E.カメンカ編「革命のパラダイム」(その4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

E.カメンカ編「革命のパラダイム」(その4)

 

R.B.ローズ(Rose)著「パリ・コミューン ― フランス革命のエピソードか、プロレタリアートの最初の独裁か?」―  Ⅱ

 

 先に述べたパラグラフから、1870年8月に始まり3月18日にピークに達する一連の蜂起は愛国的反射作用でしかないことが明らかなように思われる。愛国的反応は確かな事実だが、一方で、それに収まりきれない要素もあった。形態が愛国的であるとすれば、その中身は共和主義的・社会主義的・プロレタリアート的であった。パリ市民が帝政反対に立ちあがったとするなら、そして、彼らがその政治的後継者、国防政府、ティエール政府に対して立ちあがったとするなら、それは、ただ単にその軍事キャンペーンの手際の悪さに憤慨したという理由からではない。1870~71年のフランス革命はもっと興味深い抗議を秘めていた。

 この20年間のフランスは2つの暴力行為に基礎を置く帝政により統治されていた。p.18 一つは、ブルジョアジーが民主社会共和国の実験を血の中に溺死させた1848年6月のクーデタである。皇帝が多かれ少なかれ最後まで農村フランスの支持を当てにすることができたのに対し、パリはけっして彼の統治体制を容認しなかった。1860年代の自由帝政の選挙は、パリ、リヨン、マルセーユのような地方の大都市に基礎を置く共和主義野党の着実な前進を示していた。それは単なる投票次元の事がらのみではない。ルイ=フィリップのブルジョア王政下にラマルティーヌ(Lamartine)がベストセラーとなった理想主義的・冒険主義的ジロンド党の歴史を刊行し、その体制の根本的スタイルに挑戦したのと同じように、第二帝政の官僚政治の死に体に抗議したパリのインテリ層は1789年の革命の民主主義的自発性の局面に思いを寄せた。たとえば、ダントンの一生を描き、マラーの生涯を書いたかどで1865年に4か月間の投獄を経験したアルフレ・ブジュアール(Alfred Bougeart)、『親ロベスピエール物語』を1867年に上梓したエルネスト・アメル(Ernest Hamel)、そして、1793年のパリ・コミューンの巨魁エベールとショーメットの弁護論を1865年に刊行したエドメ・トリドン(Edmé Tridon)らがそうだ。1868年のラウール・リゴー(Raoul Rigault)は後にコミューンの検事総長になる人物だが、彼は1793年のコミューンのもう一つの歴史的著作を出版していた。

 このような著作物はジュール・ミシュレの大著『フランス革命史』の刊行でもって一つの絶頂期を迎えた。この著書は強力であり、全体的民主共和的伝統に新たな定義を加えることになった。

 スダン陥落の数か月後、ガンベッタの必死の抵抗キャンペーンは1792年第一共和政によるヴァルミーと軍事的奇跡をフランス人に想起させようとつとめたが、それは共和主義と愛国主義をまったく同一視し、両者が共に強力な力となることにより、やがてそれは共和主義的であるとともに革命的意識をつくるのに役立つであろうとした。ブランキの新聞は10月11日蜂起の前夜、こう宣言した。

 「1792年のわれわれの父祖たちは数も、富も、今日の科学も所持していなかった。しかし、彼らは英雄的だった。彼らは国を救い、連合した君主たちを打倒した。彼らがけっしてもたなかった資質を有するわれわれはヨーロッパの蔑みの微笑みの前でプロイセンの軍靴の下に滅びるべきであろうか? 92年のわが父祖たちは内部の敵の王党主義を踏み潰した革命政府の周りに団結し、その外国の共謀者たる外敵侵入者に対して剣を抜いたのだ。」

 類似性が極めて強烈であったため、1871年のコミューンの指導的参加者の幾人かが時まさに1794年であるかのように誇りをもって行動したこと、そして、コミューンが多かれ少なかれ、1789年に始まる永続革命の完成を超えるものではないかのように行動したことは否定できない。じっさい、ブランキのメモではそうした仮想は明瞭である。1789年に始まる闘争はけっして終わっていなかったのだ。それは同じ戦場でくり返し始まった。p.19 生ける者は「未来に対する過去の戦争」を継続するために死者のマントを纏うのだ。

 だが、依然として真実であることがある。他の者たちは闘争を新たに異なった次元で眺めていた。1871年3月20日、国民衛兵中央委員会の公式の檄文は3月18日蜂起の正当性を発表した。檄文は言う。「支配階級の失敗と裏切りの真只中で首都のプロレタリアートは公事をおさめる官吏を自己の手中におくことによって、状況を打開すべき時が迫っていることを悟った。 … 彼らの理解するところでは、政府権力を掌握することにより己自身を己の運命の主人として為すべきことが緊急課題であり、絶対的な権利である」、と。こうした意味の革命が「人民」によって、あるいはサンキュロットによってけっしてなされたことではなく、それは「首都のプロレタリアート」よってのみ可能となった。マルクスは『フランスの内乱』で利用しているように、エンゲルスによってコミューンを初のプロレタリアート独裁と同一視した基礎を提供したのはこの檄文である。

 概して現存するコミューン史料の大部分がこの種類の「プロレタリア的」言語を用いていない事実は多くの同時代人の参加者でマルクスとエンゲルスのような当事者性をもたない宣伝家たちや、あるいは後世の歴史家がその当時、コミューンのプロレタリアートの蜂起であると信じていた事実を改めるものではない。技術的にプロレタリアの階級意識の存在がこのようにコミューンを1789年のフランス革命、1830年、1848年の革命から分かつ要素であった。

 この新しい要素をどう説明したらよいのか? 特殊的にそこに何も問題がないように見える。すべての人が知っているように、1840年代に始まる離陸点をもつ産業革命は第二帝政期に加速化した。マルクスとエンゲルスはしばしばプロレタリアをさまざまな方法で定義した。そして、その方法は彼らのめざす目的との整合性があり、『共産党宣言』とその後における著作、特にエンゲルスの著作から見ると、彼らが革命的プロレタリアートの階級意識の付随的な興隆である。エンゲルスは『フランスにおける階級闘争』の1855年版序文の中で以下を確認する。「経済革命が大工業とフランスに真に根づかせたのはようやく1848年以後のことである…。」

 われわれが知っているかぎり、諸事実がこのような単純な経済的解釈を許さないことが問題なのだ。じっさい、利用しうる幾つかの統計によれば、この地域においてわれわれがふつう用いる快適な仮説の対極を意味するように思われる。

p.20   1932年、フランスの経済史家シミアン(Simiand)は1856~71年の間にフランス総人口の工業従事者のパーセンテージは上昇したにとどまらず、じっさいはかなり低下したという。つまり29から26%に低下したことを指摘する。さらに、1866年の300万から1872年のは250万以下となる。注意に値することは、これらの数値はフランス全体のものであり、それらの意味するところは究明さるべきことである事実だ。だが、パリに関して問題はない。その筋の権威はル・クルーゾ、リール、アルザスのような地域を襲った工業化は首都を素通りしたことを認める点で皆、一致している。「工業化は19世紀の4分の3世紀中に大いに進行したが」、とマルクス主義者フランク・イエリネク(Frank Jellinek)は1937年にコミューンに関する論説の中で書いた。「パリの労働者は依然として大いに職人的であった。大規模工場制の条件によって組織された階級意識はどのプロレタリア階級も職人ももっていなかった。」

 もう一人のマルクス主義者アンリ・ルフェーブルは1965年、最近のソヴィエトの業績に基礎を置きつつこう述べた。「約10%のパリ労働者の語の正確な意味でのプロレタリアートを構成しており、職人的ないしは職人的な分業ではなく大工場で働いていた。

 それにもかかわらず、おそらく真のプロレタリアートの10%はルフェーブルが他の箇所で言及しているように、コミュナール蜂起において主導的役割を演じ、したがって、われわれはマルクス主義的解釈の正当性を救えるように見えるかもしれない。だが、そうではないだろう。1964年、フランスの研究者ルージュリはコミューンに参画して捕らえられた36,000以上の虜囚の資料に関し統計的処理をおこなって公刊した。ルージュリの結論はこうである。「コミュナールは平均的パリ市民で … あるように思われる。その平均年齢、職業、おそらくはその平均的出自により叛徒は大部分がふつうの住民の非常に緊密なイメージの反映である」、と。「語の現代的意味での大規模工業はパリではまだほとんど存在しなかった。」「最新のパリ金属工業でさえ ― その労働者は確かに蜂起行動面で傑出していたが ― 主として小さな、ないしは中規模のものであり、… 旧タイプの産業に近似していた。」

 パリ第18区に関するロベール・ウォルフ(Robert Wolf)の最近の研究によれば、全体的一致を確証するのみである。工場、鉄道、ラ・シャペルの機械工場にもかかわらず、ウォルフは結論づけている。「第18区全体のほとんどすべての労働者は工場労働者というよりもむしろ旧伝統的タイプの職人であった。」「1870~71年の革命運動は p.21 ラ・シャペルのプロレタリアに対してよりも、モンマルトルの職人に対してより多くを負っている。」

 これはすべて錯乱的である。1871年のパリの社会学は1848年のパリのそれに類似しているばかりでなく、それは1830年と1789年におけるパリのそれとわれわれが考えている以上に類似している。グルネル地区のカイユ(Cail)金属工場とルフォシュー(Lefaucheux)の武器工場はそれぞれ2千人以上の労働者をかかえており、その鋳造工場の修理工場でもって職人的、小ブルジョア地域での新工場世界の島として傑出していた。

 アンリ・ルフェーブルはこの種のアプローチを「純真なる社会学」として放棄してしまった。しかし、むろん、純真なる態度はマルクス主義のカテゴリーをあまりに生真面目に受け止める歴史家にも当てはまる。コミューン参加者ないしは19世紀半ばのフランス人は全体的にプロレタリアート(prolétaire)という語を使うとき、彼らはマルクスやマルクス主義者とは異なった意味でそれを用いているのだ。

 バブーフがその用語を1790年代に1、2度用いたが、それを1832年のより近代的政治の語彙に導入することで使ったのはブランキである。その年の政治的裁判が始まったとき、陳述を求められたブランキはこう答えた。「プロレタリアート … その労働によって生計を立て、政治的権利を奪われている約3千万のフランス人の階級」である、と。

 われわれがマルクスの見解よりも、もっと正確に彼の同時代人のそれを反映しているように思える現代階級闘争のより完全な定義を見出すのは1852年におけるブランキの書簡中においてである。

 「中産階級とは一定の富と教育を受けている大部分の個人、つまり金融家・商人・地主・法律家・医者・官僚・金利生活者を含む。これらすべては彼らの収入や労働者の搾取で生計を立てているのと対照的に、これらに、富はあるけれども教育のないかなりの数にのぼる地主たちを加えると、最大約400万にのぼるであろう。残りが3,200万のプロレタリアートであり、彼らは財産をもたないか、たとえもっていても僅少であり、その手の生産物により生計を立てている。厳しい戦争が起きるのはこれら2種類の間においてである。」

1871年のパリにおいてプロレタリア的階級意識があったとすれば、それはブランキのプロレタリアに属する意識であって、マルクスのそれではない。それらは明確な区別のない職人・労働者・工場労働者・貧農などを含む。そして、本質的にこれはプルードンのプロレタリアであり、ルイ・ブランのそれでもあった。

 しかし、ここにわれわれはまた逆説に戻る。なぜなら、ルフェーブルが指摘したように、この階級の根本的生活スタイルは第一次フランス革命時に祖父たちのそれとほとんど相違がないからだ。パリの大部分においてなおまだ普遍的社会的成層 ― p.22 1階~4階を占めるブルジョア、5階を占める職人階級、屋根裏部屋に住む召使にいたるまでの ― が存在していた。第二帝政期の大規模小売店の魁となったボン・マルシェ百貨店が開店したにもかかわらず、消費者社会はまだ確固とした根を張っていなかった。パリの労働者は依然としてサンキュロット的な慎ましやか生活をしており、所有の点では見るべき財が少なく、ほとんどがカツカツの生活状態にあった。彼はその身なりからブルジョア階級からすぐに区別された。しかし、今や、彼を富裕階級から識別させるものはジャンパーと庇付き帽であって、綿製ズボンやストッキング・キャップではなかった。

 1793年と同様、1871年にも労働者は親密な集団生活を送っていた。市場でも居酒屋でも、街路でも、市の公共的場所でもそうであり、そうした人生はウジェーヌ・シュー(Eugène Sue)の犯罪小説の社会の表でくり拡げられた。

 とはいえ、確かに何かが変わり、または変わりつつあった。第一に、以前と較べて、より多くの労働階級のパリ市民がいた。180万以上の住民のうち、おそらく75万人が労働者ないしその被扶養者であった。さらに、パリの社会地理学はオスマンによる都市大改造計画の結果として変貌しつつあった。都心部の旧労働者街区は空っぽとなり、今や新たなほとんど労働階級より成る郊外の周辺部に居住区が成長しつつあった。それは特にパリ東部、つまり、ラ・ヴィレット、ベルヴィル、シャロンヌ、メニルモンタンにおいて拡がっていた。国民衛兵の区ごとの編成のせいで、これらのディストリクは1870年にはひどくプロレタリア的性格の大隊を徴集することができた。その要素は1871年の事件において非常に重要性を帯びることになる。