カロン「近代フランス経済史」(その24)
第Ⅱ部 20世紀
序文
1914年戦争の直前におけるフランスは世界中で二番目の大きな財政力をもっていた。つまり、1902年の『経済学雑誌』に掲載されたある論者の表現を借りると、「金の流れが向かう資本の大貯蔵庫」であったのである。公共土木大臣P.ボーダンが1903年に述べたように、この光輝く力は人口統計学上および産業の分野において偉大な「凡庸さ」とつながりもっていた。フランスの人口はヨーロッパで19世紀初は第2位であったが、今や5番目に位置している。フランスの工業生産は1880年時の9%と比べると、世界工業生産の辛うじて6%を占めるまでになった。工業部門においてドイツはフランスを凌駕しただけでなく、それにある程度の影響を及ぼすようになった。すなわち、フランスは330万トンの鋼鉄を生産しており、ドイツは1,300万トンを算出した。ドイツの有機化学製品はヨーロッパで優位に立った。その分野でフランスの会社は単純にドイツ会社の支店に姿を変えただけであった。フランスの電力会社のいずれも「全国電気会社」(A.E.G.)の組織をもたなかったし、また、A.E.G.の技術革新に匹敵するような技術水準をもたなかった。
しかしながら、われわれは第6章でとりわけ冶金、化学製品、および工作機械産業について1900年代の工業成長の際立つ発達に関して注意を喚起したことを想起されたい。J.シュンペーターの『企業循環』の読者であればよく知っているように、これは世界的な現象であった。19世紀末に始まり、特に電気、内燃機関、有機化学の発展から影響を受けた新たな革新のサイクルはドイツとアメリカで活気づけられた。このことは周知のとおりである。フランスがそれに参画しなかったと思うのはまちがっているだろう。若年または老年のフランスの企業家たちの幾人は、彼らに提供された機会をつかむのに十分な知見をもっていた。その証拠は以下のとおりである。1950年代と1960年代においてフランスは産業的活力を形成し、また見出したのである。そして、1900年代にそれらの真の始まりを経験した。これは1898年に設立された電力総合会社(Compagnie Général d‘Electricité)に当てはまるし、アルプス山麓の大電気化学および電気冶金会社にも、また、ルノーやプジョーのような自動車会社にも当てはまる。
じじつ、フランス工業は技術の現代化に活路を見出す。産業や都会の発展につながる電気の生産は ― たとえそれがかなり広範囲に分散して現れるにしても ― 無視できない発展を見せた。つまり、1900年の年間3億4千万キロワット時から1913年の年間18億キロワット時に増加した。フランスは特にアルプス山脈において水力発電の開発を始め、利用できる能力は1899年の15万キロワット時から1914年の55万キロワット時となった。この進歩は電気化学や電気冶金の発達と密接につながっている。フランスにおける技術の熟練化は生産性やコストダウンという点で特定の生産ライン、たとえばアルミニウムや塩素酸塩など、あらゆる部門で最良の結果をもたらした。これらの生産品に関する世界的カルテルのなかでフランスは支配的な役割を演じるにいたる。1898~1900年において自動車工業は約3分の2の過程が機械仕事(プジョー社)であるのだが、それのみというわけでもなかった(ルノー社)し、小実業家階級の出自の者が多く、残りは職人階級(ベルリエ)や貴族階級の出身者がいた。1913年、フランスの自動車生産は確かにアメリカの自動車生産性に適わなかったが、それでもなおフランスは革新的な設計によって明らかな優位性を保持していた。フランスの実業家は新デザインの完成のための不断の調査と全範囲の選択品を持続させるため、生産方法における技術革新を犠牲にしたことを非難されてきた。このことが実業家たちが真の大量生産を採用しなかった理由である。じじつ、これらフランスの自動車産業の特質は自動車産業に特異なものではない。フランスの工業は高品質商品を多種生産という多くの事例により特徴づけられる。これは1900年代の多くの実業家の「生産の合理化」のみが自国における限られた発展の道だと考える理由であった。しかし、第一次大戦でドイツと対峙することにより工業上の「凡庸さ」の重大な欠陥が露わになる。それと同時に、財政上の力というフランスの幻想は破壊されてしまう。
20世紀を通じて本当の国益についてのフランスの覚醒(第五共和政下と同様に、第三共和政および第四共和政下でもおそらく数多くあったはず)は「価値下落したフラン」を元に戻し、国に対しては力強くもあり、その潜在的能力にマッチした産業構造を与えることであった。1928年のポワンカレーの通貨改革は敵に対する勝利として刻まれた。しかしながら、極めて僅かであると同時に、極めて緩慢になされた1936年の平価切下げ策は失敗に終わった。ド・ゴール将軍の貨幣政策を支持する者は皆、そのようにしたと言われる。なぜなら、外国の援助を求めてフランスが幾たびも物乞いをしなければならなかった第四共和政下で受けた屈辱を彼らが記憶しているからである。
産業計画は1920年代とナチス占領下時代の暗黒時代と、そして ― もっと近年では、思うに現実よりももっと明瞭なかたちで ― 反成長原理の影響と危機の傷跡が残っているなかでジョルジュ・ポンピドーの死後に放棄されるに終わった。1945年以来の成功した努力にもかかわらず、ポンピドーが集めた数人の専門家は1968年4月こう述べた。「フランスの工業はその構造とわが国の経済構造に潜む特定の弱点ゆえに害を蒙っている」と。1969~73年の時期は現在の指導者がその必要性を何としても否認しがたい工業化のための圧力の極致点を記録した。彼らは多大な柔軟性を与えることによりそれを危機の中にある世界と常に変化してやまない市場のニーズに適応させることを単に試みたにすぎない。
この第二部の最初の3章では長期成長の異なった側面がそれらの連続性を引きだすために述べられるであろう。それからわれわれは1914年から1950年にいたるまで年代順の研究を述べるつもりだが、価値判断がそこに織り込まれるだろう。最後の二章はフランス資本主義構造の発展と、1950年から1974年にかけての国家と実業界の動向を検討に当てられるであろう。この叙述指針は或る程度のくり返しに終わるかもしれないが、厳密に年代順の概要は連続性を強調することはできないかもしれない。
第9章 20世紀のフランスの発展