2 リシュリューの執政
【戦争財政への抵抗、民衆蜂起】
それは必然的に大臣交替を主な政治目標とする高官に導かれた叛乱にすぎなかった。他のすべての叛乱は現状の権利および特権の保護もしくは部分的な利害を守るためのものであった。州の貴族や王国官吏、職工、小農民は経済の全体的な衰退傾向を感じて徐々に神経質になったところで、急激な国王の課税増徴に追い討ちをかけられた。さまざまな特徴ある不平は官吏の横暴な所行から、これら官吏による不正な税の賦課にいたるまでの全体的な不快と結合したのかもしれなかった。これらの民衆叛乱の特徴からして、そのような激発は1630~60年に起きており、したがって、絶対専制主義国家への移行期と一致するのは何も驚くに値しない。この移行期はそれ自体が漠然とし無秩序な過程であり、絶望的な戦いにより醸成された苦痛のもとで、以前の傾向の獣的加速を意味したため、それは特に困難で険悪なものとなった。そのような無計画の断片的な変化の最中、それら政策の策定者でさえ何が起きているかは理解できなかった。そのうえ、叛乱派も断片的・部分的であり、時にはまちがった方角を向いていた。政府の代理官や他の権威者に向けられた激しい抵抗を表現するための同時代の数多の表現のなかで民衆感情が最適と思われる。それは、社会の興奮と正当化された複雑な怒りを示すが、それと同時に、独特なこれら出来事の規則的な運動とパターンを示唆する。そのことは政府とその代表者によって十分に理解されていた。大多数の謀反は示威運動であり、公秩序の象徴的な小さな違反に限られた。そして、処罰されることは滅多になく、彼らは時には権威からの譲歩を引きだした。現象の全体な特徴は、この種の叛乱が政治行動の合法形として暗黙に認められる範囲を認識することで初めて理解できる。
社会の政務を履行する市吏員や総督に対し、あるいは財政および法政を管理する地方裁判所のような特殊な個人や団体に対し多くの騒動がおこなわれた。そのような場合は支配団体間に不平分子の闘争がしばしば起きた。そうした私闘が、地方社会のより貧しい要素の間で彼らの支援を結集するため、民衆的利害を利用するように導いたのかもしれない。これが大革命後にいたるまでの社会生活の恒常的な特徴としてつづいたパン騒動の一つを生じたのである。ところが、ほとんどのこれら暴動の自発性は疑うべくもない。それはしばしば市場の婦女の間に始まった。というのは、家族を守るという自然な願望を別とすれば、婦女らは責任観念希薄と見なされていたから、彼らはほとんど処罰されそうにもないことを心得ていたのである。パン騒動は、多数者の利害と支配している少数者のそれらとの間のある種の均衡を維持するのに重要な役割を演じた。というのは、この種の是認をしていなければ、富者と権力者が価格を下げる行動に出て応分の穀物供給を保障するのは甚だ疑わしかったからである。彼らの大部分は町に閉じ込められた。というのは、地方では貧者の雇用を大きな勢力に任せるのが通例であり、また、打ち解けた側の慈悲心がおそらくうまく機能するからである。無秩序と軍力と別の不変的要素は軍隊の移動である。それはいつも破壊と略奪の病理を残し、ある査察官の言を借りれば「この国を破壊する疫病」か、それらを早めるかのどちらかをもたらした。軍隊が近づいているとの報知が流れるや否や、町は城郭門を閉ざし、農民は村を離れた。というのは、彼らの仲間が小分隊や戦闘員たちにしばしば残虐行為をはたらいていたため、彼らが報復の対象となったからである。この強力な地方団結の世界では兵隊は門外漢であり、兵士自身の犯歴が一般市民に兵士を敵として扱うのを勇気づけた。いずれにしても、政府の資産の供給に失敗したことは官吏と請負人の汚職とも相まって現地の食糧で生きるのを強いた。問題の多くは冬季に最も激烈となった。そして、恐ろしいことにも、当局が特別税を正当化するために宿泊命令書を利用したため、悪感情は増える形勢にあった。特別税徴収は軍隊への支援でもって代替できることが地方規則となっている場合もあった。しかし、実際問題としてそれらは一般税歳入に包括された。旧弊は抑制されることなく続くことになった。概して政府は陸軍に関わる揉め事を無視する余裕をもっていた。なぜというに、兵士らは通常自分のことをしていたし、彼らに向けられる広範な敵意さえも兵士脱走を挫く有効な手だてであったからだ。ところが、民衆の一般的な憤りの風潮が漂うなかで彼らがさらに危険な叛乱に行き着くのに寄与したのは、軍隊の累積的な「振る舞い」だったことはまちがいない。
この世紀における民衆の主要な叛乱のすべては、以下に述べるもの以外の第二義的な特徴をもっていたとはいえ、根本的には王税制の上昇の一途をたどる負担に向けられたものであった。これら周辺的な局面の多くは、徴税制度を改めたり、反対者の焦点と判った制度や権利を攻撃したりすることにより、税制に向けられた広範な反抗を圧倒するための奮闘の結果でもあった。特に銅銭に対する貨幣問題、あるいはリシュリューによる貴族の大規模要塞の破壊というような他の不満の原因というものも同じ論理の上にたち、さらにはその進んだ変形にすぎなかった。十分に広範囲の、かつ長い期間に亘る軍事的鎮圧を要する結果を導いた叛乱は圧倒的に農業環境の悪化に起源をもつ。これらの場合、地主と小作人の間に敵対行為の形跡を見出すことは滅多にない(1675年にはブルターニュ人が惹き起こしたトレバン<Torrében> の叛乱がその例外的部類に入るが)。小作人間のこれらの暴動は初めは徴税吏と他の官吏の活動に向けられたものであったため、それゆえに都会と田舎の全体的な対立へと変化していった。憎まれた王室官吏は標準的に都会生活者であったからである。小農民の叛乱は農民軍の編成によりしばしば最高潮に達し、遂に都会をも攻撃することになった。彼らは城壁内に避難したギャベル(塩税)徴税吏の制裁を要求した。そして、攻撃側は郭外町<フォブール>のさらに貧しい住人から支援を受けた。都会の支配集団は当然のことながら、小農民が彼らに向ける憎悪に気づいていた。そして、彼らが都会から締めだされること確信した。たとえば、多数の都会の叛乱の最中にあっていちばん最初に攻撃に晒される町衛兵の主要な関心は正門を堅固に抑え、都会の暴動と小農民間のいかなる連絡をも絶つことであった。たしかに、都会での叛乱は多発した。しかし、それら叛乱の関心はタイユ税よりは間接税に、あるいは時おり強行される公債に向けられた。そして、それら間接税はそれぞれ異なる規範に則っていた。宿屋の主人、鞣皮業者のような専門的な集団は新税もしくは増税だと宣告し、そして徴税吏に対する民衆の刺激的な怒り集団の先頭に立った。しばしば暴徒に対し暗黙の共鳴の態度を示しつつ情報または国税増徴を漏洩してくれたのは、外でもない地方の官公吏であった。社会における富裕民は長期の、あるいは過度に激しい敵対行為の敢行が民衆的報復を呼び込む危険性に十分に気づいていた。民衆の乱入者に向けられる敵意の表明は、彼らが撤退するよう諭すものであったが、法に背く租税の廃止または削減とともに、単に地方の指導者が公式の赦しを入手しようと考える交渉の前ぶれとなった。
この叛乱の統禦された目標は二つの理由のゆえに可能であった。それらはかなり良好に訓練され、かつ装備された町衛兵の存在である。町衛兵は平時においては秩序の完全な崩壊を防ぐための頼みとされた。また、多くの職人や技師の比較的に批判的な態度は、限定された目標が達成できるすべてであると気づいていた。これらの要素があるにもかかわらず、少数の都会の叛乱はふつう手に負えないものになった。なぜなら、支配層が分裂しているか、あるいは決断力が欠けているか、強力な民衆感情が極点に到達していていたかのいずれかであったからだ。1635年にボルドーとアジャン(Agen)に発生し、また、1640年のムーラン(Moulins)に、1645年のモンペリエ(Monpélier)に、あるいは1670年のオーブナス(Aubenas)に発生したエピソードの類は税制暴動がどのようにして富者と貧民の対立へと発展していったかを示している。この種類に含まれた事がらには比較的に共通性が認められるが、それらが実際の行動に移行したという点でこれらのケースは極めて特殊な例であった。
田舎においては町の名士の議員に匹敵する権威はふつうでは召使や目下の力を結集でき、武装の限られた供給を保持する比較的に低身分の貴族階級の権威だけであった。その他の教区司祭や田舎の弁護士および公証人のような人々は叛乱における指導者として現れたのかもしれない。しかし、彼らにはこのような半軍隊的部類の確固たる支持者がいなかった。田舎の環境のもとでは税額それ自体よりも、その支払いを遵守させることによって大かた生起する事件のために、主な暴動の直接因となるのはタイユと他の関連する直接税であった。1630年代に要求された税の総計額が極大値に達したことは滞納問題を惹き起こす因となった。つまり、今度はこのことのゆえに徴税吏は大々的に暴力を奮うようになった。財産や家畜の差し押さえや、地域社会全体が各人の税金未納について責任を負うように仕向ける連帯責任制や、軍隊の村での宿泊など、1630年代後半に小作農民に税金を支払わせるよう恐怖政治を断行する場合にすべからく利用された。不承不承な同意を伴いながらも比較的軽微な税が徴税されるような状況から、国王の要求は脅迫や暴力の実力行使によって漸くカネを搾り取ることができるような、苦くもあり永続的でもある反抗という新たな風潮を生みだした。このことは田舎の地域社会に異なる要因が侵入してきたことを意味した。すなわち、以前には伝統的に地方の貴族階級により与えられていた庇護を懇請することがそうした地域社会の自然な反応の一つであったのだ。貴族層自身の態度がこの訴えを激励していた。すなわち、貴族層は外部のいかなる権威に対してもほとんど崇敬の念をもたず、また多大な反目や暴力などでもって業務管理を彼ら自身のやり方で実施することに慣れ親しんでいた。貴族層は、自分が滅多に守ることのできないような令状や判決という侵入しつつある文化の代表者たる町の法律家や役人を軽蔑していた。後者らは、財産か法律かのいずれかの定めるところが全能なことを心得ており、財産やその他の権利に関する論争において常に適切な行動をとった。つまり、そのような行動は地域社会が徴税吏らから自分の土地を守ろうとすることを容易く擁護するものだった。田舎紳士(下層貴族)は社会的下層民を傷つけたり殺したりすることで自分が処罰を喰らうはずはないと思い込んでいた。その一方で、私的暴力はほとんど効果的な罰則の対象とはならなかった。地代や封建税などの形式において収税論争に対して経済的利益を守ろうとするいかなる特有の欲求よりも、既述のような文化的な背景は貴族階級が態度を決定する場合の要件となった。ノルマンディやフランス南西部のような地方では、田舎の貴族階級はタイユ税を徴収する政府の能力と、徴税費用の両方に重大な効果のある永続的非合法化や徴税吏への攻撃に対して責任を負っていた。
貴族は無法にして危険だったにもかかわらず、また、王に対して本来的に忠実であり、自分らを国王権力に挑戦する存在であるよりも、国王の代理人の独断的な悪事と対抗する存在と見なしていた。彼らの態度には基本的に両面価値が見られる。つまり、永続的な小規模な反抗を激励しながら、一般に彼らは公然たる反抗に匹敵するものは何もかも回避した。貴族はふつう統治者やその副官を手伝うよう呼びだされたとき、これには快く応じなかった。とはいえ、貴族が大規模叛乱を鎮圧するのを手伝うような場合もあった。このような叛乱への不参加は確かに明瞭であり、これが結局のところ、貴族と地方共同体の絆を自力で弱体化したにちがいない。以前は部外者に対して借地農民を支持した地方の後援者が、今度は突然に現実の危機に際し彼らを見捨てたとき、裏切られたという感情を懐かない者はほとんどいなかった。このような発展を測るのはまったく難しい。しかし、1660年までに、身分の低い貴族への地方の敵意の最初の兆候が表われた。そして、それは共有林への支援をおこなう貴族の力の意義深い減退とほとんど確実に関連していた。たとえ貴族が自分たちこそ地方特権の効果ある防御者であると表明したところで、武装した保護で以てしてももはや、ますます実効力を増しつつある租税機構に対してはさほど役立たないものになっていた。貴族の矛盾する忠誠は彼らを気紛れ行為に導いた。そして、問題を惹き起こし、しかし最後になると、政府支持にまわった。このような行為を喜ぶ者はだれ一人としていない。そして遂には名声と権力の両方の永遠の喪失へとつづいていった。つまり、この田舎貴族の勢力の後退は地方における国王威信の構築と拡大への巨大な扶けとなった。低い身分の貴族の権力の多くはいずれにせよ、大貴族から保護を受ける制度に通じる組織に依存するようになった。そして、たとえこれらが徐々に萎んでいくように見えたとしても、彼らの用いた方法は秘密然として残る。しかし、これはコンデ公、エペルノン候、ラ・ロシュフーコー候のような実に多くの家臣のあいだにまでは波及しなかった。なおまだ暴力的な社会の中で自己防衛の必要と結合した伝統的な忠誠は官職や恩給に関するいかなる確実な報酬よりもふつういっそう重要であった。このような状況下ではフロンドの乱の最中における豪族の態度、そして、それに引きつづくルイ十四世治下の法と秩序の強行、さらに宮廷での任命権の中央集権化など、これらすべては異なった貴族層間の紐帯を断ち切るのに寄与したように思われる。
農民層も彼らの伝統的な庇護者から引き離すことにおいて最も決定的な挿話的な事件は主な叛乱であった。そして、それは1635年以降の戦闘を運命づけるにいたった。これらの激発は春に始まるのが通例であった。それというのも、一連の徴税請負人への攻撃となって表われ、次いで大多数の農民の集会が始まり、そこで苦情の一覧表が作成されたからである。再三、明らかにされた計画表は割り切りすぎたものであり、まさしく実行するに堪えないものだった。それは想像上の黄金時代、少なくとも一世代過去にたち戻る考えにもとづいており、それはしばしば「人頭税なしの国王バンザイ」という素朴なスローガンに表明された。もっと現実的な意向は徴税機構の濫用についての公然たる非難に圧倒されたにちがいない。しかし、そのような不平は常に二次的なものだった。農民集会は時おり、王の敵と戦うべきであることを提議しながら王への忠誠を公言した。すなわち、彼らの先導者たちは以前からの滞納分を免除するとともに本年の税請求について縮小を取りつけようとつとめた。とりわけ仲間の多くは、国王が実際に自分らの側に立ち、自分らの迫害者から守ってくれるものと錯覚していたため、彼らは明らかにひとたび自分らが団結すれば、王が自分らの目標を達成してくれるはずだと堅く信じていた。当時における政治的な説得力がみすぼらしいと思われるかもしれない。それはこのような危機に直面した民衆の行為に重大な影響を及ぼしたように思われる。租税制度に関与する階層を攻撃し、国王に嘆願する以外になんらの綱領をもたなかったのである。叛乱は常に弾みを失うことで終りを告げた。すなわち、数か月を超えて叛乱を支持すること、また、非常に広範囲に叛乱を拡げることは不可能だと判明したため、叛乱は決まって局地的なもの、州内の範囲に限定された。収穫の季節が近づくと、郷里に引き寄せられた農民は少なくなかったものと推定される。時が相手側にあることに気づいて権力側はしばしば、叛逆者たちが平和裏に解散することに期待にかけて惑わせるような約束をおこないつつ、一時凌ぎをしたであろう。しかしながら、税金を確保するという必要性は、あるいは、叛乱のくり返しを思いとどまらせる必要性はふつうに軍隊の投入を導いた。すなわち、常備軍は農民の寄せ集めの軍隊を比較的に易々と撃破できるように思えた。思うに、他の手段に依存したにちがいない唯一の真剣勝負は1637年のラ・ソヴタ(La Sauveta)で発生した。地図を一瞥して判るように、この時の叛乱は全地域に共通ではなく、大部分の叛乱はフランスの南西部の4分の1の地域に拡がっていた。この地域内でもまた、根強い衝突が起きる特定地区があり、ふつうは強硬地区の伝統や特別免除地区、異なった地形、類似した要因により区分されていた。直接の絆は明瞭ではないが、度重なる叛乱地域と新教地域のあいだに確かな一致が見られた。すなわち、その結びつきこそ、全住民が共有する独立心や地方民の高邁さの相対的な強みと関係のあることを示唆しているのは少なくとも納得がいく。南西部に見出される多くの要素はノルマンディにも当てはまり、1639年の「裸足」の大乱の背景にも、そして同地方特有の徴税吏への反発の背景にも当てはまる。これら二地域はすべての税負担の不公平さ蒙ったように思われる。
大臣らは官吏、町人、貴族、小作農による多様なかたちの不服従に直面したとき、厳しい緊縮財政政策のもとで退却と侵略の抜け目なく入り混じったかたちを変えた。新税の要求、貸付ないしは新官職創設の要求は、武力行使が最も貧しい階級からの少数の身代わりの実行を滅多に超えなかったにもかかわらず、しばしば撤回されるか、あるいは変更された。政府は早急に幾らかお金を手に入れるほうが、本来の要求を完全に満たされねばならないと主張することによって叛乱を起すよりもよいことに気づいた政府は、究極的な取引では何か設けるならばふつうは融通の効く用意をしていた。このことは乱雑ではあったが、実用的な方法であった。つまり、だれも個々の財政計画を促進することがいかに易しいかを予め語るのはできない。したがって、収入を最大にする唯一の方法は立てつづけに発令されたこのような革新を維持すること、そして、高い失敗率を受容することであった。その方法が実施されるにつれて、大臣たちは政治上の危険を非常に的確に判断していた。そして、1635年後の10年以上のあいだ、叛乱は広く行きわたったが、それは事態安定化への重要な脅威をけっして惹起しなかった。このことの一つの理由は、辺境地域にペイ・デタ(三部会設置の地方)すなわち最も容易く分離できた、あるいは重んじられた地方的慣習を取り巻く彼らの抵抗を最も容易く組織化することのできた地域に与えられた取り扱いであった。課税の主要な負担がペイ・デレクシオン(徴税区)にかかった。そこでは国王の権威に対する伝統的抑制は外よりもほとんど少なかった。一方、ノルマンディやポワトゥーのように、これらの地域はある種の代表身分を保持していた。そして、それらは故意に中止したままであった。それらは明白にけっして廃止されていなかった。なぜというに、政府はこのような地方の自由を圧し潰すことを希望しなかったからである。そして、政府は権利と免除の複合的な寄せ集めを事態の自然秩序として認めた。これはその相対的な成功の一つの秘訣であった。なぜなら、他人の特権の遠まわしの接近と一定の腐敗は正面攻撃がなされた場合よりも、非難し抵抗するのにずっと困難であったからである。王室弁護士が大部分の変更に上辺の合法性を与えること、そして、王と彼の忠告者たちがフランスの政治に、それらが多少革命をもたらした程度に大方気づかないままでいることが容易なほど、国王家臣とその親族を名目ばかりに規定した法律と慣習に意味の曖昧さと抜け道が多かったのである。
【行政改革; 査察官】