J. S. ウッド著「小説の中のコミューン」(その3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J. S. ウッド著「小説の中のコミューン」(その3)

 

 『憎悪の舗石』も同種の性質と欠陥をかかえている。『壁』と同じように、この小説は数多の史料を利用しているが、歴史的観点からいうと、それほど完璧な出来栄えではない。なぜというに、著者トゥルードはヴァレス、リゴー(Rigault)、ピカール(Picard)などのコミューンまたはヴェルサイユの議会の議員の人となりをまったく的確に描いているにもかかわらず、幾つかの出来事を重視しすぎるせいで、別の条件を軽視する誤りを犯しているからである。ヴァレスやリゴーの描写は、われわれがもつ小説のなかで最良のものである。その代わりに、ひとつの愛情物語が、ある種の強迫観念のように行動を縛る。明らかにわれわれはその中にまた勝利を見なければならない。勝利、しかもプロレタリアートの勝利、百年前の悲劇に終わったコミューンが遅らせるだけに終わった民主主義的なこの圧力の聖別を経験しなければならないのだ。というのは、階級という障壁は破壊されたからである。主役のコミューン議員ジョルジュ・バロンとジャンヌ ― 出自は富裕なブルジョアジーの寡婦で、この物語の冒頭において或る貴族の愛人となっている ― はあらゆる困難、あらゆる不幸を乗り越えて愛しあう。ジョルジュが流刑に処せられても、その愛はまったく変わらない。彼は生きつづける。彼は1879年9月13日に流刑地から帰還する。ジャンヌは彼の帰りを待つ。2人はコミューンの全期間中、日常の下劣な行為のうえに2人を狩りだした忘我状態を再発見にいく。

 それにもかかわらず、これらすべての作家たちにおいては多少の差異こそあれ、くり返される幾つかの要素が存在する。彼らは真実を見つめ、その真実の中から小説家として彼らを特徴づけるイメージを引きだす何らかの方法をp.78 心得ている。想像がその権利を主張し、われわれはこのことをヴァレスにおいて認めることができる。マルグリット兄弟の場合、それはいかに控えめであろうとも、彼らはテドナを通じてわれわれに示す。テドナはリュクサンブール宮を見下ろす彼のアパートの窓から「3度目の夜を迎えようとするこの奇妙な発光」を凝視し、そして、彼は天を仰ぎながらこの「野蛮な閃光」や「パリがかつてあったものから血の泥沼の火山…により崩壊するもの」へと、ヨーロッパ世界から眼差しを転じることを考える。」同じく光に包まれたように思われる7月の円柱は「服喪の巨大な松明」のように思われ、それは「この欺かれた人民の苦悩をその赤い反映において照らすのである。」モンテギュ自身もまた、「壊滅した革命と、まさに死なんとしている町の上に伸びる葬列の松明」によって、さらに人間的不和よりもより高く不滅の神に向かってなびく「自由の神が煙の彼方に現れること」で驚かされた。

 トゥルードにおいては詩的高尚さへのこうした傾向はさらに明確なかたちをとり、さらに人為的なものとなる。一つのパラグラフ、および一つの章が終わるたびにトゥルードはわれわれに一片の上品さをふるまう。トマとルコントが射殺される。僅か1日で旧秩序が一掃された。かくて、新しいシテをつくらねばならない。ところが、「太陽は隠れる。一陣のそよ風が突然の冷風に成り変わる。しかし、生活は依然としてつづき、寛大であるとともに冷笑的な町のこめかみに若き血潮を湧き立たせる高揚を継承する。」一章の終わり。夥しい数の群衆が、4月3日の出撃戦において殺害された国民衛兵の葬列の後を付いていく。彼らは意気消沈しているのか? まったくそうだ。「ペール=ラシェーズ墓地まで、パリを横切って寡婦・孤児・両親・友人・兵士など尊敬と正義に飢えた無名の軍団が、当然の苦しみの国境の彼方に強靭な希望のシンボルとして自発的に一致して首都の寛大な血のリズムを刻む。」

 しかし、この面における巨匠はゾラである。この仕事は彼にとって代わるべきである。『大潰走』のプレアド版を通じてコミューンに関する部分の僅か40ページ分しかないにもかかわらず、そうである。これは感動を提供する要約である。3月18日~5月28日の最も際立ったすべての事件が示されるが、関心の的はそこにはない。3月18日、モーリス(Maurice)が回顧的に物語るこの日は2人の主人公を邂逅させる機会となり、ゾラをして彼らを別れさせる深淵を暗示する。ゾラが3月19日から4月2日までの「それに引きつづく日々」と呼ぶ期間はたった数行で片づけられる。4月3日も同様である。ゾラに先んじてミッテランとファケが記したように、一方の側におけるスダンと軍事的敗北の演出と、他方の側におけるコミューンの演出との間に不均衡と不釣り合いがある。ゾラはヴェルサイユ軍の蛮行をけっして縮小することはないにせよ、コミューンに対して敵意を隠さない。けれども、彼の意図はコミューンに関する小説を書くことはない。彼にとってコミューンは第二帝政の悲劇の終幕を描くことにほかならなかった。

p.79   彼が世の終わりを再現するのは一連のドラマチックな幻想においてでだ。炎上するパリの陰鬱な背景の前で一人のヴェルサイユ兵が一人の連盟兵を傷つける。これはジャンとモーリスの2度目の邂逅である。サン=ドニ〔訳注:パリ北郊の都市サン=ドニ〕でオットーはアンリエットによってパリ全体が炎上していることを知らされる。これはイメージとシンボルが重なりあう映画的に広大な透視画である。「今や全地平線が火に包まれている。… 大火がまるで行進するかのように、そして、巨大な森がそこにおいて樹木という樹木に火が放たれたかのように。」日は水の流れのごとく移動する。「とつぜん生じる焔の洪水は絶え間なく盛り上がり、坩堝の中で渦を巻くかのよう大空いっぱいに溢れる。」この「火の海」の「白熱の大波」、薄黒い銅色の黒雲を形づくる煙から立ち昇る。そこから町の上に「灰と煤の極悪の俄雨」が降りかかる。アンリエットは「呪われた雷鳴のような首都の地獄の閃光」を見つめながら恐怖の叫び声を発し、オットーは「焔に包まれたバビロンの光景はこうと思われる恐ろしいお祭りで」眼をいっぱいにしていた。

 モーリスを安全な処に連れ出すための絶望的な試みのため、ジャンは櫓船でセーヌ川を下った。両岸で建物が燃えている。ゾラはこうした光景を利用した唯一の作家である。船そのものが火の川により運び去られるかのようだ。ゾラの関心は戦闘の細かい部分ではなく、専らこの2人の主人公に向けられている。セーヌの目を眩ませる明るさと対照的に、この隘路の向かう先には真っ暗闇が「真っ黒な広大さ」が、「無」が、「永遠の夜」が、「死なんとする空」があった。モーリスの逆上は火のシンフォニーに伴われた。大火災の光景は休みなくモーリスに襲いかかり、ほとんど有頂天にさせる。ふたたびイメージが盗まれる。

 最後に、これらの作家たちは語の文学的意味にあまりに関わりすぎたため、ヴァレスのケースを例外として、今度はなおも希望の感情によっても押し流される。まるで詩的逃避が堪えがたい現実を補いうるのか、あるいは補わなければならないかのように、モンテギュとトゥールドは『ジェルミナル』のテーマ、すなわち、死にうち勝つ愛に固執する。『コミューン』の珍しく抒情的なくだりの一節はルイとローズの愛を描く。ルイは5月6日、ヴァンヴ要塞で負傷した。ローズは彼と再会する。「刺々しいと同時に生温い空気が夜のあらゆる湿気、春の香気の流れとともに窓から入り込む。… 人生の永遠なる法が彼らを絡みあわせる。そして、単純に若さの勝利が、彼らの愛の忠誠が彼らの感情を抑制した。」血の1週間のうちに彼らは互いに胸に抱き合ったまま立った状態で死にいたる。彼らを撃った兵士は彼らの偉大な静けさのゆえに恥じ入る。『壁』においてファンシェット(Fanchette)はギヨーム(Guillaume)を介抱する。後者は傷ついている。両名とも15才だった。「彼らは愛しあう。残忍な事件からの乱れた逃走は彼らの親しみの情を強め活発にする。」p.80 ある爆発が2人を抱擁させる。彼らが目を閉じたとき、「危険は遠くに過ぎ去っていたが、しかし、抱擁は長くつづく。」『憎悪の鋪石』においてジョルジュはコミューンから生きて逃れた。「彼の人生は鎖において歌い、生きているというまったく単純な悦び、それは唯一の贈物であり、ジャンヌとともに唯一の希望、2人の愛は恐怖・死・苦しみよりもさらに強いものであった。」

 同じような希望の発露はこれらの小説の結末にも表われるが、『叛乱者』のみが例外に属する。これは公衆に与えられた一種の慰みであろうか? または己に課すことに執着する作家としての復讐であろうか? 『コミューン』の最終章においてテドナとポンセは悲劇的な終末を迎える。テドナはコミューンに無意識の進歩の道具を見る。共産主義を除去する必要があり、新しい倫理が必要であり、一つの正義の宗教が必要である。この進歩は不可避的に達成するであろう。この長編の小説は少々出し抜けな感傷を残して終わる。「2人とも目に見えない生気、永遠の労働を考えていた。」タロー(Tharaud)は2人の物語の中により良き未来の唱道者としての任を帯びた一人の風変りなアメリカ人を挿入した。モンテギュもまた楽観的な調子で結論づける必要性を感じる。その結果は不幸である。『壁』の最後のページではフランソワーズとタンシェットが残骸と不潔な臭いの真只中を横切る。彼女は愛する者の遺体を探す。腐った積み重ねられた遺体の中にフランソワーズは一つの指摘とマイヤンドリュの腕を見つけた。とつぜん2発の弾丸が飛んでくる。彼女らは雷に打たれたように崩れ落ちる。忽ち沈黙が支配する。これらのページを埋めるのはあらゆる恐怖である。ところで、彼が読者に一息を与える本書の残りの類を見ない最終の部分を紹介しよう。「数分間、この沈黙がつづく。次いでしだいに鳥たちは生き返り、安心し、また慣れる。そして、とつぜんに目に見えない歌い手の呼子に合わせるかのようにすべての声が再び起こり、耳がガンと鳴るような、褒めたたえるような、喉を押し殺し、生きる喜び、自由な空間、黄金の光、愛の自然、夏の朝 … 」『憎悪の鋪石』はほとんどインチキな作品である。それは、何某かの映画の「クローズアップ」を想起させる。そこにはピチピチした楽曲の助けを借りて英雄と女主人公が永遠の抱擁においてさえ2人の魂を結合させるのである。

 『大潰走』の終末は非常に優れている。ここでの象徴主義はスケールが大きく、不可避と思われるやり方で導きだれる。宗教的要素が本文に溢れる。火は清める神秘的な役割を演じる。モーリスはコミューンととともに死ぬ。彼は、パリないしは国民が苦しみを通じて救済を受けるようにするために身を捧げた犠牲の象徴となる。なおまだ燃え盛っている町の上に光線をなげかける夕日は、新しい希望と再生のための死者であり、そして、ジャンはモーリスとアンリエットを失ったために、モーリスが死んだ偉大な任務を十分に差し示すための人物となる。われわれは「異教徒的な」かつキリスト教的な神秘主義の真只中に放置される。p.81 コミューンは忘れられる。それは第二帝政の大敗北の荘厳にして詩的な結末である。これらの小説が「メッセージ」を提供するにつれて、これはゾラに例証される小説となる。「そして、最も慎ましく、最も悩めるジャンは未来に、つくり直すべき全フランスの偉大にして骨の折れる仕事に向かって歩みながら消え去っていく。」

 コミューンのこの「イメージ」、新生フランスがそこから抜け出していくような試練としてコミューンを見なそうとするこうした傾向は民衆の歌謡や哲学的思考の中に反映される。これはおそらく再生の神秘の集合的表現であり、すべての歴史の偉大な転換点に現れるものであった。

 

【終わり】