M.ルベリウー著「小説・演劇・歌謡;どんなコミューン?」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

M.ルベリウー著「小説・演劇・歌謡;どんなコミューン?」(その2)

 

 世紀が変わると、発展は少しばかり緩やかになる。特にコミューンの歌に関してはそうだった。他の諸事件が歌手の注意を惹くようになり、多くのコミューン詩人が死ぬ(ポティエは1887年、クレマンは1903年)と、新人―モンテリュ(Montélus)が代表格―との世代交代が進んでいく。ロマネスクの略歴がコミューンにより多くの安定性を与えた。小説にとっては大きな大砲の時代を迎える。ポール&ヴィクトール・マルグリット(Paul et Victor Margueritte)兄弟、マクシム・ヴィヨーム(Maxime Vuillaume)、リュシアン・デカーヴ(Lucien Descave)、ポール・ブールジェ(Paul Bourget)など、つねに多数現われ、尽きることがなかった。最後に、演劇界において反コミューンがまかり通っていたメロドラマはしばしば使い古され、しばしば細微化タイプの真只中にあり、終いに斜面を跳び越えた。だれがそれを信じたのか? クサヴィエ・ド・モンテパン(Xavier de Montépin)は常に鋭敏さを失わなかった。『サン=シュルピス寺院の女乞食』においてコミューンは火災の中に置かれる。

 第一次大戦前の10年間に関しては、タロー(Tharaud)兄弟やリュシアン・デカーヴの『老人の中の老人』がつねに再版を重ねたものの、この期はしだいにコミューンから遠ざかりつつある10年となった。p.279 CGT(フランス労働者総同盟)やDFIO(フランス社会党)に関する新たな考察はコミューンのまわりでは組織されなかった。民衆間の熱狂の継続を証明する労働者の暦は記念日に際して昔の歌を歌うことであった。一方、演劇界は何と対照的なことか! 8年の間に8篇の劇作が生まれ、それらはしばしばおもしろいもの、中でもマラト(Malato)の『パン島Ile des Pins(ニューカレドニア)』、グレフロワ(Greffroy)の『徒弟L‘Apperentie』、デカーヴの『血抜きSaignée』 などがそれに入る。このような多作の要因は景気変動に関係する。検閲委員会は1906年に廃止された。同委員会の圧力が最後まで最も重くのしかかっていたのは演劇分野であった。

 ところで、現象全体を見定めるために、第三共和政の最盛期にたち戻ろう。われわれが検討する時期のこの事件の文学的置換はこれらの現象と衝突した。

 私は2つの留意点を予め示しておきた。劇作家・小説家・作曲者・作家は、彼らが呼び覚ます事件の足跡から筆を起こす。多くの者は目撃者または役者であった。フランソワ・コペ、マルグリット兄弟、ジョルジュ・ルナール、リスボン大佐らは皆そうである。また、マラトのような作家はコミュナールの息子である。作詞者にとってポティエ、クレマン、シャトラン(Chatelain)からアンリ・ブリサック(Henri Brissac)、シャルル・ケレル(Charles Keller)の名などがひしめきあう。1871年に関与しなかった者すらも、コミューンに関してと、コミューンが惹き起こした苦悶に関して己が後退していることを忘れた。

 第二の留意点。歴史小説に関するG.リューカク(Lukacs)の著名な分析からそれを借用してみよう。第一次大戦の真只中で執筆された『小説理論について』から1936~37年の冬に書かれた『歴史小説』までリューカクはこのジャンルの変遷の歴史を掘り下げた。このジャンルの誕生はブルジョアジーの政治的上昇に関係し、19世紀の発端に位置する。19世紀前半は歴史小説の「古典期」であって、ブルジョア小説家は歴史と絶えざる関係を保っていた。ウォルター・スコットからバルザックまでの歴史的変遷は楽観主義が占めた。1848年の革命は特にフランスでこのジャンルの上昇を止めた。すなわち、ブルジョアジーは抑圧側にまわったのだ。彼らの眼を通してみると、歴史は楽観主義と固有の偉大さの使者であり、社会的恐怖が自由主義的なブルジョア作家の進路を塞ぎ、彼を取り囲み、彼に先んじる者を理解するのを妨げとなった。この誘惑は彼にとって歴史をひとつの装飾物に矮小化するほど大きかった。

 それ以降、過去から相続した観衆の重みに驚く必要はほとんどない。観衆は反コミューン派の作品だけでなく、コミューンおよび革命的諸説に共感を覚える作品の上にも重くのしかかった。検閲委員会にかけられた35篇の作品と1905年以降の作品を読んだジョゼット・パラン(Josette Parrain)は演劇観衆がまったく打倒されていないこと、技法と舞台の場面の観衆的性格を見て驚いている。もちろん、原文もそうした運命と分かちえない。最後に、マクシム・リスボン(かつてのコミュナール大佐)のみが真に刷新した。1883年の拒絶された『ルブレン家 La famille Lebrenn』の後、彼は1884年から1889年の間に一種の連続ものの芝居を上演した。それは一種の想定外の出来事(happening)であり、活劇であり、クリニャンクール大通りの酒場でのコミューンのエピソードでもあった。マルティル(Martyrs)通りやランビュトー(Rambueau)通りの寸劇だった。この例外は一般規則を確認する。

 この一般規則は同様に多くのコミューン小説を支配する。数多くの「必要なシーン」もそうだ。9月4日、3月18日、3月26日、ドレクリューズの死など。… 俗化はもう一つの次元をもつ。包括的な筆致、伝統的ナレーションの構成に依存するために疑似自叙伝風の「私」からは逃れられない単調な物語スタイル。… たとえばゾラ(Zola)の『ジャック・ダムールJacques Damour』)、アナトール・フランス(Anatole France)の『ジャン・セルヴィアンの願望 Les Desirs de Jean Servien』、デカーヴ(Descaves)の『円柱』がそれである。

 最後に歌謡についていうと、その文章構成はその語彙と同様、そして究極的にそのイデオロギーは伝統的なままにあった。それらは無数にある。旧制度の歌の調子で語られる望郷の念、流浪の悲歌、兵役や「出版規則」に抵触し家族や故郷から切断された兵士の哀歌を謳ったもの。たとえば、1879年のクロード・デュプレ(Claude Dupret)の『流刑囚の妻』に耳を傾けてみよう。

 不幸の淵で嘆き悲しみたまえ

 可哀そうな妻とそのひ弱な子供らよ

 父の仕事がなくて飢え死にするのか?

 

あるいはリュドヴィック・ブラジエ(Ludovic Brazier)の『完全なる恩赦』(1880年)。

 家族から遠ざかった日々がどんなに長いことか

 愛する存在から家庭の歓びから遠ざかり

 私はついに私の娘に逢いたい

 

そして、詩文はこんな調子で50行も刻む。人道主義的伝統も同様である。『人民のラ・マルセイエーズ』の伝統も1848年の普遍主義者の語彙において表明される。1872年11月の『幸福の権利』を例に引こう。

 助けもなくわれわれは叫ぶ

 普遍的な沈静を

 雑草の生い茂る鉄塔のうえに

 友愛の仕事場を築くのだ

 

 だが、時代によって、そしてしばしば文化的伝統を引き継ぐ人間たちが集まる社会層に課された集中が何であれ、文化的伝統が等質でないことは否定できない。同一表現法の内部にも異質性が存在する。だが、ここで私は、一般に認知されているジャンルの間に現れた不一致のみに限定したい。私の見るところ、演劇の遅れは近くからにせよ遠くからにせよこの時期においてコミューンを呼び覚ます作品に固有の傾向であるとは思われない。なるほど世紀が転換すると、夢想つまり計画、「民衆劇場」の実現、1895年、モーリス・ポテッシェル(Maurice Pottecher)により創設されたビュッサン(Bussang)劇場、公民劇場 … が増える。ウジェーヌ・フルニエール(Eugène Fourniere)ロマン・ローラン(Romain Rolland)、フィルマン・ジェミエ(Firmin Gemier)らがこのテーマで執筆する。社会主義者の側でも新聞が普及する。『小共和国』『民衆に文化的遺産を開くこと』など、戦闘的行動のために演壇として舞台を利用すること、いずれにせよ、このような企てはコミューンの対象の完成に導かなかった。試みのほとんどすべてが失敗に終わった。国民文化のなかで演劇ほどに硬化した分野は珍しい。少なからず検閲がそれに関与している。検閲はめったにないことだが、原文の意味そのものを損なってしまう条件で許可されることがあった。1887年のアントワーヌ(Antoine)劇場のためのジャック・ダムールの作品がその実例を提供する。… 1905年以降の作品。コンタリオ劇場でのジュフロワの『徒弟』は特に1908年のオデオン座で大成功を収めたが、非常におもしろい。p.282 しかしながら、思うに、検閲を超えて演劇の硬化現象を理解するためには、現代のためにまだなされなかったこと、すなわち、劇作法と社会の貢献に貢献した討論会の枠内で19世紀に利用された手法をもっと凝視し利用する必要があるだろう。後者についてはダニエル・ロッシュ(Daniel Roche)が最近、『歴史評論Revue Historique』で報告している。

 小説はどうかといえば、検閲を免れた。監視度合いが小さかったとしても、検閲の危険が少ないと考えられていたわけではない。18世紀は検閲はあらゆる文書、特に常に異端の疑いがある宗教文書を狙っていた。19世紀にはコントロールの必要だったものは集団的注視に服したテキストである。演劇から街頭への通り抜けは常に可能であった。いずれにせよ、小説は依然として恐れられていた。なかでも最も有名なのが明らかに1830年8月25日、ブリュッセルのモネ(Monnaie)劇場で上演された『La Muette de Partici』である。コミューンの出現が直ちに追従者をもつと考えられたのは劇場だった。革命! 学校によってある程度俗化された朗読の行為は、反対に、振る舞いを個人化し、爆発を抑える。書物の価格もまた、私の見るところでは第二義的である。なぜなら、それはまったく区々だからだ。一方、演劇のほうはしばしば高価である。しかし、抑制は単に外からのみ訪れるのではない。問題はだれが書くかということ、コミューンに参画したこれら同じ作家のなかでも(ヴァレスは完全な例外、デカーヴの『フィレモン(Philémon)』は後に演劇化されて『悔し涙Le Chagrin et la Pitié』も同様)彼らがその弟子までもつ古典的教訓は創造的イニシアティブを制限する。1871年を想起させることは、ロマネスクなナレーションを利用する以前のあらゆる書きものの重みにより屈折させられる。したがって、ブルジョアジー ― 小説を書くのは彼らである ― はたまたま彼らが革命的事実に敵対的でないときでさえ、それを真正面から受け止めることができなかった。これゆえに、コントやルポルタージュが生まれた。さらに、これゆえに小説家はたいていの場合、陰険な眼差ししか向けなくなる。この見地から、異なった意味でおもしろい小説リシュパン(Richepin)の『セザリーヌ』を探求することができよう。ロマネスクの伝統はコミューンをロシュフーコー(Rochefoucauld)が太陽や死を借用する規約に減じるものである。

 事件の最も刷新的な置き換えを利用したのはまちがいなく究極的に歌謡である。それは公衆の流動性であり、非常に柔軟な法典化のゆえである。これらは大学により管理されることはなく、新規なものに容易に順応していく。p.283 たいていの場合、区分できないほどにその作者は構成にとらわれず、明瞭に「異議申立人」の張本人であった。ポティエ、クレマン、アルマン、その他らがそうだ。歌謡の中に歴史文学の新しいタイプの出発点を見る必要があるだろうか? 戦闘的文学 ― そこにおいて作者はこれら2つの「国民」― リュカックによれば、1848年の炸裂はロマネスクの伝統をうち破った ― の1つを選ぶのだ。

 いずれにせよ、戦闘的歌謡は社会主義運動の誕生、血の1週間の大虐殺が減じることができなかった革命的世論の強化を細かく追跡する。そうした歌謡はコミューンをくり返す以上に政治的・社会的プロパガンダを倍加する傾向にあった。それは労働者的、むろん共和主義的運動の発展 ― その社会意識はとりわけ経済不況時に大きくなるが ― を特徴づけるブルジョア共和制との分離過程において地歩を固めていく。たとえば、コミューン当時の歌を支配していた傾向は年とともに1789年、1793年の参照から遠ざかっていくのが見られる。『出征の歌』『ラ・カルマニョル』『現代主義者シャルロット』などは次第に文倉の鍵として、1871年に続く20年間のコミュナール歌謡による指示的歌謡と受け止められることが少なくなっていく。語彙そのものも屈折していく。「聖なるゴロツキ」「崇高なる平等」のような語は以前はまだしばしば用いられた1793年の語彙に属したが、しだいに使われなくなり、人はコミューンのために献じられた戦闘的叙事詩の影響を認めることができる。時が経つにつれてこの詩でもって歌謡は1848年の遺産を超えたにとどまらず、コミュナールの全部とまではいかなくてもコミューンの幹部の大多数が明確に要求した事項をも超えていく要求を公式化するようになる。かくて、労働の道具や果実の集団的所有がこれにあたる。歌謡のおかげでコミューンの文化的解釈は事件の評注が激増していくことになる。したがって、歌謡が歴史家において刺激を与える特殊な利害関係は一定数の史料がわれわれに与える社会的適格性からのみ由来するのではない。それにとどまらず、過去遺産の間で歌謡が確立した特権的なこの橋からも渡ってくる。