Bernard H. Moss, フランス労働運動の起源(7)
4 労働党(Parti ouvrier)の結成
ゲードとフランスのマルクス主義の出現(のつづき)
ブルッスはマロンやベルギーの社会主義者ド・パエプ(de Paepe)と同じく、彼の論法を村の経済発展における連合主義もしくはコミューン社会主義として基礎づけた。たとえば、都市ガスと地方取引、国鉄と連絡線、国際海運と海洋学のように異なった産業は異なった規模で動くのだから、また、それぞれの地方において資本集中化に偏差があるのだから、社会主義は連合主義もしくはコミューン体制のなかでのみこれらの相違を調整することができる。資本主義体制のもとで市政を支配することによって労働者たちは多数の即座の改革による共有財産を創造しはじめることができる。つまり、警察・軍隊そして裁判所の民主化、公共事業、地方輸送、基礎的必需品取引の市による所有、公教育と児童の保護、そして累進所得税と没収に近い相続税の改革によってである。労働党はこの綱領においてパリの15の区において8人の靴屋と7人の機械工を含む労働者の候補者を選出した。しかし、強力な革命的宣伝ののちですら、パリの全得票数の5%弱しか獲得できなかった。
ブルッスはゲードに対抗する集団的リーダシップを提供するために、『ル・プロレテール』紙の編集者のデルヴィレル(Dervillers)、プラール(Poulard)、アリー(Harry)、エメ・ラヴィ(Aimé Lavy)と協力した。『労働』と呼ばれる新しいリーダシップ団体において彼らもまたマルクスの社会主義の基本的な仮定と論説を支持した。それは経済集中化と階級分裂への傾向、プロレタリアート政党の編成、あらゆる可能な手段による政治権力の奪取、そして、ブルジョアジーを収用するための革命的階級独裁の確立という仮定と論説である。彼らがゲードに反対したのは党独裁の問題についてだ。連合主義者として彼らは中核による独裁主義の支配的リーダシップを樹立することなく、行政的な基礎にもとづいて党を組織したかった。
その間にゲードは公的ミーティングにおいて、また、彼が編集長の地位を占めている急進派日刊紙『市民 Citoyen』において党の代表者として行動した。今こそ、統一された中央党を組織すべき時であると信じ、ラファルグはゲードに、党主となって機関紙『平等』を復刊し、公職に立候補するよう勧めた。2つの派が1881年の国会選挙において、最初は計画された急進派の選挙同盟に関して、次いで、公約と労働者立候補の原則に違反してなされたルーベ(Roubaix)の選挙でのゲードの得票数は10,868票中の493票を、他地区を併せても4千票しか獲得できなかった。かつてゲードは党にとって最初の国民選挙において100万票を予言していたのだが、労働者たちは彼らの票を曖昧な革命派に与えて無駄づかいするよりも、より効果的に急進派を支持することのほうを選んだ。急進派は特に社会主義の改革計画のかなり多くの部分を採用していたからである。
この選挙における総崩れ状態は党組織においてゲード主義者とブルッス主義者の間の非難と応酬を招いた。ゲード主義者は敗北の原因について、強力なリーダシップと組織の不在、つまり党における無政府主義の影響のせいにした。彼らは国民会議、つまり選挙、宣伝、ストライキ、そして国際的代表に関して自由裁量権をもつ実行機関の設立を提案した。ブルッスはより優れた組織と倫理的リーダシップへの必要性を認めながらも、ゲードが党内民主主義を彼自身の独裁で以て脅かしているとあからさまに暗喩のかたちを借りて攻撃した。ブルッスはその代わり、地方の連合主義者によって選挙され、リコールに従い、単なる行政上の機能責任を負う連合主義の国民委員会の創立を推薦した。マロンはそのような組織が地域的相違、たとえば工業の東仏と北仏の地方と手工業的な南仏と西仏および中央部の地域的相違から、また、説得力ある連合主義の思想からより好ましいと主張した。
大部分のパリ・グループおよび闘士は党を導くためのゲードの主張を拒絶した。マロンはゲードを日刊紙『市民』に置きざりにし、彼の『ル・プロレテール』の継承に貢献したブルッスの仲間となった。ゲードの服従要求に反発して彼の弟子のうちの幾人か、つまり、ヴァルディ(Vardy)、ラビュスキエール(Labusquière)、フルニエール(Fournière)そして、マルック(Marouck)もまたブルッス主義に賛同した。彼自身を党から国会候補者として、また独立した伝道者として引き揚げたが、ゲードは集団規律に違反していた。改革主義のブルッス主義からの信頼をほとんど失っていたが、ほとんどの者は独裁的権力よりも民主主義を好んだ。
パリ市民によって支配され、1881年11月にランス(Reims)における第2回党大会は組織上の論争についてブルッスに有利に裁定した。地域差を調整するためのより柔軟性に富んだ計画に対する必要性を主張したブルッス主義者は数の優勢について、彼らが最近の敗北をそのせいにしている最低限計画を攻撃するために利用した。これに対してゲード主義者は、労働者階級を組織するために唯一の国民計画こそが必要であり、いかなる柔軟性を以てしても改革主義思想の浸透を許してしまうだろうと主張した。ブルッスの動議によって大会は地方グループに、彼ら自身の地方的な要求を革命的共産主義の序文に添えることを認めるかどうかの判断をめぐって投票させた。
組合主義であろうと革命主義であろうと、ブルッス主義者は賃金体系の廃止を求めるすべての労働者に党を開放し、即座の改革のための努力を促すことを望んだ。マロンによると、集産的努力を通して獲得された改革はブルジョアジーの抵抗から必然的に生じる革命的対決に際し労働量を調節して彼らを物質的かつ精神的に強化した。無政府主義原理を溺愛したという非難に答えてブルッスは、自分はわれわれの要求の幾つかを結局のところ、それらを実現するために何らかの方法で近接させるため、また、あらゆる状況からその状況が含むすべてのものを引き出すため共産主義を現実に当てはめることと、共産主義の可能性の偉大な合計を実現させることを求めているのだと弁明した。このことからブルッス主義はポピュリストとして知られるようになった。
マルクス主義者はモンマルトルの機械工ジュール・ジョフラン(Jules Joffrin)の1881年の国会の選挙運動で新たな選挙計画を導入した。その計画は修正した最低限要求のリストともに、第一インターナショナルのためのマルクスの序文における書き直された共産主義の説明を含んでいた。ゲードは即座にそれが党規則に違反しているとして攻撃した。その規則とは最低限計画の強い解釈を許容することはあっても、弱い解釈は許さないというものであった。ゲードは、第一インターナショナルの序文は労働運動におけるプルードン主義を満足させるために予定された小ブルジョア的文献であると主張した。ジョフランは彼の弁論のなかで、自分の計画は革命的かつ共産主義的な宣言をともに含んでおり、それを最低限計画よりも強化していると指摘した。論争を仲裁してブルッス主義の方針で組織され、新たに創設された国民委員会はジョフランに同意した。コミューン支持者であり革命主義者であると自認したジョフランは実際に革命計画を弱めなかったのである。
1881年12月にゲードはより中央集権的な党を創設するため『平等』紙を復刊した。党の中央集権主義化の成長のために必要とされた『平等』は、それ自身開かれた都市的な中央集権主義であると宣言し、フランス労働運動の連合主義的伝統を否認した。ラファルグはすべての連合主義はブルジョア的だと主張し、パリ・コミューンと連合主義の失敗を当時における工業の未発達状態のせいにして、社会主義の評価を取り消しにした。村の経済発展の事実を認めたゲード主義者は、小ブルジョア都市の熟練労働者を急進派とプルードン主義に任せて、彼らの宣伝をすでに大機械工場において生産の集団的形態を経験している工業プロレタリアートに集中しようとした。このようにしてヴィド主義者は村の発展という事実から、労働者階級のより現代的な部分を組織化することのほうを選び、ブルッス主義者と反対の結論を引きだしたのだ。
工業労働者たちは熟練労働者たちに較べ、改革主義の程度はより低く、潜在的により高く革命主義的であった。ゲードは言う。ラサールの賃金鉄則によれば、工場労働者賃金は恒久的に生存レベルを上まわることはできない、と。ブルッスの市政改革は、利益を求める新しい未熟練労働者の流入によっても、また、個人産業の低課税地方への脱出によっても無効にされるであろう。ジョフランが最初に党から市議会議員に選出され、パリの市営住宅の建設と実際の土地投機の制限のための法案を提出したとき、ゲードは、ブルジョア国家は個人企業家を追い出すような公共住宅をけっして認めようとはしないだろうと主張した。反対に、ゲードは国営による宣伝の一手段として実際は成功した闘争は党からその存在理由を奪うことを懼れた。彼もまた市政計画を想定した。しかし、それは単に国家的な労働者革命を刺激するための目的に対する扇動の一手段としてであった。
背景としての組織的な中央集権主義の問題とともに、党派以前の直接的問題はゲードの権威主義的指導力であり、時に彼の計画を党派に押しつけようとする試みであった。そして、それはブルッスがマルクス主義者と呼んだ特徴であった。その理想はもともとマルクスの仲間に対するジュラ同盟、特にラファルグによって用いられた。政治的語彙のなかにその用語を再び導入することによって、ブルッスはゲードの行為と、第一インターナショナルの戦術すなわち選挙活動を押しつけようとする以前のマルクス主義者の試みとを比較した。この点に関する無政府主義者の誤りを許したため、ブルッスはマルクス社会主義の基本的な教義には反目しなかった。
マルクス主義はマルクスの考えの別動隊であるのではない。もしそうであるなら、数多くの彼の現在の敵、特にこれらの主義の創始者は大部分がマルクス主義者ということになるであろう。マルクス主義は、マルクス的学説を広めようとする体系にあるのではなく、ほとんどはその細部に渉ってそれを押しつけようとする体系にある。
マルクス主義者の誤りはあちこちの社会主義者のための地方的戦術を決定しようとする彼らの試み、彼らの精神の範囲で全社会主義運動を取り囲むという彼らの受容できない主張、政党民主主義の侵入を含め、そのために不穏な手段を彼らが快く使用することにある。ブルッスが旧式で権威主義的でユートピア的であると考えたマルクス主義的政策と対比して、彼は論争と討論の継続的過程を通じて連邦主義的民主主義を象徴することによって的を射た戦術が経験的に出現することを許す「経験的政策」を鼓吹した。
こうした討論のなかであらわれた基本的問題は社会主義的理論と実践の関係である。マルクス主義者が実践へのガイドとして理論を強調したところを、ブルッス主義者は理論と実践から生じる過程と考えた。「権威主義的」マルクス主義者が外からの労働運動に正しい戦術を押しつけようとしたのと対照的に、ブルッス主義者はそれ自身の経験にもとづいた正しい戦術をとることを運動に喜んで許した。完成された理論をもつ知識人としてマルクス主義者は、理論の命令を経験したことの教訓をしばしば犠牲にする気になる一方で、ブルッス主義者は現実的労働運動へより密接に関係したおかげで、反対の過ちを犯す気になった。マルクス主義者とブルッス主義者の間の誤解はこうして2つの運動の社会的・歴史的起源に根ざしていた。
マルクス主義者はいつもこうした権威主義的態度をとったわけではなかった。第一インターナショナルのなかではそれが徐々に社会主義的計画を発展させていったとき、彼らは労働運動の「匿名の代表」として仕えた。実際的思考でこの運動を指導したが、マルクスは1871年とバクーニンとの論争まで彼のマルクス主義、理論的体系を押しつけ晒したりすることさえ試みなかった。1872年に組合社会主義運動を廃棄することによってマルクスはドイツ・モデルに関する国民政治政党の編成に彼の注意を振り向けた。そうした政党の編成についての同盟者に忠告を与えるに際して、彼はいつも反目の遺産に打ち勝ったわけでもなければ、彼の故国でさえも国家政治の細目を習得したわけでもなかった。こののちの期間に彼は労働組合と労働者の経験よりも政治的理論の指導のほうにより関心を懐いた。以前の彼はフランス労働組合運動とパリ・コミューンに内在した社会主義的潜在力を認識した。しかしながら、彼ののちの政治的展望からコミューンは単なる共和主義的運動であり、理論的洞察力のない俗物的指導者をもったイギリス労働組合よりも「特色に乏しい」フランス労働組合であるように思われた。「現実的」労働運動との接触を失ったため、マルクスは政党を創立し、「科学的」コースにそれを指導するために2人のブルジョア知識人(ゲードとラファルグ)に彼の信をおいた。