カロン「近代フランス経済史」(その12)
第4章 資本の形成
【基盤投資】<運輸・鉄道のつづきのつづき>
ところで、1914年戦争の前夜に外国から大きな利益を得るのと同じように、大手商業銀行はフランスの産業株を保有していた。パリ=オランダ銀行、パリ連合銀行、フランス勧業銀行、商工業銀行(ルーヴィエ銀行)などは鉄鋼業や電気事業会社から利益を得ていた。しかし、産業の立場からすると、銀行は第二義的役割を超えるものではけっしてなかった。実際のイニシアティブは多様な起源をもつ事業主が果たした。1860年創業の預金銀行は当初こそ、産業部門でかなり力強い契約を保持したが、1870~80年の間に停滞を経験したのち、1914年戦争直前までにさらに後退したようだ。この1914年を境に産業活動が復興した。預金銀行がこのような全体的な活動に加わるのは、例外的な産業投資ブームが生じた際に限られた。
19世紀のフランス産史に向けられた研究はすべて自己資金の重要性を強調しがちである。レヴィ=ルボワイエとフォーランは、会社は社内規定で収益の一部を事実上強制的に再投資するよう謳っているという。19世紀初頭の繊維産業の会社から幾つかの例を引きあいに出してみよう。たとえ会社の創業資本が銀行家によって準備されたとしても、発展のための資金は会社の自己資金から出ている。「自己資金は活動資産の成長の主な要因であった」。たとえば、ドゥカズビル社は1830~45年期に収益の再投資でもって資本価値を倍加した。この傾向が会社規模の拡大を減じたとはとうてい思えない。じっさい、集中の理由のひとつは自己資金力を増すことであった。1899年、バビュ(Pabu)はサン=テチェンヌ地方の会社に関する注目すべき論文を通して次のように結論づけた。「ロワール工場は極めて短期間で設備を償却しただけでなく、巨大な貯蓄をつくりあげ、それは必要な場合に危機を切り抜けさせ、たとえ製鉄の操業中の変化がいかに大きくなっても設備を近代化させもした」という。そうした「危急時の貯蓄があればこそ、会社は不況時を不安なしにふり返ることができた。」たとえばドゥナン=アンザン社は1897年に新しい製鉄工場を設立する決意を固めた。そのために利益の85%を社内に留保した。石炭部門についてジレー(Gillet)はこう語っている。「石炭会社の自己資金の程度はノール県の繊維産業会社の自己資金レベルに大いに近づいた。19世紀末から20世紀にかけて設立された自動車会社も自己資金の恩恵に大いに与った。当時において斯界最高の観察者のコルソンは1908年にこう書いている。「わが国の会社は収益の大部分について配当を増やす代わりに、設備の拡充を促すために当てた」と。
われわれはこれらすべてに関し全体的な数値を保有していない。数値は1890年代以降のぶんしか利用できず、それでさえ完全とはいえない。その当時の経済学者J.レスキュールによると、フランスの会社は利益の半分を貯えとして留保した。G.F.トゥヌールもまた、1890~1913年の内部留保率は50%と見なしている。1880年と1913年の間に会社の投資にまわされた貯蓄と名目上の資本との差は産業部門において著しく大きくなったが、その比率は鉄鋼業で1.23から3.13に、機械製造業で1.22から2.33に、造船業で0.73から2.20に、化学工業で1.87から2.5にそれぞれ増えた。それは過大評価という疑いがあるにもかかわらず、これらの数値は企業資本の倍増を示している。さらにジャン=ブーヴィエが示すように、分配された利益のほうが全体的利益よりもずっと早く増加しなかったことは明白である。
トゥヌールによると、1896~1913年期の会社の年間平均投資は25億フランに達したが、そのうち16億フランは会社の自己資金にまわされた。1910~13年期にマランヴォーはすべての自己資金率は80%を占めるとした。
これらの観察結果は1950年代の一部著述家たちの大いにばかげた皮肉に満ちた批評の暴露につらなった。彼らは金融市場による会社融資の取り消し行為を語る。すなわち、内部融資好みは主として事業家たちの自己財産を守ろうとする欲求から生じたというのである。つまり、彼らの会社が家族資産の一部であるとの理由、あるいはたとえば「合資会社」や「合名会社」のいずれかである場合でも、事業家たちが自身の業務上に個人の支配力を及ぼしつづけようと望む理由のいずれかに因るという。バビュの記すところによれば、巨大な資本企業の場合、「その目的は資本自体の増大よりも、むしろ資本による収益の増大にある。」自己融資好みもまた、合理的経営のための欲求に起因する。「緊急時のための準備金」(バビュ)は需要の急減や技術的不確実性に対処するため立案されたという。巨額の準備金を用意するための債務は常に、国務院が「株式会社」の創立を許可するに際し負わせた制約のひとつであった。
しかし、多額の予防措置が執られたのは、これらの経営上での慎重な取り決めはいつも遵守されたわけではないとの理由によるのは明白である。じじつ、2種類の会社(収益の内部留保および再投資を有利にするものと、そうではないものとの2種類)の間に区別が設けられた。最初のカテゴリーには法律上で分類された会社の規模の両極端、つまり、同族会社と、会社の成長の保証を至高目的とし、経営者の手腕に会社の経営が集中しがちな株式会社との両方が含まれる。一方、創業時の株主が彼らの意向を感じさせるほどに多額な資本を抑え管理し経営する「合資会社」または「株式会社」でさえ、可能なかぎり配当利益を増やす目的に沿ってしばしば経営された。たとえば、ノールの石炭産業はジレー(Gillet)によると、その多くは利益配当を主目的とし、そして、何人かの経営者までもこの傾向に引きずられる意向にあった。合資会社の場合、匿名組合員が時に多額な配当金を得ようとしたため、圧力を加えることもあった。これらの会社多くは匿名組合員と経営者の間で絶えざる緊張関係があった。前者は、もし遅かれ早かれ実質的な資本増額と創業出資者への特典の結果を生まないかぎり、収益の計画的再投資を受け容れようとはしなかった。したがって、自己融資全体は遅かれ早かれ、その会社が成長している際は利益配分に終わってしまう。
覚えておかなかねばならないのは、輸送部門が自己融資をしなかったことである。これはすべてが事実であるわけでなく、維持費のかなり大きな部分が実際に資本価値の増大に使われた。しかし、鉄道会計に欠くことのできない規定は流動資本総額の増加による支出はふつうには貸付によって融資された「最初の」支出であることだ。鉄道会社は事業負債の償却を実行しない。彼らにとっての「割賦償還」という用語はただ単に出資の払い戻しの意味をもち、それはしばしば彼らの部門間でクジ引きにより実行された。鉄道会社の準備金は取るに足りないものだった。しかし、彼らは1914年以前における主として従業員への住宅供給から成る彼らの「私有地」を発展させるかたちで収益の再投資を実行した。
どのようにしてこの産業自己金融が発達したのであろうか。その答えは2つある。一方において流通ないしは流動資本が固定資本に成り代わってしまったこと、他方では物価下落や賃金上昇にもかかわらず、産業利潤は上昇した。しかし、周知のように、上昇中断がないとはいえなかった。われわれは後の第8章で2番目の理由を精査するとし、そこでそれを成し遂げることに結びつく産業成長のメカニズムを研究することにしたい。さしあたりは、産業成長は全利潤の高い割合を通して唯一実現できたというだけで十分である。最初の要因、流動資本が固定資本に成り変わることは19世紀を特徴づけるあらゆる金融的・技術的革新の結果として生じた。技術的進歩が生産に必須な大量の流動資本を減らすというのは当然である。商業資本主義は少額の固定資本で以て運営されるが、それでも多額の営業資本の利用を必須とした。同様に鉄道網の創設は商品輸送を速め、配達の不確実性を廃したし、それゆえに原料の在庫が減じることができたし、かなりの資本節約を促した。すなわち、以前は気象の気紛れ、運河維持のための点検の必要のゆえに輸送がしばしば停止した。最後に、短期信用貸しの発達が会社の資金処理により多くの余裕をもたらした。企業会計における進歩もまた確かに会社の資金力のより正確な計測に達することを可能にした。いわゆる初期のフランス企業家たちの慎重さはしばしば無知に起因していたものと推定される。
表4-6 パリの資本取引の問題(F.マルナタによる)
社 債 株 式
総計 産業 % 総計 産業 %
1892-1896 543 168 34.7 176 67.6 55.5
1897-1901 941 409 43.5 470 214.2 62.6
1902-1906 716 299 42.1 369 348.3 67.3
1907-1911 1,440 605 41.9 616 410.8 66.7
1890年以降、そして1905年以降の投資活動の激烈ぶりは自己資金の増大とは無関係に、19世紀末にかなり増大した外部資産に訴えるにいたった理由を説明する。フランスの証券の発行は1896年の2.1%と比較すると、1913年には純工業製品の6%に等しかったと思われる。表4-6はF.マルナタ(Marnata)の近著に示されているパリ証券取引所の発行高を示している。1897年以降、工業部門は全発行高の5分の2、株式発行高の3分の2以上に相当する。工業部門は銀行業や運送業よりも少なく、国債市場に頼ることができた。