R.S. ホイト & S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その26)
Ⅲ 中世ヨーロッパの再編
8 西欧世界の分裂と再生
中世帝国の創立
9世紀末に東フランク王国のカロリング朝は他のどの地域よりも安定していた。ドイツはそれほど害を蒙らなかった。なぜなら、そこには侵略を引き寄せるような富がなく、中央権力を締めだすための、ほんの僅かな免除と特権があったものの、貴族は地方で有力で、そして地方の部族領は君侯の息子たちに領地を当てがうことによって、カロリング朝支配のもとで維持されていたからである。876年に一人の息子が継承してバイエルン王となり、もう一人の息子はザクセン王となった。カール肥満王はシュヴァーベンの王となった。882年までに2人の年長の息子たちは死去し、5年間、カールは東フランク王国全体を再度統合した。カロリング朝のこの世代の者たちはさほど多産ではなかった。3人兄弟のうち成年まで生き残った息子が僅か一人で、しかも彼は私生児であった。これがアルヌルフであり、南東部のカリンシア公国を与えられたうえ、スラブ民族に対し2つの国境を守るという責務を割り当てられた。息子や甥がいなかったため、カール肥満王は王自らが任命した公爵によって統治される公爵領として以前の状態に戻ることを幾つかの部族の領域に許す以外、なす術をもたなかった。
これらの君侯は中央政府と同様に、地方の地主制を代表する著名な権力者であった。ドイツでの地方主義の成長は以下の5つの大きな公国が中心となった。北部のザクセン、中部のフランケン、南部のシュヴァーベン、南東部のバイエルン、そして西部のロートリンゲンである。ロートリンゲンは政治的・社会的発展面で西フランク王国に似ていた。封建制度は社会の新しい組織の基礎として発展しつつあった。それ以外の4公国におけるもっとゆっくりした封建制度の発展とともに、そこでは部族社会が存続していたし、部族公領(部族あるいは種族の公領)という表現を引き起こしたが、部族の調和は単なる王朝の君主たちの野望ほどの重要性をもたなかった。9世紀末と10世紀のドイツ王はピピン短躯王とカール大帝(シャルルマーニュ)の治世下のアキテーヌやバイエルンのように多くの政務を全うした。そして、地方の優越を達成したというよりも、大きな成功はカロリング朝の中央権力の衰退のせいでもあった。
カール肥満王が無能力ゆえに退位させられたことを皮切りに、ゲルマンの権力者たちはほんの少年にすぎなかったシャルル禿頭王の孫の継承権を無視して、代わりにルートヴィヒ=ドイツ王の私生児の孫、すなわちカリンシア公アルヌルフを国王に選んだ。彼自身、有能な君主であることを示すとともに、唯一の成人したカロリング国王であった。アルヌルフ(887~899)はほとんどの時間を東部国境のスラブ民族との国境紛争のために費やしたたが、古代スカンディナヴィア人に対しては891年、現北中部のベルギーのダイル川で大勝利を収めた。ドイツはこの戦いののち、その地域からの侵入で苦しめられることはなくなった。これと他の勝利ののち、ローマ教皇はイタリア豪族間の不和と野望が教皇領のみならず、教皇統治権の独立をも脅かすイタリアの派閥争いからの保護をアルヌルフに求めた。彼はイタリアに遠征隊を2個派遣したが、896年の皇帝に即位後においてさえ、イタリアで権力を行使することができなかった。
アルヌルフの跡は彼の息子ルートヴィヒ幼王(899~711)に継承された。彼は相続時に僅か6歳であった。王国内の君侯や伯爵および他の豪族たちはマジャール族に対して協力したときのほかは、相手を出し抜いて複雑な政局で有利な立場を築こうとしてお互いに絶えず争いあった。ルートヴィヒが911年に死去したとき、権力者たちは彼の跡を継ぐカロリング王を再び探しまわることを余儀なくされたが、ルートヴィヒは正統であれ私生児であれ、最後のドイツ人カロリング王となった。貴族たちはシャルル禿頭王の孫をまたも拒絶した。彼らは887年に彼を受け容れなかった。898年以降、西フランク国王のシャルル単純王に白羽の矢が立った。それでも「諾」とはいかず、代わりに彼らはフランケン公コンラッドを王の位に昇進させてコンラッド一世(911~918)とし、コンラッドは権力者たちの上に立つ国王権力を主張して治世の7年間を過ごした。コンラッドの王位はほんの肩書にすぎないのだが、彼の活動力はそれから生じる利益の追求に転じさせる王位要求によって反故にされてしまった。東フランク王国の分裂やコンラッドの君主政治の無効性の一つの前兆は、シャルル単純王が彼自身大王ではないものの、ロートリンゲン公国を支配し成功したことであった。コンラッドはまた、ブルゴーニュ高地地方の忠誠を失い、ラインラントやブルゴーニュ、およびロートリンゲンよりもっと西に浸透していたマジャール族と戦うために必要な部隊を召集できなかった。ルートヴィヒ幼王は極めて病弱だったため、試みることができなかったし、コンラッド一世は試みてみたものの、ドイツの公国のいたる処で国王の伝統的な指導力を維持できなかった。
コンラッドは臨終の際にザクセン公爵ハインリヒ一世鳥撃ち王を後継者に任命した。フランケンやザクセンの貴族はコンラッドの死後、歓呼してハインリヒを王に迎えることにより、この選択をいっそう強めた。ハインリヒはロートリンゲン、バイエルン、シュヴァーベンの公爵に彼の王権を承諾させて彼の支配下で初めの数年間を過ごした。その後の彼はザクセンの自身の公国の強化に集中した。この政策はハインリヒの王政に対する無関心のせいというよりは、むしろ彼の王権設立には王国内の強い勢力的基盤が必要であるとの彼の認識にもとづいていた。ハインリヒが強い勢力をもつようになり、東フランク王位の所有地は縮小されてその領域に散在する180の地域となった。公爵や力をもたない富豪はかつてカロリング政府を支えていた土地のほとんどを支配することを強要し、また、ただ単に引き受けた。公爵や伯爵は土地の管理人を統制して以来、180の直轄地のほとんどにわたって自分らの勢力を拡大した。ハインリヒはこの侵略で最も成功した者の一人であった。918年にはザクセンと僅か5つの直轄地が残っただけで、ハインリヒが彼自身の領地を王領につけ加えてから東フランク王の所有地の数はおよそ600以上に増えた。
ハインリヒはまた、他の点からも王国に関心をはらっていた。彼は北スラブ族を撃退し、ドランク・ナッハ・オステン(東漸運動)と呼ばれる東方領土拡張の慎重な政策を創始した。この政策の本質は、スラブ民族や他の民族により押し返された国境地域の植民地化にある。国境の町はマグデブルク、オルデンブルク、リュネブルクのように城郭都市として強化された。ハインリヒはまた、マジャール民族に抗する砦を築いたり、騎兵隊を設立したりすることによって、933年に最初に移住してきたマジャール人の侵略に最初の敗北を負わせた。ハインリヒは公国から承認を勝ち取ろうとするうちに、ブルクハルト公爵が後継者なしで死んだ後、ザクセン公爵をうまく押しつけることによってシュヴァーベンをハインリヒの王政に秘密裡に関連づけた。ハインリヒはまた、王国内の直轄地に対して直接支配を回復しようと根気強い努力を始めた。それと同時に、王政の保護のもとにドイツ監督団や大修道院を設置する政策をも始めたようである。教会の統制は次の200年間にわたってドイツにおける国王権力の重要な支えとなっていく。ハインリヒ鳥撃ち王はルートヴィヒ=ドイツ王以来の偉大な王であった。ドイツ王制を強め、そして1024年まで続くザクセン王朝を設立した。
ハインリヒの息子オットー一世大王(936~973)の選出については形式的な選挙は慣例にもとづいておこなわれたが、実際には世襲継承することにより国王となった。公爵たちは自分らを大いに自由気ままにさせてくれた父親の息子を大いに喜んで受け容れた。オットー大王はザクセンの公爵領を増強する父親ハインリヒの努力を引き継ぎ、そして、東方のスラブ族との戦いも継続した。オットーはまた、国王権力の強化を目的とした父譲りの政策を遂行した。しかし、ハインリヒが最も王にふさわしい政策を適度に追求したのに対し、オットーのほうは侵略的な中央集権主義者となった。彼は公爵や富豪に対して己の権威を主張し、国土をまとめてドイツ王国同盟に組み入れようとした。公爵を中心に一連の叛乱を招き、オットーは治世初めの5年間をその鎮圧のために費やした。彼は徐々にバイエルン、シュヴァーベン、ロートリンゲンにおける公爵権力を抑制するようになっていき、そして939年になると、フランケン領をザクセン領に併合した。権力を統合するためにオットーは自分の息子やその他の親族を公爵領の統治者として定着させた。ところが、息子らはまもなく彼に反対する地方暴動の主導者となってしまった。縁者びいきの試みが頓挫したため、オットーは権力基盤として教会や修道院を管理せんとするハインリヒの意向を採用せざるをえなくなり、彼は治世の全体を通して積極的にその意向を遂行した。うまい具合に教会に関するオットーの政策は王国のいたる処で大司教と司教を指名する独占権を得ることができるという国王の権能に依るものであった。オットーは公爵たちが権力を掌握していたキリスト教会への影響がいかなるものであろうと、公爵たちからそれをもぎ取って教会の指定に関わるカロリング朝の権利を首尾よく再度主張したことになる。彼は国境地域にマグデブルクやプラハなど新たな司教管区を設置し、軍事防衛とならんで注意深く征服地の聖職者組織の編成に没頭した。彼は国境地域に宣教師らを支援するカロリング朝の計画を復活させ、それらの教会の支配権を掌握した際にそこを領土と認めることで補強した。教会に対する支持から受けたオットーの利得は3点に及ぶ。第一に、彼は王国中で最も教養があり、最も有能な階級に属する人々と親密に接触することになり、彼らを政治に参与させたことである。第二に、独身という規則が下位聖職者とまではいかなくても高位聖職者に強いられ、こうして聖職身分が世襲ではなくなったことである。そのため、国王の教会への支配力は最も忠実な家臣から受けるよりもずっと堅実なものとなった。第三に、オットーは各司教管区において司教が反抗心をもつか、あるいはもしかしたら叛逆心をもつかもしれないとの危惧から、有力者たちと張り合う力をもったにとどまらず、王権政治の直接の支持者であるという点からも司教を信頼することができた。オットーはキリスト教会を封建制度下におくという、すでに進行中の処理を促進し、俗人家臣の代わりに教会側から供給された軍隊をますます信頼するようになった。オットー二世が軍隊 ― その隊員の76%は聖職家臣によって占められた ― の先頭に立ってイタリアに遠征した982年、オットー一世の計画が成功したことによって証明された。さらに、オットー一世は国王権力の行使を司教に付託した。ロートリンゲン公爵が叛乱を起こしたとき、オットーは叛乱を鎮圧したが、その後の彼は公爵権限をケルンの大司教(オットーの弟のブルーノであったが)に委ねた。同様に、オットーの治世下でハンブルクとヴュルツブルクの司教も伯爵となった。
このようにしてオットー大王は10世紀半ばまでにヨーロッパにおける最も有力な統治者となっていた。彼の治世は多くの点でカロリング朝方式の復興、すなわち新たな状況下でシャルルマーニュによって達成された目的と似た成果を確保するために、シャルルマーニュが講じた手段を適用することがそれだ。そして、オットーはカロリング朝の先輩たちと同じく、イタリアに夢中になっていた。早くも945年にドイツの王室はイタリアの政治上の亡命者にとって避難地となっていた。オットーの介入はイタリア王位をめぐって混乱を極めた戦闘において均衡を揺さぶった。951年に拒絶するのが魅力的すぎる好機が訪れた。というのはアデレード ― 競争相手の未亡人 ― が彼女の大敵が王冠を獲得するために彼女に強制せんと企んでいる結婚から救ってほしいという援助を請うてきた。オットーはイタリアを侵略し、自分自身がアデレードと結婚し、そしてイタリア王という肩書を得ることによって彼女の苦悩を解決した。当時の人々はこれを歓迎した。なぜというに、このような経緯に彼らは英雄オットーが困り果てた女性を凶悪な求婚者の魔手から救いだしたというロマンチックな挿話を見出したからである。じっさいには彼がこのような好都合な懇請に応じたのは、完全に政治的な理由に依った。自身が介入しただけでオットーはブルゴーニュ王や、強大すぎる臣民のシュヴァーベンとバイエルンの公爵が王座を勝ち取るためのアデレードの救出を妨げることができたはずである。イタリアの富を支配したことでドイツ王の直轄地と帝王の象徴の権利だけでは不十分だった収入を増やすことになった。そして最後に、オットーはすでに923年から空位になっていた皇室の称号を復活させることを計画していた。それが判明すると、それに反対する教皇や自国での叛乱のために、オットーはこれらの計画をいったんは諦めてドイツに帰らざるをえなくなった。
本国での叛乱はマジャール族のドイツへの侵入を再現するのに影響した。このオットーに対する叛乱の立役者の中には、自分らの王に対しての協力をマジャール族に要請した者さえいたのかもしれない。オットーは955年にアウグスブルクの近くのレヒフェルトの戦いでマジャール族に壊滅的な打撃を与えた。そして、その戦いが終わると、マジャール族はドイツを再び悩ますことはなくなった。これと同じく重要なことは、この勝利によってオットーはイタリアとの連絡路を守り、その時点で彼はイタリア政策を再興する準備が整ったことである。オットーのアルプス山脈以南における第二の干渉は教皇ヨハネス十二世からベレンガルからの防御の懇請に応じたことで発生した。ベレンガルはクリウリ公爵であり、オットーのイタリア王就任をものともせずイタリア王として一般の承認を勝ちえていた。オットーは961年にアルプス山脈を越えベレンガルの軍隊を敗走させた。そして、962年の初め、ヨハネス十二世よりローマ皇帝の冠を授けられたことによって約束された報酬を受け取った。
この皇帝の戴冠はシャルルマーニュの復活ともいうべき中世ローマ帝国の真の基礎を築きあげた。しかし、復活帝国はその地理上の広がりとオットーおよびその後継者が行使した権力の2点においてカロリング朝には及ばなかった。最も明らかな相違は、オットーが教会の期待に依存したことである。オットーの教会支配は彼に権力を与えた。これとは対照的に、シャルルマーニュの権力は後になって教会支配を与えた。そのうえ、962年におけるこの新帝国と教皇の結びつきはけっして800年における結びつきほどには潔白でなかった。オットーは自己の王権が自分に司教を制する力を与えるとまったく同じように、帝権は自分に教皇を支配する権限を与えるものと考えた。ドイツにおける国王と司教の結びつきの深まりは王権の正当化のための空論をつくりあげた。神の代理としてオットーは彼の全王国について俗人と聖職者の両方を等しく統制した。そして、神聖な権力をもたないにもかかわらず、普通の平信徒より上位に位置し、神聖な聖職叙任式によって教会に関する事項に権限を主張することができた。聖職者に関する王権というこの観念や、常に正当化する意向の多くはカロリング朝時代の神学文書に由来した。しかし、そうした考えはオットー治世下で王の神権政治の有力な学説と癒着しはじめ、11世紀半ばまでにそれらは完全に発達した。しかし、オットーの主張は教皇ヨハネス十二世の反対概念と相対することになった。教皇ヨハネスの見地によれば、皇帝は単なる教皇庁の擁護者にすぎず、じじつ、帝位の特別な意味あいは少なくとも教会に関するかぎり、帝位保持者たる者はローマ教会を防御する義務を負うということだった。962年の末に、オットーとヨハネスが明らかな疎遠関係になったのは、オットーの息子が叙任を許可するまで慣習と一致していたが、ヨハネスはその受け入れを拒絶したせいである。オットーはローマからヨハネスを追放し、教皇を廃するための宗教会議を主宰した。その後2回にわたりオットーは彼自身が選んだ候補者をローマ教皇の座に就けた。そのためにローマ教皇権の帝国支配に対して堅固な慣例を設置した。
オットーの死ぬ前年までオットーは自分の生涯のほとんどを費やしてイタリア北部の支配を強化し、また、失敗に終わったが南部への勢力拡大につとめた。この彼はまた、ビザンツ皇帝から新たな地位の承認を獲得し、彼の息子とビザンツの王女テオファノとの結婚によってそれをより強固なものとした。オットー大帝が実質的な成功を収めたのち、彼の息子オットー二世(973~983)は衰退の途に就いた。オットー二世の生涯と精力のほとんどは守勢となったドイツために捧げられた。彼は公爵たちと富豪たちの間に起きた叛乱を鎮圧し、デーン族やフランス人による攻撃を撃退できた。しかし、スラブ族は彼の父によって征服された領土の北部を奪還した。彼の治世の終り近くになって、オットー二世はやっと南イタリア征服という彼自身の宿望を追求する自由を得た。彼の試みは982年の悲惨な敗北に終わった。そして、彼はテオファノとアデレーデを摂政とした。その一年後、幼い後継者のオットー三世(983~1002)を遺して死んだ。
オットー三世の王位継承はイタリアでは反対はなかったが、ドイツでは長々と続いた。遠まわりの交渉を通じてやっと摂政政治が承認された。オットー三世が成年に達してからオットー大帝やオットー二世の治下でもつことができた自治権をより大幅に公爵や富豪に許すことでドイツでも承認を勝ち取ることができた。若いこの王は主にイタリアで教養ある母と、その母が選んだ家庭教師の指導のもとで育てられた。彼はよく教育され、ローマ史の伝統に染められた。それは、彼が父や祖父の帝国勢力をコンスタンティヌス帝の時ぐらいのものにするであろうキリスト教ローマ帝国の復活者であると説かれた。オットー一世より以前の家庭教師であったランスのゲルベルトが999年にローマ教皇に選ばれたときにコンスタンティヌス帝の帝国の復興を象徴してシルベスター二世を名乗った。オットー三世とシルベスターの仕事の成就を望んだ。それはヨーロッパで最高度に教育された2人の理想的な夢であった。知識を求めてスペインを訪れたゲルベルトとビザンツの母により教養ある国際的環境で育ったオットーに取って世界は一つであり、ローマ都市とその文化は世界の中心であるとき、ローマを人にたとえた古代夫人ローマは再び人々の忠誠を奪うはずであった。しかし、その偉大な革新の企ては失敗に帰した。オットーさん席は1002年に子どももなく死去し、彼の帝国の中心地イタリアとドイツの相違点はかつてなかったほどに目立つものとなった。