S.エルウィット著「団結と社会反動」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

S. エルウィット著「団結と社会反動」(その2)

 

 幾人かの労働者は、民主主義的な外観をもちつつ科学の祝福によって送りだされた古いタイプの家父長主義に対して動じなかった。景気後退、一時帰休、不安によって引き裂かれた北仏工業地帯の一つパ・ド・カレー炭田地帯の労働者はそれまではいつも帝政支持に票を投じてきた

 パリを別とすれば、リヨンは第一インタ―ナショナルのミリタンが強い影響力をもつ都市だが、ここでは共和派と社会主義者間に深い亀裂が最高度に顕著だった。マルセーユのアンドレ・バステリカ(Andre Bastelica)、ルーアンのオブリ(Aubry)などのインターナショナル支部の指導者は1870年2月、リヨンで数日を過ごした。彼らはリヨンの社会主義者の指導者アルベール・リシャール(Albert Richard)の努力を支援し、共和派から労働者を引き剝がすためにリヨンを訪れたのだ。彼らの主敵は共和派左翼である。なぜというに、労働者はバンセル(Bançel)やラスパイユ(Raspail)のような人物に引きつけられ、彼らこそ、その反宗教の急進的プログラムは社会的同意を欠いていて、われわれのいう結束力旺盛な張本人であったからだ。急進派は中産階級の利害を守るために労働者の選挙地盤を独占するために腐心した。彼らの新聞『リヨンの発展 Progres de Lyon』紙はブルジョア的特質をもって労働者に訴えかけた。オブリは警告を発する。「ブルジョア的急進主義との欺瞞的同盟によって諸君の伸びつつある力を妥協させてはいけない」、と。オブリの危惧はけっして憶測ではなかった。バンセルおよびラスパイユのプログラムの中に深くねざす社会問題に関するこのような所説を見出す。「思うに、社会問題は政治問題と一緒に考察し進めなければならない」(バンセル)、「世俗、自由、義務的教育の手段によって組合の結成によって社会におけるあらゆる階級を和解させよ」(ラスパイユ)

 奇妙なことに、バステリカはマルセーユで「教育同盟」の活動を積極的に展開した。アルザス起源のこの「同盟」は同地方のブルジョアジーによって買収されたが、彼らこそ、バステリカの「自由主義的二枚舌」を非難した張本人である。リヨンでの「教育同盟」の創設者の一人シャルル・ゴーモン(Charles Gaumont)は労働者のための「実業教育学校」の設立を監督した。その資金はアルレス・デュフール(Arles Dufoul)、ウジェーヌ・フロタル(Eugene Flotard)、アンリ・ジェルマン(Henri Germain)など、リヨンの上層ブルジョアジーの中心人物が提供した。オブリが警告を発した「ブルジョア急進派」の一人、ル・ロジェル(Le Roger)はその教育計画を発表することでリヨンのエリートと結託した。p.193  このような企画とバステリカの協同は、真剣な改革に翻案された場合、引き寄せる魅力なしに結束がありえなかったことを示唆している。

 じっさい、結束派の武器庫における武器のなかで民衆教育計画は頻繁に実行に移され、結局のところ、最も効果あることを証明した。その頃までに教育改革は法律として承認され、個人による15年間の通学は彼らの同意を得るのに力あった。地方レベルで共和主義の運動を組織した実業家たちはその教育上の努力に拍車をかけた。彼らは教育が彼らの国家主義的で平等主義的な感情に適応していると見なし、実際レベルにおける社会的結合と訓練され、従順な労働力を促進した。時代の流れに沿って自由な教育を貧困階級にまで推進し、反動的な宗教の影響から学校を離脱させる努力は真に革命的なステップにして、共和派の主張 ― ガンベッタ(Gambetta)の言葉でいう「真の民主政治を構成する事がらは平等の基礎ではなくて、平等の創造である」― を裏書きするものであった。

 社会教育といわれる建築家は1860年代に彼らの仕事を開始し、階級的自覚に対抗する市民イデオロギー的結束を強化するための願望によって導かれた。けっして驚嘆に値しないことだが、彼らはフランスにおける工業階級の出自をもつか、あるいは彼らと密接に関連する知識人および政治家であった。ジャン・マセ(Jean Mace)の教育計画(1866年策定)は北アルザスの繊維・化学工業の経営者たちから資金提供を受けた。彼らは友愛主義施設で働きつつミュールーズの工業協会および各種の施設、つまり徒弟訓練所、工場付設学校、民衆図書館などを開設した。マセは社会問題に関するヴィジョンを明確に定めた。彼のパトロンは熱狂的にそのヴィジョンを支持した。マセは「社会の全成員間の結束は否定できない事実である」と言う。彼は自分の努力を、その結果が「国家の存亡に関わる軍事的キャンペーンに擬える。

 マセの実例は他所でも採用された。ランス(Reims)では商人と実業家の施設が「家庭生活の倫理と理想…知性の悦び」というふうに、驚嘆で溢れた本でいっぱいの労働者文庫を提供した。労働者がその文庫で教育を受けている間、彼らの妻は家政、育児、衛生などに関する教育を受けた。少なくとも1870年以前において12か所で「教育連盟」が設立された。大部分の商工業地帯に開設のための道を敷いた。エピナル(Epinal)ではヴォ―ジュ地方の繊維工業地域の弁護士エミール・ジョルジュ(Emile George)がニショラ(Nicholas)と協同して「エピナル会」を支援した。ジョルジュ、ニショラ、そして共和政下の上院議員となったフェリーの3人はp.194 フェリーの兄ジュールが政界に入っている間、家族で工場を経営した。ボルドーの「ジロンド会」は同市商業界の富豪から金銭的援助を得た。その際、他都市の経験、とりわけ「われわれの影響下において労働階級を団結させる巧妙な見通し」あるいは「貧困階級のための学校」の創設の重要性を引用して訴えた。アメデ・ラリユー(Amedee Larieu)は富裕な船主にしてジロンド県議会における共和派の指導者であるが、ジロンド会の設立によって個人的威信と政治的野心を満たした。ブーローニュの「芸術協会は成人労働者のための教育課程を設置し、1500巻から成る民衆文庫を設置した。大船主から小売商にいたるまでの合計で178人の雇用主がその計画のために何千フランもの金銭を提供し、そのうえに市当局が400フランもの補助金を与えた。

 しかし、反復的労働を支えるに必要な初歩的技術以上の労働者教育の必然性が出るに及び、教育課程は2通りに分かれはじめていく。労働がより効果的な単位となる一方で、労働者たちは彼らの宇宙が広がるのを実感する。技術上の近代化に伴い、彼らがより複雑な教育課程を修めるにつれ、労働者たちは彼らが生きている世界に関し高められた認識をもつようになった。ジョルジュ・デュヴォー(Geprge Duveau)が示すように、労働者たちはたいてい、主としてブルジョアジーのために計画された教育制度に疑問を懐くようになる。ブリュッセルで1866年に開催された万博への労働者の派遣は、徒弟訓練の拡大されたプログラムと一般教養科目への入門と対になった職業訓練を優先させるべきことを自覚させた。労働者が要求する事がらの多くは次の10年間に現実化していく。社会的要求はいうまでもなく、工業的要求は教育制度 ― 社会的訓練の鋭利な道具となる一方で、社会的解放の切断された端を伴う教育制度 ― を必須なものとした。

 共和派の地方の指導者のなかに誰一人としてジュール・シーグフリード以上に危険な弁証法を理解している者はいなかった。大金持ちの綿織物仲買人兼船主は最良の学校 ― ミュールーズのプロテスタント派の繊維業者の固い共同体 ― で社会的責任について学んだ。1865年にボンベイ綿花市場で大儲けをしたすぐあと、彼は「労働者サークル」を結成するためにミュールーズの工業協会に10万フランを寄付した。シーグフリードは故郷のル・アーヴルで一連の社会プログラムを実現する。そのプログラムはすべての社会秩序の基礎としての家族をうち固めるために労働者の精神的・物質的地域を一定水準にまで高めることを狙ったものである。p.195 彼は1868年、「教育連盟」のル・アーヴル会の会長となった。彼の指導のもとに同組織は次の数年間に幾つかの学校を創設した。そのいずれが有用な技術の伝授、従来の原理、社会的責任、公民権に教育の主眼を置いた。シーグフリードは最も明瞭な言葉で社会的防御について彼が何をなしているかを説明した。すなわち、「共和政のもとでの政治的自由は国民を未だかつてないほどにそれ自身の権威の主人公にする。…各市民が適切に教育され、入念に指導されて、最も知的なかたちで国家の将来において自分自身を表現するということはきわめて重要である。われわれは義務的初等教育が公的安全(Salut public)の一手段であると述べることがわれわれの義務であると考える。」シーグフリードがこの言明したのはパリの民衆がか革命の先端を開く11日前のことだった。

 これらすべては地方レベルで起きたであり、何ら組織された政治権力の承認はなかった。1870~71年の空白期間に共和派はその地位を固めたほとんどすべての国防政府によって取られた政治行為 ― それはレオン・ガンベッタによって支配された地方拠点においてであったが ― は独立的な社会運動に対する共和主義の権力をうち固めることを目標とした。

 可能な場合にはいつでも、秩序派の著名な人物を各県庁に据えることは無秩序状態のショックに対するその脆弱な構造を強化するための共和主義の有力な政治家の決心を示すものである。じっさい、(九月四日)臨時政府は戦争継続を担ったし、分派的諍いを起こす余裕をもたなかった。しかし、事実的に政府は地方行政における選択により一度ならず分解の危機を経験した。将来的な政治への関わりあいは紛れもない事実であった。2つの例を挙げよう。ソーヌ・エ・ロワール県ではストライキが1868年のル・クルーゾの町を分裂させていた。20,000人がシュネーデル(Schneider)の巨大製鉄所・鋳造所で働いていた。九月四日革命の直後において、共和主義的市議会は町の行政への参加を要求する労働者代表から攻撃を受けた。隣りのコート・ドール県の知事フレデリク・モラン(Frederic Morin)は暴動の危険を呼び覚まさせた。彼の電報によるメッセージは滑稽に曲解されたが、それは状況の重大性に関する彼自身の評価を含むものであったのだ。すなわち、「社会問題がもちあがっており、危険は深刻化しそうだ。」彼は、「政治ではなく、銃砲を作る」労働者を治め、「戒厳令を敷く」ために手段を講じるべきことを説いた。その町の共和主義的行政府は労働者から孤立しているにもかかわらず、断固たる手段をとった。騒動の真只中でオータンの副知事 ― 彼の支配権下でル・クルーゾは分裂した ― はなぜ臨時政府が町の支配下に入れるために外圧を行使しなければならなかったのか、なぜ同政府がこのような圧力を労働者の独立行動に対して行使したかを説明する秩序を回復させた。p.196  すなわち、「ル・クルーゾは中産階級のいないパリまたはリヨンに似ている」と。同じころ、シャルル・ド・フレシネ(Charles de Freycinet)はタルン=エ=カロンヌ(Tarn-et-Caronne)県とモント―バン(Montauban)県を接収した。彼の使命は生まれたばかりのコミューンを共和政府の名において弾圧することだった。彼は秩序派の人物にふさわしい評判を得て到着し、同市の保守的部分と良好な関係を維持しつつ作業にとりかかった。はたして彼の任務は上首尾に達成された。2週間ほど勤務したのち、彼は民衆暴動のためにこの町から追放された。暴動に屈するどころか、臨時政府は彼の代理者として、凝り固まったブルジョアから熱い信認を得た地方出自の人物を首長に抜擢した。

 同じように、共和政秩序の命に服した他の者たちはこれ以上の成功をもってその秩序を守りきった。そして、そのような努力を重ねるなかで重大局面において強化されることになる地方の共和主義的名士とのつながりを維持することに成功した。たとえば、ノール県のポール・ベール(Paul Bert)、ヨンヌ県のイポリット・リヴィエール(Hippolyte Riviere)、ロワール県のセザール・ベルトロン(Cezar Berthlon)― 彼がサンテチェンヌのコミューン弾圧を指揮した―、ブーシュ=ド=ローヌ県のアレクサンドル・ラバルディエ(Alexandre Labardie)― マルセーユ商業施設の重鎮 ―、ドゥー=セーヴル県のアントワーヌ・プルースト(Antoine Proust)、ガール県のジャン・ラジェ(Jean Laget)、アルプ=マリティム県のマルク=デュフレッス(Marc-Dufraisse)― 理想社会状態の庇護者を自称 ― らがいる。