R.S. ホイト &  S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その6) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

R.S. ホイト &  S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その6)

 

中世初期;中世文明のさきがけ

 

3 ゲルマン諸王国の建設

 

 ローマ帝国末期の政治的・社会的・経済的な営為は一つには中世文明社会の発展に対しての、そして、それと別途にキリスト教の流布に対しての礎石をつくりだした。3つ目の礎石であるゲルマン民族の貢献は評価するのが最も困難である。ゲルマン民族の侵入は帝国内のヨーロッパ人の文化的混淆に対して新しい要素を加え、そしておそらくは西ローマ帝国内に生起した変動を速めたであろう。ゲルマン民族は帝国内の総人口の多数派を構成することができなかった。しかし、彼らは支配者であった。それでもなお、ローマの領土に定住したゲルマン人の大部分はローマ人たちと長期にわたる関わりを維持し、そのことによって彼らはローマの行政組織を保持しようとした。侵入したゲルマン民族は西ローマ社会の中に最上位の地位を占めた。しかし、彼らはその社会の中に統合された。(帝国の)支配体制を変えることにおいて、また、末期のローマ帝国内に生じた変動を速めることにおいて彼らが受けた影響は帝国外部からよりもむしろ帝国内部から惹き起こされた。

 帝国内のゲルマン人の浸透は数世紀に渉って着実に進行していた。それは全部が全部ゲルマン人とローマ人の間に起きた闘争や交戦による結果ではなかった。一個人もまた未開人の小集団の平和裏の侵入は紀元前に遡る。「侵入」という用語は多くの場合、ドイツ歴史学が用いたフェルカーヴァンデルンク(民族の放浪)という用語に値するほど極めて平和的な意味であった。多数のゲルマン人、イタリア人、そしてアジア=アルタイ語系民族は3,4,5世紀の間、断続的に移動していた。帝国末期の皇帝たちはしばしば他の流浪民族集団から開拓者を守るため、彼らは帝国内に定住させた。4世紀末にローマ軍の半分以上は確かにゲルマン人であった。そして、ゲルマン人たちが司令官の最上位を占めるまでになった。

 記録によると、軍隊を引き連れて西ローマ帝国に侵入したゲルマンの諸王は制服支配するようになっても破壊はしなかった。彼らのほとんどは帝国からの多くの戦利品を求め、多くの者がそれを獲得した。そして、彼らの支配は合法性によって強化された。西ローマ帝国においてさえ、帝国末期に年代を定めることが不可能であったのはこういう事情による。じじつ、ゲルマンの諸王は独立して支配していた。理屈上では皇帝という名のもとに、そして彼の依命を受けて支配していたのだが、東ゴート族の王テオドリックは尊厳とパトリキウス(貴族)の地位を獲得した。他の諸王もまた事実上の権力を得て事実上の合法性を求めた。しかし、ゲルマンの諸王はだれ一人として敢えてローマ皇帝という称号を獲得しようとはしなかった。こうした事実はローマすなわち文明社会に行き渉った普遍的主権という考えが人心を魅了する強烈な実例であった。ゲルマンの諸王はローマ人とゲルマン人が混住したかたちで支配していたのかもしれない。そして、ローマ市民権や最高のローマの尊厳を専有していたのかもしれない。しかし、ゲルマンの諸王は帝位を望まなかった。

 

初期のゲルマン社会

  初期のゲルマン社会の歴史を述べるのは難しい。幾つかの文学的かつ考古学的な著作があることはわかっている。ゆえに、歴史家はそれらの間隙を憶測でもって埋めていかなくてはならない。歴史学の伝統においては、憶測や、それにもとづいて示される歴史像はイデオロギーから大きな影響を被る。初期のゲルマン社会(5世紀初)の遺物からその意味を汲み取ろうとする最も重要な試みは、ルソーのいわゆる「高貴な野蛮人」という意識にもとづいてきた。ゲルマン人は共通の仕事をなす集団に属すが、完全にすばらしい自由の環境下で、正常に生きる自作農と集団として描かれた。当然のことながら、この集団には犯罪とか異常性格者とかはいなかった。ゲルマン人の特徴は欲深さの対極、健全さへの理想であった。19世紀中にイギリスの政体の発展に関与した歴史家たちは、彼らの同時期における大規模な法律改正を含む政治思想の源泉としてゲルマン民族を取りあげた。参政権の状態を基礎とし、民主主義の中に立憲君主制を形づくる政治上の平等主義のイデオロギーはもともとゲルマン人の民主主義的傾向に由来するといわれてきた。それはゲルマン人がかつて、独裁的なローマ帝国の腐敗した文化的雰囲気に染まる前に存在した貴重な共同体社会において実現したのである。そして、ゲルマン民族の政府が再現すまで15世紀間以上もかかったということに歴史家たちは驚かなかった。もちろん、ゲルマン族は政治上の発展が彼らの時代に終わったと思い込んでいた。

 遠い昔のゲルマン族を扱う近年の歴史家たちは、図書館を探索することや考古学研究が強化されたこと、この二つの実質化によってその根源を分析しなおし、根源の核をつけ加えた。この新しい研究から明らかになった描写によれば、ゲルマン族は階級のない民主的社会を育み民族理論から大きくかけ離れた民族であるという想念を放棄するにいたった。

 ゲルマン民族はスカンジナヴィア半島と欧州大陸北部から興った。彼らはけっして同一の言語を話していなかったが、類似する言葉を遣い、文化的細部の多くに渉って互いに異なり、多数の文化的特徴を共有するも、大きく類縁関係にある民族集団を成していた。その民族は社会的にも政治的にも階級体制を敷いていたようである。幾世紀にも渉ってゲルマン族の集団は南へ、そして東へと移動したが、彼らの生活は放縦ではなかった。定住の長い時期があり、それは幾世代も続いた。西ゴート族の聖者サバスの初期の伝承に、西ゴート族が帝政に関わる以前には指揮官たちの一種の会議のもとで彼らは集結していたとの記述が見える。聖者サバスの受難から始まるその会議は村々にさほど頻繁には効力を及ぼさなかったことは明白である。現実的というよりはむしろ潜在的可能性あるものとして大規模な政治体制を特徴づけることがいちばんよいのかもしれない。部族長たちは戦争指導者と権威的部族の統治者の権力を兼備していた。しかし、これらの権力は広大な領地と多数の人民の上にはめったに及ぼさなかった。大きな同盟は一時的な脅威に遭ったり、一時的な機会を利用したりすることのためにのみつくられ、多少なりとも中身が変化すると、そうした紐帯は衰退した。

 村々は一時的集まりに外ならなかったが、明らかに部族単位で結束した。いずれにせよ、村々は明らかに数多のゲルマン人集団の中の社会的組織の根本単位であった。村の社会は指揮官たちと族長の会議によって治められていた。指揮官と他の独裁的な人間の本質的な違いは、指揮官は信仰的に、かつ公正であることが義務づけられていたことのようだ。指揮官の親族は古くからの権利を主張し、代々そうした姿勢を維持してきた。ゲルマン民族が紀元一世紀にローマ人に知られるようになるまでは、指揮官の親族は神由来することを主張することによって特別な地位を正当化を図った。そして、ローマ人から見れば、指揮官の権力を基礎づける単位はゲルマン人の政治体制中の安定的要素にあったことである。

 貧富格差といっても中世および現代のレベルと較べると大きくはなかったものの、部族の中では凹凸は存在した。劣位の家族はふつう、豪族の周り、あるいは離れ離れに、あるいはまた知りあい同士またはグループ別に居住した。パトロンと平民の関係は法の前ではほぼ同等の権利・義務を負っていた。平民がパトロンの忠誠を誓っている間、パトロンは財務や法律上の問題を、また、婚姻やその他以外に親族の身分に関連するような社会的行動を扶助した。貴人が昇殿または外征の場合はいつでも、そして地方で生起した問題に対して対処行動の必要が生じたとき、忠実であることが行動の基本となった。さらに、召使と奴隷は多数の親族に従属させられていた。こうした束縛を受けた人々は戦争での捕虜や、財政や法律上の取り締りのため同族に服属させられた者(債務奴隷)であった。

 また、身分はゲルマンの社会では重要事だった。たとえば、権利侵害を伴う法律訴訟は実際の肉体的損傷よりも、傷つけられたとの事実から生じる身分の特質に関連していたようだ。というのは、親族の一人の地位を失うと、親族全体の地位を失うのと同じであったからだ。共同法は、血族間の不和を増長することなしに闘争を解決する方法を提供した。だが、実際的には紛争は仇討ちの始まった後はたいてい法廷へ持ち込まれた。そして、法は危害への救済策を提供せず、闘争解決に向けての到達手順を提供するだけに終わった。解決の目標は両派の原初的な関係を取り戻すことに定められていた。これは変化を生じせしめた何らかの行為が不正であり、許容できないと見なされる場合を除いて、いかなる地位関係の変化も闘争と法律訴訟に導くことではなかった。それは法律訴訟の裏に置かれた種類の行動である。

 侵入期におけるゲルマンの法律形式の状態を明らかにするのは難しい。だが、それはスカンジナヴィアではのちにたいへん複雑で精巧な形態に発展していった。中世スカンジナヴィアの法は複雑な手続きの、あるいは法律訴訟の集団を保護する形式がつくられた法に基礎を置く。この形式で皮肉なことは、その法律の ― その専門語の豊富さは訴訟当事者の間に真実の公正さを保障することを意味したが ― 異常な複雑さゆえに、こんにちの法律を同じように公正に取り扱われるべく使われていたことである。

 法は利益追求のため暴力に訴えるかもしれない。集団社会で当事者の一方に対する戦闘に取って代わるべく設計されていた。女・子供・老人は法律の考慮から除外されていて、原告にせよ被告にせよ、訴訟集団に加わることはできなかった。こうした除外規定は女性は初期ゲルマン社会では親族中で重要な人物となり、彼女らの願望がしばしば男によって一方的に決められる婚姻交渉の結果に影響を与えることができた。それに加えて、女性は自分自身の肉体を傷つけることはなかったのは彼女らが平和的であったからであるが、仇討ちや訴訟にいたるある種の優位を得ることができた。彼女らはまた、法律上の罰則を受けなかった。だが、これらの利点は限定的だった。というのは、彼女らの夫がじっさい生死の権限を握り、彼女が問題を生じる傾向を暴力的に解決することができたからである。男性がそういう力をどの程度行使したかは判っていない。自分の子供に対しても。しかし、妻に対する暴力的な権利を親族の組織が和らげたことは指摘されて然るべきである。男性は妻に対して加えた危害に対しての妻の親族からの報復、そしてまた、その損傷が彼の地位と親族の地位に影響することを考慮しなければならなかった。それゆえ、女性の法律上の地位は地域社会における実際的な地位や力を反映していなかった。そして、女性の行為が法審理の外に置かれたことは痛烈にゲルマン社会機構の効力を減殺する結果になった。

 ローマ文明との接触はゲルマン社会に変化を与えた。帝国政府は侵入グループの不断の圧力から全国境を防衛するための兵力を編成できないと悟ったとき、2つの方策を採用した。ユダヤやアルメニアのように、比較的安定した諸国家が存在したオリエントでは、ローマ帝国政府は地方自治の返礼として国境防備のために権限を付託した緩衝王国を建国した。先住する王国が存在しないライン~ドナウ川の辺境に、帝国政府は王権力の成長を明確に奨励した。諸王らはローマ人に役立つ部族国家をつくった。そして、諸王は帝国政府が扱うことのできる集団となった。諸王の支配下でフォエデラトゥス(同種または同盟の人々)と呼ばれるゲルマン人のグループがオリエントにおける緩衝国と同じ目的のために、ローマの領土に置かれた。4世紀までには彼らは特に西帝国においてローマ軍の大部分を形づくった。このようにして、ゲルマン軍の指導者たちはローマ軍の将軍となり、国境の向こう側の人々と文化的に、かつ歴史的に接触し、これに関係したゲルマン人の大集団はローマ化していく。ローマ化の進行は国境の反対側の部族にも影響した。なぜというに、平和な時期にはすべてのゲルマン族でかなり多くの交渉があったからである。ゲルマンの社会組織はこうしたローマ人との接触を通じて利益に与った。というのは、フォエデラトゥスはローマ軍や管理組織において養成されただけでなく、帝国文明の別の姿にふれることできたからである。4世紀末に侵入が始まったとき、ゲルマン社会は大きく変容し、こうした変容は、以前はそうだったであろうと推定される以上にゲルマン人とローマ化したガリア人の社会的融合を容易にした。

 4世紀末の25年間、西帝国の状態は急激に悪化した。バレンタイン一世の息子で367年以来、共同帝国を統治してきたグレイシアンは国境防備を疎かにした。しかし、彼の父(一世)が死去した375年、グレイシアンが腹違いの弟バレンタイン二世を年少の共同皇帝として受け入れたことによって、将来は進捗しないのではないかの予兆が生じた。バレンタイン二世は宮廷内の陰謀や帝国の諸政策において翻弄された。これらは、前の3世紀のディオクレティアヌスを想起させるものがあった。なぜというに、グレイシアンはスペイン王座を奪おうとした手先の手にかかって暗殺され、ローマ軍の数人のゲルマン人将軍の間で権力闘争がひき続いた。最後にフランクのアルボガストが現れた。バレンタイン二世が支配しようとしてまちがいを起こしたとき、アルボガストは彼を抑えつけ、傀儡化し、皇帝ユーニゲアスを擁立した。

 西帝国においてこうした政治上の境遇は何も目新しいことではなかったが、東帝国ではコンスタンティウスの後継者たちはゲルマン民族の移動により、先例のない危機に直面し軍門に降った。ライン~ドナウ川の辺境地域があったため、帝国から逸らされたゲルマン人の一集団は早い時期に南や南東に移動を始めた。ゴート族がこれである。人口過剰、戦禍または飢饉に襲われ、ロシア南部の平原を彷徨い歩き、そこで2派(東西ゴート)に分かれた。東ゴート族は4世紀に黒海北岸の肥沃な地方に住みついた。一方、西ゴート族はドナウ川下流の北部ダキアの西側に広がる地帯を占領。375年ごろ、ゴート族は突然アジアのフン族と衝突し、攻撃を受けた。フン族のヨーロッパへの出現は、中央アジアのウラル=アルタイ民族のはっきりしない移動の最終的な結果であった。このウラル=アルタイ民族のもともとの衝動は人口増大や本質的には農村生活の気候変動による結果やヒマラヤ山脈ホック部の遊牧民族における終りのない権力争闘の組み合わせによるものであった。ロシア南部の平原は騎馬民族の戦闘的な兵法にお誂え向きで、東ゴート族は圧し潰され、バラバラにさせられた。

 今度は自らが移動を強いられた西ゴート族はドナウ川下流域の自然障壁のすぐ南側で住民不在となった地方のモエジア内に定住する許可を帝国に求めた。東ローマ皇帝バレンス(364~378)は、ローマの官吏によって与えられた食糧の返礼に辺境防備に責任をもつフォエデラトゥスになるという条件で、西ゴート族がドナウ川の渡河するのを許可した。しかし、その食糧はすぐには間に合わなかった。そこで西ゴート族は、彼らに辺境地を放棄させようとか、彼らの帝国に対する同盟を放棄させようとか、トラキア地方を組織的に掠奪させようとかの挑発行為や圧迫に苦しんだ。バレンス帝にとってこのことは義務放棄であり、裏切りであることに外ならなかった。西ゴート族はコンスタンティノープル自体に脅威を与えながら南方へ移動したため、皇帝は378年にアドリアノープル近くの決戦場で西ゴート族と衝突した。ここで、これまで最強のローマ歩兵団はゴート族の騎兵隊に決定的に打ち負かされた。バレンスは殺害され、彼の軍隊は離散した。しかし、ゴート族は計画も目的ももたず、ギリシャとその北辺を略奪をしながら、さしたる目的もなしに翌年を過ごした。

 この危機に際しグラティアヌスは東ローマに共通の皇帝としてテオドシウス一世(379~395)― ほんの数年前に面目潰れとなって退いたスペインの陸軍将官 ― を任命した。巧みな敵との駆け引きをおこなうことにより、テオドシウスは再びモエシアで西ゴート族をフォエデラトゥスとして落ち着かせた。一方、打ち負かされた東ゴート族の残存勢力は西方へ移動し、ドナウ川を離れたパンノニア地方に同様な地位で定住した。グラティアヌスの暗殺ののち、テオドシウスはその力を帝国の再興と、すべてを彼の権威下に置くという試みに集中した。394年、彼は傀儡皇帝ユーゲニウスを退位させ、彼が擁立したアルボガストを殺害した。テオドシウス一世は、その統治の最後の5か月間、単一皇帝のもとに東西両帝国を統合した最後の皇帝となった。彼はまた、帝国内でキリスト教を国教と唱道した最初の人物であったし、帝国とキリスト教の両方の功労という偉業のゆえに彼は「大王」という第三の称号を受けた。

 これらの偉業自体よりももっと意義深いのは、彼の目的のために、駆け引きと巧妙なゲルマンの陸将たちの動かし方によってこれらすべてを成し遂げたことである。アルボガストをうち破ったローマ帝国軍は、アラリックに命令された西ゴート族の軍団、ヴァンダル族のスティリコ麾下の分遣隊、そしてフン族の予備兵さえも含んでいた。彼が死後に二人の息子がいたが、うち一人はまだ若輩であり、もう一人は子供でしかなかったが、彼の跡を継いだとき、テーブルがひっくり返された。ゲルマンの陸将たちはテオドシウスが自分のために彼らを使ったように、その皇帝たちを自分らの目標のために使った。テオドシウスは権力と経験のもとに手腕を振るった最後の皇帝となった。その後、王朝の原則は帝国の犠牲によって削ぎ取られることになった。西ローマ帝国ではテオドシウスの相続人は無能で、帝位の請求は世襲によるもの、あるいはローマ軍の将軍たちによる推挙されるか、引きずり降ろされるかで占められ、いわば傀儡皇帝同然となり、真の権力はもはやいなくなったのである。