E.ソレル著「教科書の中のコミューン」 | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

E.ソレル著「教科書の中のコミューン」

Etyn Sorel,  La Commune dans les manuels scolaires

 

p.121

  「経験せよ、諸君の子女が1971年の今、手にするところの歴史のマニュアルを開いてみよう。そして、コミューンに関して語られている事項を見よ。諸君はそれを見て驚きを覚えることだろう。数十年前にそこに見出されることと較べれば、それはなんでもないことだが。」

 

 学校のマニュアル(教科指導要領)に関する研究はけっして褒められることはなかろう。20年以上に達するマニュアルは見つけるのに容易な資料である。にもかかわらず、これら資料ほどよりよく保存されることはない。実際のマニュアルについていえば、だれもそれをすべて知悉すると自慢できる人はいない。

 この作業は情報の最大限をもってなされた。古いマニュアルのほとんどは国立教育院に見出されるが、同院は非常に多くの書物約300点を保蔵している。けれども、それらを系統だてて書庫に収蔵する場所がない。われわれは特に最も古い書物の検索のため相談にのっていただいた援助について、国立教育研究所の資料館のフロポ(Fropo)夫人に謝意を表したい。

 したがって、1959年までに編纂されたマニュアルの引用は例外を除いて教育研究所の収蔵図書に依拠している。さらに、現在使われているマニュアルの問題がある。特に1960~62年版は常に教育施設で使用されている。

 

 第一の証拠(1873年)

「フランスは、その不幸の結果ではない。すなわち、内乱がこれである。わが兵士らが祖国防衛のために血を流しているというのに、幾人かの哀れな連中は暗闇の中で最も恐ろしい陰謀を企む。『インターナショナル』がこれに当たる。久しい前から一つの社会が雇用者の要求に対抗して労働者を守る目的で結成された。インターナショナルは … 人道主義という外観のもとに社会全体の転覆を夢見た。この強力な結社はパリ市内でかなりの権勢を擁し、それを蜂起の方向に駆りたてた。

 嘘で塗り固められ盲目となった労働者たちが、正義を語る無頼漢たちと合流した。パリはその真只中で胸に負うべき悲しい特権をもつ。

 陰謀家たちがその罪深い計画の実行にとりかかったのは、このような要素と一緒だった。弱められ、防御手段をもたないフランスは彼らの恰好の餌食となるように思われた。彼らはその罪深い野心を堪能させるために好機を窺っていた。

 10月31日、彼らが仕事にとりかかるのが見られた。だが、彼らの試みは成功しなかった。

 3月18日、彼らは大量の武器と弾薬を入手するべくプロイセン軍の占領を利用した。このような状況は長くは続かなかった。3月18日、… 心をとり乱した幾人かの兵士たちが叛乱側に付いた。…パリは叛徒たちの手に落ちたのだ。p.132 … この容易な勝利は卑怯極まりない暗殺事件に血塗られることとなった。クレマンおよびトマ両将軍は悪漢の群れの力の前に斃れたが、彼らは何らの理由告げず、判決もなしに銃殺された。

  地方での騒擾

 地方の幾つかの都市がパリの実例に倣おうとした。だが、住民の良識はほとんどの場所で罪深い企図を挫折させた。

 

コミューンの行きすぎ

【コミューン】

だが、勝利を収めたコミューンはその要求を強めた。征服が問題なのはもはや都市の解放のみにとどまらない。パリがフランスの残りにおいて樹立された通常政府に服従することなく、自由に統治するという自由であった。指導者たちは多数いる。その幾人かは外国人ですらある。相互的に正当な軽蔑心で満たされているため、彼らは僅か1日たりとも、彼らがかくも熱心に望んだ権力を保持するために代わる代わる非難しあい共倒れとなった。やがてコミューンはもはやその社会主義的思想を包見隠すことをやめ、そして、最も厄介な措置を講じた。つまり、総動員、最も厳しい強制徴発、公金庫の略奪、家宅捜索、教会閉鎖、新聞発禁処分、最後にパリ大司教ボンジャン(Bonjean)、一軍の聖職者、名誉あるその他の人々が人質として幽閉された。テロに驚愕した人民は大挙して逃亡した。5万人以上の住民が首都を去った。

【コミューンの行きすぎ】

敗北に怒り狂ったコミューンは前代未聞の行きすぎに身を委ねた。ヴァンドームの円柱。同盟したヨーロッパに対しての、われわれを滅ぼしにくる敵に対するわれわれの勝利のこの証拠たる円柱は恥ずべき戦利品として倒壊させられた。ティエール氏の私邸が壊された。その穏健な行為、その勇気、その勢力によって、フランスを破滅から救出したのち、無政府状態からフランスを救ったこの人物に対しておこなわれた愚かな復讐。

だが、これらコミューンの最後の痙攣はわが正規軍の躍動を押しとどめなかった。

【パリの大火災】

 連盟兵にとってあらゆる希望が失われたとき、これら哀れな連中は悪行中で最も忌むべき行為を永遠のものとした。彼らの騒擾が彼らから免れたのを知るやいなや、彼らはその獲物と一緒に滅びることを欲した。彼らの仲間が町の中心部を石油で放火していく一方で、彼らはわが主だった記念物に火を放つ。これら記念物に火炎瓶を投じたのである。… コミューンが倒れたのは瓦礫の山の真只中においてだった。この呪うべき制度は社会と家族の無力化以外の目的をもっていなかった。

 わが軍兵士の勇気と権力が最も大きな惨禍から国を救った。かくて、都市全体が破壊に仕向けられた。

 【64人の人質の殺害】

 牢獄から牢獄への引きまわされたコミューンの不幸な人質たちは死にいたる運命に遭遇した。不幸にして攻撃があまりに迅速であったため、彼らの獲物の大部分を死刑執行人から放免させた。だが、ダルボワ(Darboy)大司教や司祭長ボンジャン(Bonjean)、そして62人の他の聖職者を救うには間に合わなかった。彼らがコミュヌーの怒りの犠牲者となった。このことはこの恐るべき戦争の最後のエピソードとなる。

 フランスは10か月に及ぶ恐るべき試練を蒙ったのち、ようやく息を吹き返した。

 【1873~1970年】

 多くのことが変わった。単に語彙のみではない。過去20年前からより客観的となった。しかし、中身は今日、1873年の上記テキストの相当物を得るためには幾つかのマニュアルの抜粋を巧みに付きあわせなければならない。だが、このテーマをまとめておこう。われわれはこの過激な文体を奪われてもなおまだ長い間それらを見出すであろう。

(1)1870年の戦争で弱体化したフランスはその不幸の極みにいるのではない。もっと苦しい試練がなおフランスを待ち受けていた。

(2)わが兵士らがフランスのために血を流している間、力あるインターナショナルが防御手段をもたない祖国に対する陰謀を企んだ。

(3)陰謀家たち、無頼漢や外国人さえもが野心を剥きだしにする。つまり、権力を狙った。彼らは盲目的な労働者と叛乱した兵士を率いる。

(4)「コミュヌー」の目的 

a)正規政府に対して服従をやめること、

b)社会と家族を無力化する制度を樹立すること

(5)コミューンの治績。テロ、殺人行為(ルコントとトマ両将)

 <理由なくして殺害された人々、盗奪>

 ・ヴァンドーム円柱の倒壊

 ・パリの拡大

 ・人質殺害

(6)遂に息を吹き返したフランスの救世主ティエール

 

70年代のコンテクスト

 これらのテーマは時代の市内階級のイデオロギーを完全に反映する。1873年は、まだ権力の座にあったティエールが権力を「道徳秩序」にまさに譲らんとして、あるいは譲渡した直後にあたる時代である。フランスは遂に息を吹き返したとしても、保守的カトリック的な大ブルジョアジーは1871年春の大恐怖の思い出をなおまだ残す。そして、キリスト教的価値観の復興を望み、「正規政府」「社会と家族」のスローガンが街中を飛び交う。外交面で大ブルジョアジーはドイツに対する奥深い排外主義(アルザス=ロレーヌ割譲)でもって生き返る。教師、生徒のどちらも支配階級の直接の出自である。学校のマニュアルは義務的ではなく、ある時は先生の参考書として、またある時は生徒の単純な読みものとして理解された。同じ版が公私の教育のためにつくられる。マニュアルが支配階級のイデオロギーを恒久化し、名士たち、開かれた王党派もしくは保守主義的共和派の利害関係をうち固める。

 1873年以降、著者たちがコミューンに投げかける眼差しはたびたび政治的コンテクストに応じて変化した。テーマの発展は直線的なものではない。一方では後方への回帰もあり、また、結果はそれにもかかわらず、支配的イデオロギーによってコミューンへの回帰と同じようにゆっくりした回復であった。

p.133

世俗的学校から世俗的国家へ(1882~1905年)

 1882年、現代史は公式に小学校のプログラムに導入された。上級学年(11~13才)におけるより深化された研究が1887年の省令によって準備された。マニュアルは1890年に義務的となった。

 発展しつつある反対派(特に右派)を妨げるために国家は共和国に敵対的なあらゆる妨害を禁止した。一定数の書物、中でもギュスターヴ・エルヴェ(Gustave Hervé)の書物は教会の傾向にまさしく反対する傾向があるため、発禁処分に付され、今日では見出すことができない。だが、当時のマニュアルの正確な思想をかたちづくるのにこの期間を考慮に入れる必要がある。

 合法的な書物の中身は他のところでも変化している。

 

【終わり】