A.フランクラン「パリのギルド概史」のルヴァスール序文(中) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

A. フランクラン「パリのギルド概史」のルヴァスール序文(中)

 

xiii  王権はギルドに対し久しい以前から息吹を与えたり、宗教紛争のせいで当時のあらゆる組合システムに満ち溢れていた多くの悪弊をすら抑制したりする力をもはや失っていた。悪弊とは、名誉職や実入りの多い役職を分かちあう数の限られた一族による専制的支配や、入会金の請求、親方試作の提出時の法外な要求や贔屓などがそれだ。

 中世末期ともなると、パリの最重要のギルドは公的儀式において他のギルドに対して優位に立った。それらはしだいに一種の寡頭支配を形成し、その構成はその職業の財産により、また定員より多くの志願者をもつかどうかによる偏りをもつようになった。一種の公式の叙階に任じられた商人組合が現われるのは16世紀初である。1629年、パリ市は市の紋章をそれらの組合に授与した。宝石商組合は元の紋章を放棄するのを嫌って新紋章の受け取りを拒絶した。16世紀末以降、それまで軽蔑の意を込めて新紋章を撥ねつけていたブドウ酒商組合はこの寡頭体制に自ら加わろうとした。毛織物商と小間物商の合併のおかげでブドウ酒商が恒常的に寡頭体制の一角を占めるようになったのはやっと1776年になってからだ。

 王権は悪弊を除去しようとし、そのためにギルドをより直接的に王権の支配下におこうとした。後期ヴァロワ朝治下において国王立法や国王執政が全般的発展に関与するのは昔からある傾向であった。特に重要な2つの勅令はこの政策を特徴づける。だが、反プロテスタントのカトリック同盟の真只中で発布された1581年12月の勅令はほとんど効果を挙げえなかった。そして、アンリ四世が王国の支配者になったとき発令された1597年4月の勅令は少しばかりの効果をもたらした。これらの勅令は営業許可権と、営業条件の規制権は国王に帰属するという原理に依存した。それらは王国内のあらゆる職業をギルドとして組織化し、入会を容易にすることによりギルド制度の排他性を軽減し、xiv  ギルドを国王官吏の直接監視下に置くことだった。これによりジュランドと職人会の弊害を抑制し、そして最後に、親方認可状(brevet)への課税を先取することを目的とした。これら勅令によって首都のブルジョワジーは特権を与えられた。というのは、パリのギルドに受け入れられた親方は王国内のすべての都市で営業する権利をもっていたからだ。他方、北仏の諸州で合格した親方はパリで営業する権利をもたない。王権が拡大するにつれ、パリのギルドは他都市でとりわけ親方特許状によりギルドが結成される際のモデルとなった。これ以降は法規面での斉一性が生まれた。パリはつねに特権的地位を保持しつづけた。

 宗教内乱が終わると、秩序が戻ってきたため、王権はギルド体制の保持を断念する可能性もないわけではなかった。中世社会は孤立した個人には十分に安全が機能しなかった時代であり、権利はふつう(有力者による)許可とか特権とかの形態をとった。この時代の職人は集団をなして自分らの職業を匿い、それを拡大するための要塞を見出した。それがギルドである。工業が発展するにつれ、ギルドは門戸を大きく拡げるのではなく、つねにこの要塞の壁を高くし、侵入への障害を多くしようとつとめた。16世紀の王権はこの要塞とエゴイズムを抑制し、たたかうことをもくろむ流れも生まれた。そのためには国王にこの権限を認める必要があった。それはギルド特権の廃止まで効果を挙げえたかもしれない。つまり、次のようにも推定できる。1614年の三部会 ― 大革命前に召集された最後の三部会 ― で第三身分が特別官吏による商品臨検だけを認める代わりにジュランド制、王による親方免状の廃止を要求したために、王権は上層ブルジョワジーの賛同を得ていたと思われる。

xv はたして王権は、ギルドが己の支配下にあるという条件で秩序の一要素とみなすことよりも、ギルドの機能を規制し普遍化するほうを選んだ。

 ギルドは絶対王政の支配下で17世紀以来、実際上完成されることになる。オランダとの開戦の際、コルベールは貨幣を調達する必要から、アンリ四世が1597年に訴えたのと同じ手段に訴えかけ、そして、1673年3月13日の勅令によって彼は町や小邑におけるすべての職業を共同体に組織することを定めた。或る知事は国王に書き送っている。すなわち「工芸職人(gens des arts et métiers)が他の者と同じように陛下に援助を与えることはまさに正当にして当然の措置であります」、と。好むと好まざるにかかわらず、職人はそれに従わねばならなかった。たとえば、パリではいかなる清涼飲料業者も新たに親方株を購入し、ギルドを組織させられた。国家参事会の或る法令はあらゆる清涼飲料業者に対し、組合事務局を立ち上げ監視員を任命し、翌日のうちに免状価格の半額にあたる150リ―ヴルを支払うよう要求した。

 パリの針子組合がその存在を負うのはこの勅令に対してである。仕立て業者向けの1660年の法規は述べる。すなわち、「男ものであれ女ものであれ、あらゆる種類の衣料と服類の売買は仕立て業の親方にのみ帰属する」、と。しかし、仕立て業者は多くの女子労働者を雇い入れた。一方、多くの婦人は法規を完全無視して私的消費のために裁縫をおこなった。おそらく3千人に達すると思われる針子がギルドを結成すべくパリのリストに登録した。しかし、1675年になって漸く国王は「子供と婦人に衣服を与えるための裁縫に専念する多数の婦人や娘の要求」に鑑み、「そして、この仕事が生計を立てるための唯一の手段であることが示されたため」ギルドの創設を命じた。これらの婦人たちはその業務がギルドに昇格すべきであると訴えた。xvi 婦人たちは言う。「婦女子の羞恥心や節制にとっても適切である。自分らが適切と判断するとき、同性の人々から衣料を提供してもらうことは礼に適ったことであり、そうでなければ風習がすべての条件下の婦人や子女の間に蔓延って自分らのスカートや部屋着等をつくるために針子を利用するようになる。仕立て業の監視員によってなされる差し押さえや、針子らに宣告された刑罰にもかかわらず、彼女らは仕事をしないですますわけにはいかなかった。」じっさい、針子たちはギルドに組織され、法律上は顧客のために働き、じじつ、コルセットと下着を仕立てるべき権利を排他的に保持した。仕立て業の親方と競い合うことができた。このエピソードは職業間の数限りない競合関係やギルド的組織の結果として生じる労働への桎梏を予想させる。

 戦火が再び燃え上がった直後にだされた1691年3月14日の法令もまた財政事情から思いつかれたものであり、工芸ギルドの設立をねらったものである。この勅令は法規違反した共犯者を処罰した監視員(ギルド内の選抜による)に加えて、国王による国王のために売却された官職の資格で監視員を派遣した。… 1691年12月の補足的勅令は親方もジュランドももたない職業にもこれら官職の設置を課した。xvii 公秩序という口実の背後で国王は臨検税と課徴金が固定され増額された。その主要な動機が戦費捻出にあることは疑いない。

 当然のことながら、組合はその業務に関し外部勢力の侵入を嫌がった。支払いのために支払うべく組合は官吏に苦しめられるよりは、これらの官職を買い戻したほうがまだマシだった。心底において金銭のみを欲しがっていた国王はその買戻しに同意する。パリ6大組合は63万4千リーヴルを支払ったが、その額は換言すれば今日の100万フランに相当する価値をもっていた。この6組合以外では、ぶどう酒商組合は12万リーヴルを支払った。宝石商は6万、古着商は3万5千、肉屋は3万を支払った。彼らが契約した借金の利子を支払うために彼らはそれぞれ親方税と臨検税について増額しなければならなかった。宝石商の組合税は1千リーヴルをもたらした。

 1694年、各組合は新しい官職を設置した。すなわち、会計検査官がそれであり、次いで1696年には共同金庫の財務官の官職が設置された。数年後の1702年にスペイン継承戦争が始まったとき、会計支出官の官職が、1706年になると簿記余筆の官職がつけ加わった。困り果てた財務長官によって考案されたあらゆる種類の巨大な数の官職が付加され、奇妙な発明物ができあがる。或る廷臣はルイ十四世に向かって「官職を創設なさりたいとき、神がそれを買うべく阿呆者をおつくりになるのです」と具申している。国王が破産しなかったとしても、国王財政の利得を手に入れる者ほどバカモノはいない。官職に付着した諸賦課とか幾つかの免税対象とかの区分がつかない。それまで信用をもっていた工芸ギルドに対しこういうものの設置が差し向けられたとき、組合は買戻したが、後に残ったのは工業の犠牲と重い負担のみだった。

xviii ルイ十四世治下の戦争は財政を圧迫し、結果として官職の設置を促した。1745年2月16日の勅令はパリで122のギルドを数えたが、1691年のリストと較べると10組合ほど減少している。

 18世紀後半になると、コルベール主義が厳しく非難を浴び、労働と商業の自由の観念はエコノミストの出版物を通して拡がった。多くの廷臣たちもそれに鼓舞され、新しい精神が行政組織の中にも少しずつ浸透していった。1755年3月25日の国家参事会の法令は、パリ、リヨン、ルーアン、リールを除き、王国内の諸都市が徒弟奉公期間を終え、職人としての義務を修了したのちは、フランス国内で当人の望む場所で営業することができるとした。パリ6組合と財政面での和解をしたのち、国王は1757年9月にもはや親方免状を発行しないと宣言したにもかかわらず、1767年3月に国王は以前の勅令と同様に自由主義精神と財政的精神の入り交じった勅令を発令した。それによって国王は「親方免状の代わりをすべく、免状の費用を支払う手段を奪われた職人や職人候補のために」一定数の証書を発行した。この時初めて外国人が国民と同じように免状を取得することを許された。しかし、免状の取得者は、当該ギルドが存在しない地方でギルドを組織することを許可された。その結果として生じたのはギルド独占の全国的拡大に外ならなかった。また、その勅令がほとんど実行されたようには思われない。あらゆる場合、パリ6組合は、外国人をギルドの中に繰り込むとユダヤ人を招じ入れるとして、勅令がいう施策に頑強に抵抗しつづけた。

 ジュランドのない農村や都市において、製造工程で全体的規制に従うという条件のもとで製糸や織物の営業の自由を認可した1762年の勅令は xix フランス工業史を画す重要な意味をもつが、それは少なくともパリの工業については何らふれていない。

  この歴史においてなおいっそう重要な事件は1776年5月の著名な勅令である。これらの勅令は財政的見地をもたない、純粋に労働の自由の原理にもとづくものだった。それらは最良とはいえないまでも、少なくとも最も無私無欲であり、アンシアンレジームが有する利益にたいし、最も気高く執着した哲学者にして廷臣テュルゴーのなせる業績である。それはエコノミストの諸原理に由来する。既述の6つの勅令の中で最も重要であり、原則的にジュランドと特認免状を廃棄した勅令はパリの工芸ギルドに向けられたものである。これ本令の交付後は実質的にジュランドと国王特認の親方免状を廃止することを謳う。そして、州レベルでも知事が各ギルドの貸借対照表を入手後、同様の措置を執るものとされた。第1条は言う。「いかなる資格及び条件をもつにせよ、あらゆる人々、同様にわれわれから帰化証明書を取得しない外国人が王国全土において、そして、わがパリの町でかれらが好都合と判断したこれこれの種類の交易およびこれこれの工芸の仕事に就くこと、営業すること、それらの作業のために大勢の者を集めることは自由であるべし。」ただし、4つの職業(professions)のみは除外された。すなわち、理髪鬘師、薬剤師、印刷業、書籍業がそれであり、特別の規則に従うものとされた。

 勅令の執行はパリでは即座におこなわれた。ルイ十六世が邸内司法官と都市の特権階級の同盟に対して抵抗するエネルギーをもち合わせなかったテュルゴーを更迭したにもかかわらず、ふるいギルドの資産の解体はつづいた。

 しかし、テュルゴー失脚の3か月後、ネッケルの啓示のもとに1776年8月の勅令が下った。xx 「同勅令により陛下は再びパリ6組合と、44の工芸ギルドをパリに再建することを通じて幾つかの種類の工業と商業に自由を確保し、相互に類似性をもつ専門職を統合し、今後、前述のギルドの制度における諸規則を定めた。」これはルイ十五世時代の100余のギルドと比較すると、顕著な単純化であった。つまり、隣接するギルド―それらのあいだにまさしく訴訟が頻発した―は統合された。親方税は引下げられた等。けれども、5月の勅令と労働の自由の原則の否認と較べると、まことに残念な後退であった。

 ネッケルの自由と規制のあいだの妥協策はさほど芳しい成果を挙げなかったし、ギルドの再組織化は、かつての親方側からする困難なしに、そして新たに加入を望まれた新親方の側からする諸困難なしにはおこなわれなかった。アメリカ独立戦争のあいだ、国庫は一度ならず枯渇し、借金するために、ギルドの金庫を空っぽにした。要するに、パリのおいてはギルドの精神と手順はほとんど以前と変わらなかったのである。

 しかし、公の考え方は準備され、1791年3月2~17日の法による工業と商業の完全な自由の承認はいわば当時においては何らの要求も惹き起こさなかった。旧来の伝統に対する従僕が独裁政治のもとで、あるいは復古王政のもとで懐いたギルド体制の再建の希望は流産した。人がそれに対して差し向ける諸々の批判にもかかわらず、そして、社会主義がそれに対して宣する体系だった非難にもかかわらず、労働の自由は存続し、1905年においてもフランスの経済的編成の基礎でありつづけた。19世紀には労働の自由は工業と富の大発展のための根本的条件であった。

 パリの職業がこの事典の主要な主題である。事項の半分以上がそれに割かれている。それゆえ、この序文で幾世紀にも亘る運命総体の概観をつけるのは無益ではない、とわれわれは考えた。われわれは数ページでその歴史を閉じこめるというような主張をもたない。xxi われわれが望むのは単に年代的な体系によって著者がアルファベット順に読者に示すところの一覧表の多様性を結びなおすことである。

  著者は別の一覧表をよく示す。彼は区別だてが十分につくようにそれを選んだ。それが職人奉公(compagnonage)について非常に短いというのはこの制度がパリの歴史より遥かに歴史に属するからである。しかし、それは徒弟奉公(apprentissage)については詳述している。