的にはこの時代日本で流行った自然主義文学、つまりリアリズムとの対比で考えてみるとよいのかなと思います。この小説では俳句や日本画、漢文の素養など江戸期に教養とされていたものが読者に求められる部分があると思います。古典の教養が必要、そんな感じでしょうか。明治になり西洋の小説を日本が取り入れるようになると言文一致の運動が起こり文体の革命が起こりました。二葉亭から始まり田山花袋、島崎藤村で完成したと言われますが、この花袋、藤村の『蒲団』、『破戒』とほぼ同時期に『草枕』は書かれています。だから漱石はこの時点では文壇のアウトローだったわけですね。他の作家たちからどう思われていたかは調べてないのでよくわかりませんが作風が全然違います。漱石は自然主義文学というカテゴリーに入るものは『道草』しか書いていないようです。国民的作家にはいつなったのか? やはり『草枕』の前年の『坊ちゃん』が朝日新聞に載ったというのが大きいのかも。 坊っちゃん (新潮文庫) Amazon 『坊ちゃん』は江戸っ子で短気なきかん坊だと言われますが、徳川幕府が倒れた後の新興の東京人として描かれています。対する清が旧幕の成れの果てですね。ここらへんはその時代に生きていた人びとにとってはリアルなものだったと思います。坊ちゃんは四国に赴任しますがそこでこいつら田舎者だ、みたいにいいますけど坊ちゃんも別に武士とか貴族だったわけではありません。どんな気で言っていたのか・・・それは興味ありますね。話はずれましたが『草枕』ですがこの小説はいま現在僕らが読んでいる小説の文章とは違うもので書かれています。といっても言文一致の完成期の作品なので古典文学を読むような困難さがあるわけではありません。ただ素養が必要とされるというか、まあそんな堅苦しい言い方をする必要はないかもしれません。ただ使われている言葉が江戸以前の言葉を受け継いでいるのでその言葉から表象されるものが自ずと違ってくるというような感じです。自然主義文学が隆盛を極めて僕がなんとなく残念だったなと思うのは使われる言葉にリアリティが求められるために言葉としてシンプルな内容の薄いものが使われるようになったというのがあると思います。これはこれで西洋文学を翻訳するときに役立ったとは思うのですが、『草枕』のような小説、または『源氏物語』などの古典文学を読めばわかるように落っことしてきたものも多いと思います。といってももう古典に帰れみたいな、美術におけるロマネスクや新古典みたいなことは起こらないと思いますが。『草枕』を読んでいると、なにか見えそうで見えない、あれなんだろう?言葉が言葉として返ってくるみたいな感覚があります。イメージの仕方がちょっと自然主義文学とは違います。それがなぜなのかは僕もわからないのですが漱石は実験的に作品を描く作家であったことでも知られていますのでこの『草枕』でもなにかやってやろうという気持ちがあったのでしょう。ここらへんは講談社文庫の柄谷行人の解説?なんか読むとわかるような気になることができます。僕は新潮文庫で読んでますけど。まあ「非現実」です。この『草枕』には非現実がある。読んでみて面白くなかったという可能性を持つ小説でもあると思いますが草枕とあるようにまあ小説世界を旅してみると結構楽しいかもしれません。しかしこの画家はいったい何者なのだろう・・・単純にそう思います。

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プロフィール

ともすけ

性別:
男性
血液型:
AB型
お住まいの地域:
新潟県
自己紹介:
音楽一般に目覚めてきました。それにより読書の理解の幅も広がりました。共通点はリズムです。お薦めの本、...

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