R.S. ホイト &  S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その36) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

R.S. ホイト &  S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その36)

 

Ⅲ 中世ヨーロッパの再編

 

11 初期中世経済

 

都市と商業の発展

 9世紀にカロリング朝のある司教は次のように書いている。社会は3つの階級、「祈る人、戦う人、働く人」― 本来的に労働とは耕すことを意味するため、それは聖職者、封建貴族、農民 ― に分けられる。11世紀末までにはもはやこの分析は西欧社会の的確な描写ではなくなっていた。第四の階級、つまりブルジョア階級が現れたのだ。彼らは田舎よりもむしろ都会に住んだ。ブルジョア階級の出現はすべての社会階級に影響を及ぼす奥深い変容の一部であった。この変容は本来的に経済現象であり、歴史家がそれを取り扱う手法を理解するのは大切なことである。

 中世の経済生活の歴史はちょうど文化的・知的生活がかつてそうであったように、ルネサンス思想に反映した。中世期は文化的・知的と同じく、経済的に活気に乏しい時代として扱われてきた。近代の歴史家たちは中世文明の外観に関するルネサンス的偏見という遺産から解法されたため、その時代における経済の歴史を再評価しはじめた。こうした見解の振り子はすぐに他の極端に向かって揺れ動いた。経済発展のあらゆる徴候はブームとなって浴びせかけられ、都会の繁栄に明示される経済活動の発展は「商業革命」と呼ばれた。たとえば、歴史家たちはこの大きな意義を1000年から1340年のあいだに人口が1200万から3600万に増えたせいにしている。だが、これは1年に1%にも満たない増加率である。中世史家たちがその発展の理由について速すぎるというよりも、むしろ遅すぎることに求めるのはより適切なことかもしれない。初期中世ヨーロッパの経済体制についての注意深い分析は、それがかつて考えられていたほどひどくはなく、ないしは短期間のうちに衰退しなかったこと、国際商業は中世史家たちが暗黒時代と呼ぶ時代に亘って存続していたことを表わしている。

 資料編纂上の問題の一部は、歴史家たちが7世紀から11世紀にいたるまでのヨーロッパ史の研究をするとき、明らかに他の地域を無視し特定地域のみを取りあげて考察することから生じたのである。ゴート戦争による混乱とランゴバルド族のイタリア征服ののち、政治権力の中心はフランク王国のほうへ移動したように思われ、同王国はその境界内において西欧の本来的な文化・政治・経済を掌握するかに見えた。イタリアの考察よりはむしろフランク王国の考察において西欧経済は6世紀以降衰退したかのような印象を与えてしまう。イタリアにおいては初期中世の全体を通して都市が商業活動に重点を置くかぎり、経済的に南欧に比肩すべくもなかった。北欧は幾世紀ものあいだ農業面で南欧よりも生産的であり、この点に関するかぎり、新技術の導入が著しく拡大した。中世初期の経済史に関する最新の研究によれば、政治史をもって中心を決定したのち経済史に関する結論を与えるのが危険なことを差し示している。カロリング帝国の政治的興隆はそれをヨーロッパの商業生活の中心にはしなかったのである。

 カロリング朝の歴代諸王がこのことを認めており、状況の改善に努めた、シャルル禿頭王は彼が兄弟のルトヴィヒ・ドイツ王に勝利して帝位戴冠のためにローマに赴いた875年、ルッカのユダヤ人社会と接触した。彼が帰国したとき、ユダヤ人は彼に従った。彼はユダヤ人を自国に定住させた。やがてマインツ、ヴォルムス、ケルン、トリエル、トロワ、帝国のその他の都市にユダヤ人社会が形成された。アシュケナジムのユダヤ人社会、すなわち北欧のユダヤ人社会(中世のヘブライ語のアシュケナジムはドイツに由来)の基礎となった。皇帝保護下でのユダヤ人の北欧へのこうした移住はセファルディムのユダヤ人(スペイン、ポルトガル系ユダヤ人)を地中海から引き離した。9世紀末以降、これらの北方ユダヤ人は西部・中部ヨーロッパの商人として活躍した。彼らの活動のもようは少数の物語風の史料において、そして、10世紀、11世紀におけるラビ法廷で採決された判例集において知られている。

 ユダヤ人は大規模貿易に従事し、北海とバルト海沿岸の商業地域と地中海を繋ぐ商業リンクを形成した。こうした発展に伴いフランク王国は北欧と東地中海を結ぶ連絡網の一つとなった。もう一つの通商路はロシア ― ロシアという語はキエフ国を建設ないしは征服したスウェーデン人のルスに由来する ― のキエフにおけるスウェーデン人の定住地を貫通した。シャルル禿頭王がロシア人に対抗するために、商業活動に熟達したユダや人を自国に招聘したのはありそうな話である。ユダヤ人は北欧の商品と交換した。ヴィキングおよび他のスカンディナヴィア人はゲルマン人の武器とりわけ剣を誉めそやした。相対的に良貨の銅銭がルール地方で産出された。シャルルマーニュと彼の後継者たちはくり返しこれらの物品をいろいろな理由をつけて北方人に販売するのを禁じたが、そのわけはそれらがしばしばフランク人に向けて使用されるからであった。おそらく剣は北欧のユダヤ人社会の商業網を通じて取引されたのであろう。香料・絹・奴隷・毛皮のような幾つかの商品が通商路に沿って遠隔地に運ばれたが、多くの商品は遠くまでは運搬されなかった。典型例を挙げると、商人は商品を売り捌くためにそれを仕入れ、元の資本と利潤を取り戻したのち、もっと大きな商いをするために新たな商品を仕入れた。このように彼らは文字どおり通商路に沿って生計を立てていた。彼らが東方に向かったならば ― それはユダヤ商人にはありがちだったが ― かれらは胡椒あるいは絹のような高価で嵩張らない商品を携えて帰還するか、あるいはは多様な商品を仕入れたり売却したりしながらも時に道を引き返したであろう。ラインラントの社会は通商路に沿った他のユダヤ人社会と取引をおこなう傾向にあった。商人はしばしば長年故郷を後にした。多くのラビの判決は夫が長期間遠くへ行ったとき、その妻の財産と再婚する権利に関する条項についてふれている。所在がまったく不明で、かつ7年間の音信無沙汰があれば、男は死亡したと見なしてよいという法律は通常の旅行がどのぐらいの時間を要したかを示唆する。むろん、件の商人が7年後に帰還したために改めて係争が発生したこともある。

 ユダヤ人の生活要素の幾つかには、9~11世紀までの西欧における商業生活の水準と特質を示す証拠として顕著な要素が伺われる。第一に、12、13世紀におけるユダヤ人実業家はキリスト教徒の商人と商取引したのに対して、それより前においてはそのような取引はほとんどおこなわれなかった。したがって、少なくともフランク王国におけるユダヤ人社会はその商業圏のなかで事実的に孤立していたように思われる。ユダヤ商人たちは非ユダヤ人たちの商業組合(特に荷馬車業)と広範囲にわたる商取引をしていたが、彼らの仲間や競争相手は主にユダヤ人であった。第二に、11世紀の商業を妨げた要因の一つとして、下層貴族と追剥の不法行為があったと考えるのが通念となっている。それにもかかわらず、ユダヤ人の示した輸送行程上で安全だったことは瞠目に値する。その危険のゆえに利益は途方もなく大きく、200~300%にもなった。しかし、彼らには護衛兵がいつも付くというわけでなく、単独で旅を続けたのである。さらに、実際に掠奪が起きたときは、たとえ奪われた商品が全部戻らなかったとしても、商人たちは多くの利益を揚げることとなった。なぜなら、遠隔地商人の数は少なく、その取引規模は小さく、盗品を買い戻すのはほとんど不可能だったからだ。第三に、商人たちと商品に驚くべき安全性を保ったことの主な理由は、彼らが権勢ある王侯貴族の保護を受けていたことである。中世を通じてユダヤ人は聖職者と一般信徒の両方の権力者たちと特別な関係を維持していた。この関係は階級制社会の最高位の人々の望む商品移動のためにユダヤ商人が重要な位置を占めていたことにもとづいている。

 通商は商業構造と銀行業のもつ極めて複雑な形態を用いながら、支配階級の有力な支持を受けて中世暗黒時代を通して存続した。それゆえ、ユダヤ人の共同社会が形成されなかった都市でも、通商に携わってしばしば考えられるよりもずっと活発な状態にあった。北欧においては都市というものがユダヤ人であるという事実のゆえに都市は当世のキリスト教徒たちに関連するものが社会と文化の中心外の場所に建てられたため、都市人口のうち最も富裕層がユダヤ人であるという事実のゆえに、都市は当世のキリスト教徒たちに関連する、あるいはキリスト教徒たちを惹きつけるような建て方をされなかった。しかし、そのため、そういう年においても、たとえ衰退したとしても商業的生活力を維持することができ、その衰退はイタリアでは北欧よりも遥かに緩やかだった。11世紀末までに町はいたる処で急速に発展することでヨーロッパの貿易商人たちの共同社会はスペイン、南イタリア、東欧、レヴァントで新たな利益を揚げることになった。ユダヤ人はこの新たな貿易の繁栄を享受するのだが、彼らは急速にその有力な地位を失っていった。11世紀中葉までにはキリスト教徒の貿易商人たちが通商網における主要人物になったのである。

 遠隔地貿易は中世初期を通じての生活にはほとんど影響を及ぼさなかった。その貿易は小作農や下級貴族の商業活動を満足させる地方市場の広範囲の組織を圧倒した。地方市場の数はカロリング朝時代に非常に増大した。これらの市場(定期市) ― 数週間ごとに1~2日間、開かれるもの ― は後期ローマ時代の農産物商業の衰退後に起こった農業経済の局地化過程の一部であった。農民たちは余剰農産物をその地方で入手することのできない品物 ― 葡萄酒、リンネル織物、そしておそらくは牛 ― とその地方市場で交換するのだ。特別の家庭用品を扱う行商人も旅してその市場を訪れた。遠隔地貿易と比較すれば、この地方的な価値の低い商業は特に銘記すべきほどでもないが、それでも極めて重要であり、相当額の資本金を集積するための手段となりえた。中世農業は現代農業よりも遥かに天候変動や作物の病気の被害を蒙りやすかった。好い時期には穀物の余剰分が出るが、悪い時期にはほとんど不可避的に飢饉を生じた。初期の最も注目に値する西欧商業の復活は飢饉に襲われた地域に穀物やその他の基本生活資料を売却することから生じた。商品は豊作だった地域の市場で安く購入され、天候や病気の被害を被った地域で高価で売られた。農民はこの方法で富裕になることができた。しかし、最も利益に与ったのは領主である。この経済情勢における顕著な結果は十字軍全期において金銭の賃貸借の型がユダヤ人から領主へという型から、領主からユダヤ人への型に移行したことである。ユダヤ人と増えつつある商業に従事するキリスト教徒の商人たちは、余剰農産物によって生みだされた流動資産を運用することができた。領主層は自分の資金の幾らかを贅沢品購入のために使い、このようにして贅沢品への需要は増大していくのだが、消費は彼らの資産のすべてを説明することはできない。商人たちは喜んで、かれらが成長しつつある事業のために資金をつぎ込んだのである。

 初期の商業の中心は人口増加が農業生産を追い越した地域においてであった。ヴェネチアが貿易の南欧復興の中でリードし、自分たちではやっていけないその他のイタリアや南フランスの港町がすぐ後を追った。ヴェネチア、ピサ、マルセーユというような都市は食用塩を取り扱い、後に海運を通して入手したその他必需品へと手を拡げていった。ヴェネチアは非常に好都合な2つの利点をもっていた。つまり、本土やアドリア海沿岸に沿ってレヴァントへの隠された貿易路での敵からの防護を保証する都合のよい地理的位置にあったことと、ビザンツ帝国との良好な同盟関係を維持したことである。都市では商人たちに事業の自由が許可されており、帝国内での貿易特権が付与されている半自治権を保持した。11世紀には他のイタリアの港町がビザンツやイスラム教の地理上の貿易特権を得るために侵略的努力を傾注した。時には平和的交渉により、また、時には軍事力をちらつかせて、ジェノヴァ、ピサ、アマルフィ、ガエタは北アフリカやレヴァントの多くの商業中心地で有利な立場を獲得した。12世紀にはヴェネチアのオリエント貿易における優位はもはや安全ではなくなった。地中海商業は経済的に進んだレヴァントと西欧市場との間の仲介役の幾つかのイタリア都市によって支配されるようになった。

 北欧では商業復興はフランドルで最も顕著だった。そこは海や陸によってバルト海、ラインラント、北フランス、イギリス諸島へと八方に枝分かれする貿易路の中心に位置していた。フランドルは羊を育成するのに適した処にあり、そして、フランドルの羊毛産業は地方消費のための手工業生産段階を超えて成長した初期の北欧商業事業であった。安価で良質のフランドル毛織物は11世紀には、良質の土壌をもつ近くの地方からの食糧や北欧からの材木・毛皮・金属と引き換えに輸出された。12世紀までにフランドルは最も人口密集地域で、北欧で最も豊かな地域となった。一方、小中心地もまた発展した。11世紀には重要な商業活動がラインラント、イル=ド=フランス、そして北海、バルト海の港にあった。

 その贅沢品貿易は地中海商業が与えた所得ほどには北欧商業についてはそれほど大きくなかった。しかし、北欧人はスウェーデン人の定住地やドニエプル川沿いの彼らの後継者と通してオリエントとの交流を維持した。フィンランド湾からドニエプル川を下り、黒海やカスピ海まで走るこの行路は危険なものであった。11世紀末に向けてイタリア商人たちはレヴァントから必需品とともにアルプス山脈を越えを始めた。アルプス越えの一つの行路は西アルプスを横切ってローヌ流域に出た。それゆえ、商品が北西欧へ運ばれ、ロワール川、セーヌ川、ムーズ川、モーゼル川およびそれらの各支流の人口密集地域へ入っていった。別のアルプス越えのルートは東の山道の向こうにあって、ドナウ川上流、ライン川流域へと続き、そこから必需品が西や中央ドイツへ、ライン川下流域、マイン川、エルベ川とそれらの支流によって運ばれた。

 商圏の拡張は都市の発展と、ある点においてそれが復興の直接因となった。キリスト教徒の商人階級の成長は都市を拡大させただけでなく、それを再度ヨーロッパ社会の文化的中心とすることによって復興させていった。住民中で都市商人たちと地方農民たちの利害関係に大きな隔たりのあることが彼らの融合を困難にしていた。商人たちは商業を成功させるために3つの条件を必須とした。まず、一つ目に、彼らは戦略上、通商路や地方市場に沿って設立され、かつ商品貯蔵と輸送または積み換えのために設立される経営の根拠地を必須とした。第二に、彼らは地方領主の力による保護貿易制度というかたちでの保護を必須とした。このような保護貿易制度の伝統は長く既に11世紀には定着していた。第三に、活動の自由、そして借地小作農の拘束や決まりきった仕事からの解放を必須とした。商人たちがこれら3つの商業活動の成功の必要条件 ― 都合のよい規制、保護、自由 ― をどこで見つけようと、都市は成長し繁栄していった。

 幾つかの重要な貿易都市、たとえば、ロンドン、パリ、ケルンのような都市はかつてローマ帝国の支配下にあった。その他の都市は支配者や大きな封建領主が城郭を構築した処や重要な地点を要塞化した処にあった。たとえば、イングランドではアルフレッド大王と彼の後継者たちのバラーと呼ばれた城塞とか(アルフレッド大王の防衛措置はその治世末期に効果を発揮するにいたった。アングロ=サクソン人の召集軍隊を編成して常備兵を戦場に配置し、堡塁で固めた拠点の環で囲んで国を守る城塞制度としてのバラーがシステムを確立した。)ゲルマンではブルゲンと呼ばれた10世紀の王の城塞(フランスではブール)で発展した。もともとそれらの要塞の居住者は常備兵だったが、交易の復興により幾つかの自治都市が軍備都市から経済と都市の中心地へと変わっていった。ほとんど例外なく、以前のローマ都市が単に軍事要塞のままであったのに対し、10世紀の自治都市は重要な通商路に沿って配置されてはいなかった。また、例外なく都合よく配置された都市は農業や軍人となって生活するよりも貿易や産業によって生計を立てる居住者 ― イングランドのバージスやゲルマンのビュルガー、フランスのブルジョアジー ― のいる都市に変わっていった。

 初期の商人たちの占める位置は自治都市の防備を施された場所の中や壁の内側にあったのではなく、その近隣にあった。逆説的にいうと、都市生活の復興がもともとの壁で囲われた土地の外とか郊外とかで家屋と建物が密集している処で起こった。11世紀から12世紀に発展しつつあった都市はさらに範囲を拡大するために新たな城壁を造った。このような都市の発展タイプは商人が大修道院や直轄荘園の近隣に住むということに原因をもつ。大修道院長で国王から便宜を図ってもらっていた保護は絶好の場所に加え、さらにそこに定住することでの刺激を受けた。そして初期の都市が成長したとき、結局、それは最初の修道院や荘園の中心地を包含して発展していった。このようなことは国王あるいは修道院長あるいは領主が交易の奨励が自分たちの階級の伝統的な活動でないにしても、利益あるものだということを見通せるように教化された処と、国王および領主が都市住民を農耕労務と義務から進んで解き放つことを認めていた処で頻繁に生起した。