カロン「近代フランス経済史」(その7)
第3章 財政的発展
【諸制度の発展】
通貨と預金の問題は成長の見地からばかりでなく、安定の見地からも考慮されねばならず、預金に関連する制度や資本調達に有効な方法の基本的変化のみを望む立場からも工業化は起こりえた。しかし、自由主義あるいはサン=シモンに由来する諸傾向は、政府および支配階級部分における2つの深く根強い態度に起因する頑強な抵抗に遭った。最初の態度は一方で大量の通貨発行政策と安易な信用政策の因果関係に鑑み誠実さが大いに正当化される信念である。他方では取引サンプルの不規則性の間に因果関係のあることが真剣に信じられ、大いに正当化された。2つ目の態度は危険な投資から預金者を保護したいという願いにもとづいた。最初の態度は、以前ほとんど時期を同じくしてフランスとイギリスで生起した出来事(ジョン・ロウ事件と南海泡沫事件)によって強められた。すなわち、フォビルが1887年に書いたように、「預金の誤用によって危機が惹き起こされ、その悉くが悲痛な破産に連なった」。
第一帝政はビヨレの表現を用いれば、王政復古期の「巧妙に工夫された」金融制度を残した。この制度の中心はフランス銀行だった。それは、銀行家グループによって1796年に設立され、すでにパリの金融家のために一種の特別銀行の役割を果たした「当座預金銀行」から誕生した(1800年)。フランス銀行は発券銀行であったが、その独占権は1848年までパリ地域に限られた。独占権付与の見返りとして、国家は「前払金」を保持することができた。手許の銀行券と金塊は流通する紙幣に対する担保の機能をもった。1803年法はフラン価を定めるのに銀5グラムまたは金322.56ミリグラムとした。銀行は3つの署名がなされている手形を割り引くことができた。そして、手形は最長3か月間有効であった。当初、フランス銀行は割引よりも再割引に関わった。発行された大量の通貨は割引政策と密接に関連した。
1815年以降、フランス銀行は自己の殻に閉じこもってしまう。それは国家参事会の承認を得て創設された地方銀行の発展を抑え、中央銀行の支店の欠乏を補おうとした。地方銀行は各々の所轄地域において貨幣発行を認められたが、ある県内の町相互間で手形割引行為は商人されなかった。このような銀行は1818年から1822年にかけてナント、ルーアン、ボルドーの主要3港に設立され、1830年代にリヨン、トゥールーズ、マルセーユ、リール、オルレアンに拡大された。しかし、ディジョンは他の町に支援を求める許可を与えられなかったため、即座に必要資金を調達できない地位に据えおかれた。フランス銀行は1836年から直属支店を設立する方針を採択した。1840年以降、国家はもはや県内の銀行の設立を許可しなくなった。1848年の重大局面は県の銀行を危機的状態に陥れた。県内銀行はそれらが発行した債券を法定通貨として認めるよう要求したが、これらの債券は発行された町においてのみ流通していたため、フランス銀行の貨幣に匹敵すべくもなかった。法定通貨という地位への要求は、それが通貨統一を伴わないため事実上、自殺行為となった。かくて、県内銀行は中央銀行に吸収されてしまう。県内銀行の消滅はフランス銀行の発券銀行としての独占権を確立し、そして、1905年までに411の異なる町に支店が設立される割合で発展しつづけ、かくして国じゅうでの貨幣の価値統一がなされていった。実をいうと、20世紀当初にフランス銀行が演じた銀行制度および貨幣制度の役割は相対的にイギリス銀行が演じた役割よりももっと重要だった。これを裏返し的に言うと、フランスにおいて他銀行が果たした役割は、匹敵するイギリスのそれと比べてずっと重要度が低かった。
19世紀初め、パリの私立の大手商業銀行はその地位と強め、活動舞台を拡大しつつあった。それらは18世紀に創立された。すなわち、1723年にマレー、1776年にドレッセ―ル、1782年にペルレグォ、そして、1792年にはグルノーブル出身のペリエによってである。第一帝政下においてはピエ=ウィル、カレット、そして、ルフェーブルといった新世代が顔を覗かせた。19世紀初の20年間と1820年代以降にはもっと多くの新銀行が設立されたが、それらはしばしば外国人の手によるものであり、その中にはロチルド、アイヒタル、トゥルネッセン、フルトが含まれている。これらは通常、大手の貿易商一族として出発したのち、国家間の通貨精算においてパリが演じる支配的役割のためにパリに引き寄せられた。彼らの行動はまた国家の活動とも密接に関連していた。これら銀行家の多くの出自は徴税官だった。しかし、1850年代まではパリおよびリヨンの大手商業銀行の国際的規模の力量と、遠く離れ離れ状態にあって地方間のつながりをもたない地方銀行網の脆さとの間には顕著な差異があった。レヴィ=ルボワイエは1830年頃には多くの地方で信用貸しはまだ「単なる空約束」であったにすぎないと書いている。ヌヴェルとアンジェにおける信用貸しの主なる出所は高利で金を貸していた公証人たちであった。もちろんすべての大きな町には銀行はあったけれども、フォーランがリールについて、レオンがグルノーブルについて指摘したように、その地位は脆弱であった。ディジョンも同様であり、そこでは1842年に大手の地方銀行が破産した。恐慌が起こるたび、特に1839年から1842年にかけて地方銀行網が経験した衝撃の大きさは主としてそれぞれの中心地が比較的に遠く孤立していることに因った。アルザスはそれほど遠く離れていないため、辛くももち堪えた。そこでは信用貸は空約束ではなかった。しかしながら、概してフランスの商事社会の大部分、そしてパリにおいてさえも、包括的銀行網の欠如と大手銀行やフランス銀行の抑制政策のために、歴史家ジルが呼ぶところの信用貸し「地獄」に属する人々が提供するサービスに敢えて頼らざるをえなかったのである。
1820年代に銀行家J.ラフィットは、― 彼はペルレヴォの後継者であるが ― 預金を長期・短期両方の信用貸しを発展させるのに使う株式(有限)会社形式の機関を創設しようとした。しかし、国家参事会はこれを認可しなかった。ラフィットは1837年にその計画を合資会社の形態で復活させた。ラフィット銀行は創始者が望むところの活動の場はもてなかったが、信用貸しの発達を強く刺激した。後論でわれわれが見るように、フランス銀行は政策を修正したし、1840年代になると、他の信用貸機関も事業を創始した。
貯蓄銀行の成長は普通預金銀行の苦しい滑りだしとは著しい対照をなし、通帳の数は1835年の12万1千冊から1857年の5万7千冊に増大した。概して帝政下で「国庫の周囲」に創立された財務構造は七月王政下でも生き残った。そして、この事実上の国家の貯蓄はすべて本ものの銀行ネットワークの成立を阻止した。
1847年危機と1848年の革命は銀行制度の発展に決定的な足がかりを与えた。金庫という心もとない構造物は崩壊した。そして、1848年春にはパリと地方両方のほとんどの銀行家たちは支払いを停止した。したがって、フランス銀行との取引にはもはやいかなる仲介もなかった。割引融資のための支店が生まれたのはこのようにしてだ。彼らの資本は国家と地方自治体と私的個人の間で分配された。そのうえ、国家は通例、それらに貸付を認めた。77店の割引銀行が設立された。彼らの活動は簡単な割引以上に拡がった。パリの支店は7つの純粋な私的出張所を通して動産や株式の取引にまで発展した。同時にアントゥルポ=ジェネロー、つまり卸売問屋が設立されて、それらは預金保証の発展を可能にした。割引銀行支店は僅か3年間でつくられた。そして、1853年の布告により合資会社として生き残った。パリ支店の「パリ割引銀行」は一定の公的規則に縛られてはいたが、1850年代に私企業に成り代わった。それは資本金420万フランで出発し、1866年までには8千万フランと徐々に大きくなった。1865年になって初めて小切手の法的地位がフランスで定義された。しかし、事実のほうは法に先んじた。それらの支店の速やかな発展のおかげで1850年代の後半および1860年代には貯蓄のための主要な経歴となるよう運命づけられた大きな信用体制とフランスにおける銀行預金の循環の始まりをみた。このような新しい創設が1859年の商工銀行や1863年のクレディ・リオネや1864年のソシエテ・ジェネラルであった。1865年のソシエテ・マルセーユのような他の銀行はもっと地域的な範囲の影響を及ぼした。こうした店舗の主要な活動は要求支払預金と短期満期の手形処理であった。しかし、それらはすべて自己資本を使いながら直接的あるいは顧客のために長期の投資に関与した。歴史家ジャン・ブーヴィエの言葉を借用すれば、それらはフランスおよび外国のあらゆる種の債券への投資のための「大市場」となる宿命にあった。われわれはのちに、産業問題へのそれら銀行が関与することで生じた問題点について検討することにしよう。
じっさい、フランスでは短期貸付金や取引先の有価証券の取扱いを専門に扱う預金銀行とフランス国内または外国での産業および商業に関する事がらと多額貸付金との両方の増進に指導的役割を演じる商業銀行の概念上の区別が明らかであった。なぜなら、イギリスの場合もそうだったからだ。ソシエテ・ジェネラルのような銀行は両方のカテゴリーを含んでいた。しかし、その区別はより明瞭になる傾向にあった。ペレ―ル兄弟は第二帝政期に株式会社の形態にもとづく大商業銀行を設立した。それはクレディ・モビリエ(動産銀行;1852年設立)であり、その活動は第二帝政下の商業生活を差配した。1867年になると、クレディ・モビリエは破産するするはめになった。なぜなら、他の問題の銀行と同じく社債発行の許可されなかったのだ。1870年代と80年代初には1872年設立の国立パリ=オランダ銀行を含む膨大な数の新手の銀行が誕生した。フランスでは19世紀のうちで1873年から82年の間にいちばん激しい投機がおこなわれた。しかしながら、新生銀行の多く(特にユニオン・ジェネラルに代表されるような)は1883年から86年の間に破産の憂き目を見た。銀行の創設とその系列の再編成の新しい波は1900年から13年の間に国立商工業銀行(1901年設立)とパリ連合銀行(1904年設立)とフランス動産銀行(1902年設立)と地方銀行中央会(1904年設立)などを中心に誕生した。大規模な国際的投機を回避できる銀行をつくることを目標に掲げていた。営業活動の範囲が確実な預金による経営に限られた地方の銀行にとって預金銀行の発展は大きな打撃となった。そのなかで何とか生き残ったものは1900年代に目覚ましい復興を遂げることになる。