R.S. ホイト &  S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その9) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

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R.S. ホイト &  S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その9)

 

中世初期;中世文明のさきがけ

 

3 ゲルマン諸王国の建設

 

西ローマ帝国滅亡後のゲルマン人の後継諸国

 クローヴィスは431年に小王国の王となり征服行動に着手したが、最後には最も広大な領土を支配するゲルマン民族最後の王としてその生涯を閉じた。511年に彼は死に臨んで、すべての息子を相続人とし王の身分を財産と見なすゲルマン民族の慣習に従って、その王国は4人の息子に分割相続された。クローヴィスの息子たちは外敵に対して協力しあい、それでもってフランクの諸王国はその領土を拡げていった。ブルグンド領は534年に征服された。その2年後にプロヴァンス地方が占領され、その結果、フランク族は初めて地中海に進出し、東ローマ帝国と直接的に接触するようになった。クローヴィスの息子の一人は、当時東ゴート族と敵対関係にあった東ローマ皇帝ユスティニアヌス大帝の同盟者としてイタリアへ進攻したが、その遠征はメロヴィング朝になんらの利益ももたらさなかった。ライン川東岸のフランク族は奮闘し、進路をさらに切り開いて中部ドイツ方向へ進み、531年にはテューリンゲンを征服した。

 ガリアの内部ではクローヴィスの息子たちはそのような協力を何ら示さなかった。各々が王国内における兄弟の取り分をやたら欲しがり、他国領土を征服しないときはクローヴィスに教わった違約と破壊の技法を振りかざし、兄弟間の戦いのために時を費やした。558年に一人を除いてすべての兄弟および彼らの相続人は除外された。それらのおおよそは横死である。生き残ったクロテール一世(538~561))は易々と王国を再統合した。彼の死後、メロヴィング王国はふたたび彼の4人の息子に分割相続され、今度の内戦は以前とは桁外れに野蛮で壮烈な規模で展開した。クロテール一世とその王妃や妾らの間で生まれた息子らの堕落と不信心ぶり、先天的な残虐性についてはトゥール司教のグレゴリウスによって当時(6世紀末)の「フランク族の歴史」に生々しく描写されている。唯一人の生き残りのクロテール二世(ネウストリア国王シルペリアと妃フレドゴンデの子)が613年に一族の貴族や司教によって謀殺行為をやらかし、併合王国の王座に就いた時は、この世代の人々(クロタールの息子および相続人)のほとんどが皆殺しされてしまった。

 クロテール二世による単独支配のもつ唯一の重要性は、彼の治世がフランク族の君主制から領地をもつ貴族へいたる権力の変遷を明確に特徴づけていることである。614年にクロテール二世は勅令を発布し、教会に対するある種の王権を放棄し、また、聖職者と平信徒貴族両方に与えた特権の枠を拡げた。ダゴベール(629~639)の治下で「メロヴィング王朝はまやかし繁栄ではあるものの、最後の煌めきを見せた。」その復興は短命に終わり、ダゴベール自身も領地もち貴族の地方特有の利害に対し譲歩する意向を示した。ダゴベールは以後、メロヴィング王国はその王たちの政策と努力に対し何の恩恵も施さなかった。

 さらにフランク族とともに未来が横たわる。メロヴィング王国の外面的な退廃はただその王たちをもって歴史を同一視するという誤解を生みだしやすい習慣から発生しているだけである。メロヴィング王国はたとえ不穏ではあっても、他のゲルマン王国と較べると、なおまだ健全なほうだった。ブルグンド王国はメロヴィング朝に征服されたのだが、アウストラシア、ネウストリア、アキテーヌおよび地中海諸島を支配したヴァンダル王国は477年のガイサリクの死後、堕落して沿岸地域をムーア族にその領土を譲ることになった。ヴァンダル王国の弱点は克服できなかった。アリウス派教義を信仰するヴァンダル族とローマ=カトリックを信仰する属州人という宗教上の相違は王による宗教迫害とその臣民相互の仲たがいを惹き起こす因となった。ヴァンダル族の征服者はただローマ貴族の財産を没収し、ローマ貴族のように大部分の住民を消尽させたにすぎなかった。

 やがて6世紀に東ローマ皇帝ユスティニアヌス(528~565)は最高の名将ベリサリウス指揮の遠征軍を派遣して北アフリカを再制圧した。ヴァンダル王国の西地中海制覇は西ローマとの交易を進めるうえで障碍となっていた。ヴァンダル王国内の不満住民はビザンツ軍にとって潜在的な人的資源であったようだ。北アフリカのシチリア島は西ローマ帝国の失われた属州をさらに奪回するための前線基地を提供した。ベリサリウス将軍は533年に北アフリカに到達し、同年にヴァンダルの首都カルタゴを奪取することによって主要な抵抗を打ち砕いた。それにもかかわらず、ムーア人による叛乱や襲撃は548年まで鎮圧されなかった。この年にかつてのヴァンダル王国の領土はその地中海諸島とともに帝国領土に再編入された。

 地中海支配権を獲得したのち、ベルサリウスは東ゴートのイタリアの始末に取りかかった。ここで、526年におけるテオドリクスの死後の状態は容易に再征服するのにいっそう機が熟しているように思えた。テオドリクスの治世末期に離反はすでにカトリック教徒の間で始まっていた。コンスタンティノープルで正統派の皇帝ユスティニアヌスが出現したことはアリウス派のテオドリクスに対する陰謀やその噂を惹き起こすのに十分だったが、ユスティニアヌスの信教の自由の政策は、開化に遅れをとったイタリアの彼の臣下からは評価されなかった。テオドリクスは彼の治世を始めた当時の激越さをもって、彼が叛逆罪と見なす人々をすべて打ちすえた。犠牲者のなかに、ボエティウスを含む古くからの元老院議員の家系を誇る幾人かの貴族は彼の時代の主だった知識人であった。テオドリクスの死後、未成年の後継者、テオドリクスの娘の摂政、貴族の相反する利害関係がすべて結合して東ゴート王国を弱体化させた。ベリサリウス将軍は535年にシチリア島を奪回し、翌年のうちにローマを再征服した。それからゴート族はテオドリクスの王位に対してすべての世襲の請求者を無視して、ウィティギスという軍指揮官を王に選んだ。

 ウィティギスは苦難な抵抗戦争を開始し、抵抗運動は彼と彼の後継者で人望のあるトーティラにより20年以上もの間続行された。ゴート族戦争において人々は以前のいかなる世代にもましてずっと長いあいだ略奪や流行病、そして飢餓に苦しんだ。イタリアは完全には荒廃から回復しなかったが、それは主としてオリエントから来た帝国の傭兵活動に起因した。東ゴート族は国の安否にこそ関心をもっていたが、大部分は獲得した都市を分かち与え、それでもって国民の十分な支持を得ていた。こうして再征服は、アリウス派の東ゴート族からの解放として正統派のユスティニアヌスが望んだようには歓迎されなかった。しかし、556年までには独立したゴート族の城砦を除いて北イタリアはラヴェンナを皮切りに再占領された。そこで、総督すなわち太守はペルシャ国境で戦っていたビザンツ帝国軍のために税金と軍隊を調達しようとしたが、ほとんど成功しなかった。ラヴェンナの総督区はイタリアにおける帝国政府と呼ばれ、その後200年間存続することになるが、南イタリアのビザンツ帝国の支配は11世紀まで途絶えなかった。しかし、ビザンツ帝国によるイタリアの再統合は12年しか続かなかった。

 帝国に侵入した最後のゲルマン族は ― それには今、もう一度イタリアが注目されなければならない ― ランゴバルド族である。彼らは最初、東ゴート族と戦っていたビザンツ帝国軍の傭兵として552年ごろに出没した。地中海世界に侵入した全ゲルマン族中でランゴバルド族はローマ=カトリック教化の影響を最も受けることが少なかった。しかし、6世紀までには彼らの宗教は正式にアリウス派のキリスト教になっていた。彼らは568年に侵入者としてイタリアにたち戻った。帝国の守備隊が時おり頑張っていた不毛の地域が要塞都市の外側にちょっとした抵抗を示した。ランゴバルド族の王アルボインの指揮下で侵入初期の段階はうまく進捗した。ランゴバルド族の首都パヴィアを含む幾つかの南部の都市が陥落した。しかし、572年(彼の妻が彼女の亡父の頭蓋骨から作った飲物によって彼を暗殺したとき)のアルボインの死後、ランゴバルドの領袖たちは新王を選ぼうとしない間もイタリアの征服は少しずつ進められた。30人の領袖たちはそれぞれいろいろな町を獲得し、小さな公国を建てた。これらのうち最も重要なものは中部イタリアのスフォルトと南部のベネベントという公国であった。

 このようにしてイタリアの大部分が侵略によって荒廃させられた。584年、ビザンツ皇帝が軍隊を派遣し、アリウス派のランゴバルドに対しカトリックのメロヴィング朝の援助したが、その努力は脅威に対処するために国王を選出したランゴバルドの諸侯を再統合するのに十分だった。

 最終的に事態は収拾に傾き、ランゴバルドの王政はアーギルフ(591~616)の治下で確固として確立した。彼はランゴバルドがイタリアでおこなうはずだった征服のほとんどを完遂したのである。依然としてビザンツの手中にあった最重要の地域はラヴェンナとその周囲地区(ヴェネチアを含む)、アプリアとカラブリア(半島の爪先と踵)、シチリア、周辺地域を含むナポリとローマ、そしてジェノヴァおよびその奥地であった。しかしながら、このような名目上のビザンツ領の範囲ですらも帝国の支配はいつも効力をもつというわけではなかった。たとえば、ローマ公国の中で教皇は皇帝の統治権こそ認めていたが、同地方の政治のほとんどは完全な支配権を行使した。

 西ゴート族はテオドリクスの干渉により救われていたセプティマニアの沿岸地方は別としてクローヴィス(507)によってピレネー山脈以南に追いやられた。彼らの王国は北西部(スエビ族に統治されていたガリシア)とピレネー山脈の一部分(バスク人支配下のガリシア)を除いて全イベリア半島を含んだ。西ゴート族の王たちは地位保全のために苦難を強いられた。カトリック教徒はアリウス派の支配者が寛大なとき、そして、宗教的迫害により服従させられようとしたときのどちらも力を貸そうとはしなかった。西ゴート族の貴族社会は王権を求めるのに汲々とし、また、フランク族はセプティマニア地方を威嚇した。ビザンツがイタリアの国土を再征服したのち、ユスティニアヌス帝の軍隊はスペインの南方を帝国版図に組み込むのは容易であることに気づいた。しかし、王位はリカレド一世(586~601)によって,効果的にというよりも劇的に取り戻された。彼はカトリック教徒となり、589年トレドでおこなわれた司教と貴族から成る国民評議会の後援のもとにカトリック教を公認し信仰することを宣言した。これによってリカレドはカトリック教権制度の支持者、また、彼の臣民中の多数派を確保することができた。王制のもとでの聖職者の支援は宗教上の聖別をなしたり、リカレドを王として神聖化したりする際にあからさまに強調された。これは旧約聖書の中での王権が神聖なる性格をもつことを忍ばせる。彼が支配するための宗教的な認可であった。

 ブリテン島はローマ属州の中ではガリア、アフリカ、イタリア、そしてスペインにおける属州とは基本的に異なった方針にもとづいて開発された。文明化した世界の外辺に浮かぶブリテン島には島の南東部に限られた小さなカトリック教化された社会が存在した。その州は不安定な位置にあった。北にピクト族とスコット族(前者はスコットランドに、後者はアイルランドに)定住していた。これらは境界と沿岸を脅かした。そしてハドリアヌス帝は彼らに対してダーラムのちょうど北側に防禦壁を構築した(AD122年)。アントニウスはクライド川とフォース湾口の間に、ハドリアヌスの壁の北にブリテン島を横切る別の要塞線を建設した(140年)。ローマ軍の軍勢が410年にブリテン島の防衛を断念したとき、北方の部族はカトリック教化された地域に奥深く急襲することが容易であると察知した。ローマの居留地や町に定着したブルトン族は彼らの比較的新しい文明が滅亡の危機に瀕していることに気づき、そしてすぐさまゲルマン族の傭兵を招くと、彼らを守るためにイギリス海峡を横切った。もちろん、ゲルマン族はまさに魅了されかのようにピクト族とスコット族と同じく、カトリック教化された社会と島の中にある富と文化に気づいていた。そして、すぐに多数のゲルマン族が上陸し、拡がり癒着していったのだが、他の集団から森林と沼地により分け隔てられた。6世紀末までには諸部族の王国が並立していた。南東部にはカントワラすなわちケントにジュート族の王国が位置し、首都はカンタベリーに置かれた。サクソン族はブリテン島の南部に幾つかの小さな王国を設立した。サセックスには南サクソン族、エセックスには東サクソン族、そしてテムズ川に沿ってさらに遠い西の地域と奥地を含む南海岸に沿った地域には西サクソン族が定着し、のちにウェセックスとなった。ミッドランドとハンバー川以北には別の教区がアングロ族により部族王のもとで確立した。ミッドランドの辺境地域にはマーシア、ヨークに集まったデイラ、そしてさらに遠く北へバーニシアがあった。他のアングロ族は北王国と南王国に分割され、ノーフォーク、サフォークと呼ばれイーストアングリアとして知られる地域を勝ち取ったのである。

 メロヴィング朝のガリアや、西ゴート族のスペインや、東ゴート族のイタリアと較べて、これらのアングロ=サクソン族の領土は重要ではなかった。彼らの王はだれもブリテン島に住む部族を統一することができなかった。いかなる王も達成した政治的統一に最も近いものであっても、他の諸王や小王に対する個人的優位という曖昧な承認でしかなく、それはブルトワルダの称号で知られている。ブリテン島の征服は幾つかの点でユニークである。それは多くの小グループによって達成された。一人の指導者によってその動きが支配されたのではなく、ゲルマン族のために定住地を残してケルト族のキリスト教徒の住民が西方へ退去して以来、征服者の文化が被征服地のローマ化された文化を抹消した。その結果、ローマ文明の跡はイギリスに残らなくなった。同時に、コーンウォールやウェールズ、そして究極的にアイルランドへ、ブルトン人の西方への移動は現在のスコットランドのスコット族に移動を強いた。そこで、彼らは先住のピクト族と融合した。ブルトン人の幾らかは完全にその島を去り、ガリアやアルモリカンに居住した。そこは後に田舎人の住む部分であり、未だに古代ケルト語が話されるブルターニュとして知られるようになった。しかしながら、ブルトン人は抵抗せずに彼らの故地を後にしたのではない。5世紀末に開始したが、彼らはがっちりと構えたが最終的にケルト族キリスト教文明を守ることに失敗した。異教徒のアングロ=サクソン族に対する偉大な勝利はたぶん後のアーサー王伝説に続く歴史的有名人のアルトリウスという名の軍指揮官によって達成された。アングロ=サクソン族の中での侵略戦争とともに、この苦々しい抵抗は部族王の威厳を強めるよりも、大きな政治単位への幾つかの部族の統合を強めるにいたった。デイラとベルニキアはエセルフリットによってノースウブリアの一つに統合された。彼はアイルランド海の西へすべての道を拡げることによって北部と南部ブルトン人の間に楔隊形を駆使した。南部ではケント王国内にエセルバートは北のノースウムブリアの支配に似たサクソン王国領に関する盟主権を確立した。この時期は異教徒の堂々たるアングロ=サクソン族の征服の時代をもたらし、2つの主要な特徴が7世紀の残りを特徴づける第二局面を出現させた。すなわち、支配のための王領やアングロ=サクソン族のキリスト教への改宗での奮闘である。

 未開な西部のある処で政府はゲルマン族の政治制度の特質を特に王の威厳を変化させた。古ゲルマンの王位は戦争に結びつき、政府形態と同じく不安定だった。ゲルマン人が帝国領内に住むようになり、彼らの王位に対する概念は変化した。なぜなら、ゲルマン人はローマ人の官僚制度や政治的概念に直接的に接していたからであり、彼らはこの土地保有の型が高く成層化された政治的・社会的文化に適合した地域を管理したのである。征服蛮族は押しなべてローマ社会を保護するにつとめ、前代の政治制度の比較的に効率的な政府組織を引き継ぐことの利点を認めていたため、彼ら自身の政治制度のほうが変化するにいたった。ローマの行政は理論と実践の両面において官僚制度に責任を果たしうる揺るぎない権威を必要とした。ゲルマン人の政治概念が国王権力を維持するのに都合よい理由にはならなくなってからは、王たちは中世文明を生んだ文化変遷の過程を象徴する国王見地を生むためのイデオロギーをローマ人から借用した。王たちは古ゲルマンの法体系に踏み入り、彼らの共同社会での平和の保持に責任を負った。このようにして抑圧的な権力は徐々に王の手中に集中した。ゲルマン人のキリスト教への改宗はまた王たちの権威を強化した。王たちは指導者の階級から身を起こし、このようにすべての指導者は彼らの地位を正当化する架空の基礎に結びつく神聖な権威を主張した。クローヴィスのような国王権力に対する排他的主張を実現するというような粗暴なやり方は、王権にふさわしい神聖さを主張しうる諸個人や一族の数を制限した。異教徒の王位がキリスト教となったとき、教会は王の神聖なる人格こそは認めたが、全体の指導者の階級の神聖さを認めなかった。このようにして教会は新しい君主政治の主要な土台の一つとなった。

 侵入により大きな社会的動乱も、突然の経済上の変化も生まれなかった。ヴァンダル族のアフリカに位置する国では、野蛮人たちは広大な土地を没収し、自分らの間で再支配することによって属州の貴族政治を変えてしまったように思われる。また、野蛮人たちが軍隊に報償を与えるという古いローマの慣習に従った王領もあった。数世紀の間、戦士たちは土地を報償として支払われ、その土地がその目的のために収用された処では、影響を受けた属州の所領の3分の1にも及んだ。フォエデラティはこのようにして国境付近に移住させられ、そして、彼らが西ローマ属州の中心地域に定住しはじめたとき、その古い制度をつづけた。住民の大多数はほとんど変化を感じなかった。すなわち、彼らの地代を徴収したり、彼らの働きぐあいを監督したりする者がだれであろうと、小自作農民というような、あるいは広大なラティフンディアにいるコロ―ヌスのような身分にいて変わらなかったのである。農業方法においても変化はなく、属州経済の自給自足の傾向は存続した。ゲルマン人がほとんど定住する気にならなかった都市部においては、属州の都市市民は戦禍にさらされた時を除いて彼らは比較的に平穏を維持した。経済的な衰退は地中海一帯を結び、属州社会を刺激していた古い帝国の商業上のネットワークの崩壊によって生じた。

 すでに指摘したように、西ローマにおけるローマ組織の混乱は、新しい主権者によりそれを維持しようとする試みによって抑止された。ローマのキビタス(都市や町とその周辺の農村)は行政機関として存続した。王によって指名され、理論上は王の意志でもって罷免できる蛮族の公爵や伯爵によってそれらは統治された。公爵あるいは伯爵は自分が支配している範囲内でほとんどすべての政治権力を行使した。彼は税を徴収し、軍隊の属州師団を統率し、そして、本人あるいは代理人によって法廷を管理し、道路の補修を行き届かせて見せかけの平和と秩序を維持した。属州政治は人々にとって中央政治の権威よりも遥かに重要だった。属州の伯爵と公爵は自分ら自身および属州のローマ的・ゲルマン的貴族らとともに国王政府の利害に反して協力する立場にあった。メロヴィング朝ガリアやランゴバルド族のイタリアでは、伯爵領と公爵領は全体として王領よりも重要で永続的な政治単位であった。その傾向は経済的と同じく、政治的な属州主義にまで及んだ。

 王たちは完全征服して勝ちえた土地のほうが彼らの領域の総資源より頼みになった。これらの土地は国王の財源となり、そしてその収入は国王政治を支えることになった。メロヴィング朝の歴代国王は敬虔な寄進というかたちで教会に、そして多くの場合、内乱期における支援の返礼として貴族に、ガリアの王国の財である広大な区域を手放して授けた。これにより、いっそう中央政府の資源は目減りし、属州主権を弱めるにいたった。

 ローマ法をあまり知らない蛮族の伯爵たちの法廷の仕事を軽減し、そして、2つの異なる人種(ローマ人とゲルマン族の法の両方を含む)の党派間で論争に適用できる法的諸規定を明らかにするため、国王たちは法典を刊行した。これらの法典は施行されたすべての法の陳述が余すところなく記述されているわけでもなく、また、完璧なものでもなかった。それらは裁判を進めるための職務上の、かつ義務的な指令であり、また、おそらくは法廷において特別訴訟として生起するかもしれない不確かな係争案件の解明に使われた。そして、最終的な決定は王に付託することを記している。ローマ法(レゲス・ロマーナ)の蛮族法典はテオドシウス法典に基礎を置き、そして、後期ローマの法学者のさまざまな法律の著書に基礎を置いた。これらの布告や法律の注釈は特別訴訟に適用すべき法の権威ある解釈として法廷で受け入れられた。ゲルマン民族法(レゲス・バルバロイ)は蛮族同士、および蛮族とローマ市民の間の訴権を扱う陳述であった。各々の法体系を別個のものとして維持しようとする試みは結局のところ、2組織の融合を導くことになった。蛮族の法典はラテン語で書かれていたが、それらがアングロ=サクソン語、すなわち、イギリスの言語の最古の記録が残っているところにあるイングランドは除かれた。たとえ、特別の法規定がローマの状態ではなかったにしても、テュートン族の世界の法律概念をラテン語で表記する必要性は蛮族法であるゲルマン民族の法律学あるいは基本法概念をローマ化したのである。教会の教えの影響はいずれも重要であり、それもまた、ゲルマン民族の特性をローマ的にしがちであった。

 ゲルマンの諸王によって発布された最も重要な法典は5世紀末から6世紀初に編纂された。いちばん最初の者は483年ごろ、西ゴートのエウリク王によって発布された西ゴート法典である。彼の後継者アラリクス二世はクローヴィスによる西ゴート攻撃の間際にローマ法典いわゆるアラリクス提要を506年に発布した。それは従属民のガリア=ローマ人とカトリック教徒を味方に引き入れるのに、あるいはまた、彼らの敵愾心を中立化させるのに土壇場での効果を挙げた。ブルグンドではグンドバド王がブルグンド法典つまりグンドバド法典を484年に発布した。グンドバド王と彼の後継者シギスムンド王(516~524)の両王はこの法典に補足事項を追加した。グンドバド王はまた、ローマ=カトリック教徒に対してローマ=ブルグンド法典を認可した。534年のフランク族のブルグンド征服ののち、これはアラリクス提要 ― フランク族の後援があったため、フランク族の支配下のおけるゲルマン民族以外のすべての部族に対して一種の慣習法となったのだが ― に取って代わられた。このことはキリスト教徒とガリア=ローマの全住民の便益となった。なぜなら、アラリクスの「提要」は敵意をもつ従属民を宥めようとする譲歩を含んでいたからである。

 ゲルマン民族は彼ら自身の文化の多くを保持し、そして、ローマ文化が彼らの文化を与えたのと同じぐらい多大な影響をローマ文化に与えた。後の中世社会はローマの土台のみならず、ゲルマンの土台の上にも築かれた。その実例は1世紀末において、タキトゥスが言及する古代の同族議会から支配領土内の貴族階級の自由な人々による議会への変容したことに見られるであろう。戦争指導者と彼のコミタートゥス(タキトゥスはそう記述したが)の仲間との関係の重要性は征服後においても消え失せることはなかった。それはむしろ、支配者と、時には土地の保有権もしくは非軍事的サービスと関連する従属民との間のより着実な関係に変化した。

 融合に対する一つの大きな障碍とゲルマン人の国王に対する最も重大な政治的問題は、アリウス派のゲルマン人(異教徒のアングロ=サクソン族とカトリック教のフランク族は除く)を正統派つまりカトリック教徒との間の対立であった。この対立はヴァンダル族、西ゴート族、東ゴート族、ブルグンド族、そしてランゴバルド族の歴史において決定的な意味における脆弱点の一つの要素であった。アリウス派の教義は長い間、ゲルマン王国において対立を惹き起こす力をもっていた。それはちょうど7世紀の終わりごろになると、取るに足りない一要素となった。

 このように社会的・政治的、そして経済的機関はむろんのこと、宗教・法規・行政において西ローマでのゲルマン王国の確立期(およそ450~700年)は、異質な要素の漸進的な変化と融合、すなわち、中世社会の根本的統一へと結実していく方向に導き、助長する過程の一時期であった。その時期における知的・文学発展においても融合過程のこの部分におけるゲルマン民族の要素がさほど卓越しないという重大な相違点をもつことを除けば、同じことがいえる。ゲルマン人はローマの知的文化の学生となり、そしてキリスト教徒は西ローマ帝国の新しい居住者と統治者の教師としての役割を果たすことになった。