F.  ジュブロー「コルベール研究」(4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

第2章のつづき

 

p.264

第4節

1.商業会議所の創設

2.国内関税の引下げ計画

 

1.商業会議所の創設

 人間活動を覆うすべてのものと同じように、商業は2つの明瞭な部分から成る。すなわち、一つは純粋に理論的なものであり、その発展いかんは経済の純理論に依存する。もう一つは純粋に実際的なものであって、その優れた判定者は商業を営む人自身である。すでに1604年、アンリ四世は、商業の再建を望んだ御前会議の席上に熟達した実際家を参加させることがいかに重要であるかを理解しており、同王は御前会議に商人を召集し、彼らの知識に依拠した。しかし、リシュリューはこの仕組みを変質させて商人集団を国家参事会に取り換えた。これは実務的要素を払拭して制度の根本を改めたことにならなかったか? コルベールはこうした欠陥を感じており、アンリ四世の立場に戻って会合の目的と構成を転換した。そこに彼の偉大さがあり、・・・ 元々のイニシアティブはシュリーにあり、コルベールはそれを利用し、より完璧な組織編成した。

  コルベールはフランスを3つの商業圏に分割することから始める。すなわち、第一はピカルディ、ノルマンディ、ブルターニュ、トゥールから成り、第二はポワトゥー、サントンジュ、ギエンヌから成り、3番目はラングドック、プロヴァンス、リヨンから成る。ダンケルク、カレー、アブヴィル、アミアン、ディエップ、ル・アーヴル、ルーアン、サン=マロ、ボルドー、パヨンヌ、トゥール、ナルボンヌ、アルル、マルセーユ、トゥーロン、リヨンは毎年1月末日、最も評判高い、かつ老練な2人の商人を任命した。コルベールの許に送付された指名リストにもとづいてコルベールは最初の選挙人の中から2人の商人を選出した。p.265  彼らは1年のあいだ宮廷の王の傍に侍り、彼らが所属している地域の都市の商人と通信をなし、国王に対して商業の再建・発展に関するあらゆる策を上奏しなければならなかった。第二の選出者についてコルベールは毎年6月20日、3つの地域の都市の1か所に集めさせ、商業とマニュファクチュアの状態を検討させた。

 

2. 国内関税の引下げ計画

 国内関税の引下げの重要性をよく理解していたコルベールではあったが、この決心は商業会議所によって熱烈に支持された。有用にして冷ややかに迎え入れられたこの計画はわれわれに大臣の意図はつねに優れており、彼がおこなった施策と同じくらい優れているという観念を懐かせる。しかし、それが痛ましい不運に見舞われた歓迎はその長所と反比例した。過誤に従順な時代は最も多産な真理に反対するのが常である。p.266 たとえば、1664年時点での反対を偏見とは別なふうにどう説明したらよいのか? たたかいは改革においておこなわれ、その改革はわれわれがもたらしたばかりのあらゆる刷新と同じく、非常に大きな程度に国内商工業に関わりをもっていた。沖積土または占領地によって多数の州から成るフランスは制度としての国家(pays états)と徴税区としての国家(pays d’election)に分割され、両者とももともと外国の領土であったが、合併後も以前にそれらを分けていた関税を保持していた。これらの州の税関は国内関税制度を形成し、その困難、遅鈍、関税または拒否 ― 数多くの通行税の煩雑さを増長した ― は一歩進むごとに商業を妨げた。大道や河川はすべて税関、通行税、地方的諸賦課で囲まれていた。それから発するより小さな害悪はあらゆる商品の価格を騰貴させたことである。しかし、この制度のなかで最も有害なものは国家的事業の破壊であった。・・・

 仕事はフランスの土壌においては前もってあらゆる障碍が取り除かれている場合のほかは集まらなかった。p.267 そして、これらすべての国内税関を廃止して商工業にすべての意味あいにおいて四六時間中、これらの諸困難に遭うことなく活動する自由を与える布告は大急ぎで公布されねばならなかった。国内税関の撤廃は1664年に大多数の州により阻まれた。

 このコルベールの失敗はわれわれが見るところ、彼の仕事の成功を削りとったすべてのことに栄誉をつけ加えた。彼が提案した改革 ・・・ は偏見に遭遇し譲らざるをえなかった。・・・ 彼は各州と国内税関のこうした障壁の撤去について交渉した。彼はいたる処で障壁をなくした。コルベールの代わりにその意図が純粋であるような人物を思い浮かべてみたまえ。しかし、その天分は彼と比較すれば完璧ではない。たとえばテュルゴーは暴力や意見を前にしてもたじろなかったであろう。税関革命は一瞬の遅滞も許されなかった。もし善が非常に容易であるのなら、最も血気にはやった人に委託する必要があった。・・・ しかし、善における成功は必ずしもそこにもたらされる熱心さに依拠するわけではなく、p.268  偏見、習俗、既得権などを十分に考慮したコルベールの緩慢な事の進め方は急激な変化が悪弊を除去する以上に利益に適っていた。・・・ 彼は2つの制度を対置し、それら相互の間に横たわる諸問題を決すべき時間を残しておいた。1789年、125年間の研究によって準備された解決はその行政が高度に慎重であったことを証明する。そして、あらゆる種類、あらゆる事物の変化 ― われわれはたびたび証人であるか、または犠牲者であるかのいずれかだが ― はこのような忍耐の長所を余すところなく示している。熱狂的に歓迎されたものの、多数の刷新は時代の試練に堪えなかったことに対し、再び問題を投げかける。つまり、国内関税の廃止はいかなる苦情も呼び起こさなかった。・・・

 コルベールの業績を固定しておこう。抵抗は制度を変更することなく結果を修正した。彼はフランス全体に拡大することを願った。彼は幾つかの州でのみ成功を収めた。もしこれがわが国の繁栄と産業の発展にとって十分でなかったとしても、1789年以前において国家的統一を確立したことで十分である。・・・ これは最初ではないし、また政府が見た最後のものでもない。さらに、ここに国内関税制度の結果として何をもたらしたのか示すものがある。フランスは3つに分割された。①5大税区に属する州 ― これらの州は関税廃止に賛同する。②外国の州 ― これらの州は関税廃止を拒絶する。③外国と見なされる州 ― これらの州は外国製品の輸入の自由に賛同する。

p.269 さらに、関税は原則にすぎず、税率がその結果であり、輸出入の税率はともに重かった。コルベール前者・後者ともに廃止することを願っていた。というのは、税関は枷にほかならず、税率が枷を相乗したからである。われわれは国内関税の税率についてのみ語ろう。税関の撤廃に関する失敗は改革の範囲を縮小したが、改革を閉ざしはしなかった。絶対的善が不可能であったとしても、改善の余地は残された。コルベールは慎重に、いつもの理性をもって改善の余地のある部分に分け入った。均一関税は圧政的であるため、それがある状態に応じて無限に変化をつけるべきであった。彼は濫用の片端に達した。そして、彼は恣意の中に墜落した。同じ分量の同一の商品が各税関事務所で異なった税を支払ったため、その商品はしばしば詐欺機会に出くわした。1664年の布告と結んだ関税率は5大税区の州では均一だったが、他のすべての州については改良された。

 コルベールのこうした細かな配慮は極めて稀にしか見られない。世人はこれを彼の小胆な性分のせいにした。ほとんどすべての州議会が王冠の周りに結集したことは条件付きであった。このことは公益の口実のもとにしばしば誤解されていることだ。レジスタンスは2つの部分で同意され、幾世紀にも亘って実施される協定においてもその権利をもたなかったか? こうしたためらいに直面して1789年のわれわれはこれについてたった一つの誤謬を指摘しておこう。すなわち、時代の違いが忘れられていることがそれである。革命は大胆さを巻き添えにする。君主政治は慎重さを予想させる。通常の政府はこれら2つの手だてのあいだで躊躇したか? コルベールの小胆さよ! コルベールは彼の目的から逸れないままでいる。・・・ 真理は逆の見解の中に宿るはずだ。・・・

 

p.270

第5節 

1.道路の利用可能性、状態、安全

2.新交通手段としてのラングドック運河とオルレアンの運河

 

1.道路の利用可能性、状態、安全

 道路が商工業の発展と密接な関係をもつことの説明・・・。

 ブリアール(Briare)運河。シュリーの時代から深い関心がもたれていた。実際におこなわれるのはコルベールの時代である。2つの制度の間にあるのとまったく同じように、2人の熱心さのあいだにも差がある。p.271  農業へのシュリーの強い思い込みはより緩やかさを印象づけ、彼に忍耐を与えた。必要はそれほど緊急ではなく、気遣いはそれほど勤勉でなくてもよい。これに反して、工業のほうを完全に重視したコルベールは専ら己の支配力を拡げることに没頭し、フランスを貨物輸送の国家とすることに熱心だった。彼は、それは数多の容易な輸送路の手段なくしてその目的を遂げることはできないと感じていた。輸送路はあらゆる箇所で等しい利益を運び込む必要があった。したがって、シュリーがその気遣いを大街道の改修、つまり農業的見地からふつうは陸上交通の改修のみにとどめているのに対し、コルベールは際限を設けることなく、あらゆる交通路に関心をふり向けている。諸君は彼が全生涯を捧げてこの重要な関心をもちつづけていることに驚くであろう。第一に、われわれの見るところでは、彼が留意したのは通行料の調査であり、その鋭い眼差しをもって1664年以降、特徴づける執行の気遣いを示した。行きつくところが通行料の廃止であることはいうまでもない。

p.272  飽くことを知らない彼の責務は調査、試み、革新、維持 ・・・ で十分だった。維持はおそらくあらゆる企図のなかで最も困難であったろう。すなわち、そのことは少なくとも、以前の行政と較べて不成功に終わったといえよう。リシュリューはオーストリア王家の弱体化に力を入れるあまり、国内への関心を放棄した。つまり、外交に拘った反面、国内の繁栄を犠牲にしたのである。リシュリューの政治基盤の安定さはマザラン時代の不安定さと好対照をなす。このことは王国に何らの利益も与えることはなく、この大臣の偉大さ、あるいは弱さにもかかわらず、国内制度は多かれ少なかれ緩やかな衰微の道を辿りつつあった。

コルベールはこうした衰微の歩みにブレーキをかけた。特に商業は、彼がいたる処で橋梁、堤防、土手、その他の公共工事を手がけ維持しようとしたことに関連する。これは巨大な歩みの第一歩だった。・・・ 安全がなかったら、道路の実際的な気遣いとは何であるのか? 旅行者の安全を図ることが必須だった。コルベールがあらゆる商業活動に対してその安全性の重要さを理解していたこと、そして、彼が商業の繁栄のための有力な要素のなかに安全の重要な役割を割り当てていたことは、コルベールの栄誉を物語る一面である。

 コルベールはその一方で就任直後から海の安全性にも留意し、フランスの公道の安全につとめた。この公道の監視と警察は仏軍元帥の管轄下に置かれた。監視と警察は歴代政府の他の管轄といっしょに弛められ、道路という道路は辻強盗でいっぱいだった。辻強盗たちは一回ならず公権力と敢えて戦闘までおこなった。p.273  彼らは幾つかの会戦で勝利を収め、また、ほとんど処罰を受けることのなかったため、大胆さを強め、世間に大きな驚愕を与えた。こうした野盗の暴力から遁れるには野党征伐を必須とし、ここから税の加重に結果した。こうした力の政策がフランスを解放することになる。一つは悪人どもを絶え間なく捜索し、見せしめのための処罰をおこなうことだった。野盗征伐が終わると、その再発防止の手だてが必要だった。

 

2.新交通手段としてのラングドック運河とオルレアンの運河

【ラングドック運河】中世におけるフランスの領土分散にせよ、ノルマン人の冒険を吹き込む懼れからにせよ、古代商業の状態から引き出される動機は、諸国王の多様な関心をフランスの海岸を洗う2つの大洋をつなぐ交通の利点から逸らすことだった。これらの利点が確認されたとき、その同じ理由がその実施を妨げる要因ともなった。しかし、2つの大洋〔注:大西洋と地中海〕のあいだに位置する諸邦が単一のフランス王権の支配下に入ったとき、この計画を実行に移す日がやがて訪れる。だが、この実行に着手するためにはこの合邦ののちまだ長い年月を要した。この遅延の理由は、3番目の人種〔注:ノルマン人〕の到来以降におけるあらゆる状況に因る。つまり、十字軍、百年戦争、イタリア遠征などがそれである。・・・ p.274 さらにフランソワ一世、シャルル九世の治世は2つの大洋の結合に関する関心が強力に精神を独占したという証拠を残している。しだいにそれへの気遣いはますます活発になった。アンリ四世とその王子は2大洋の連結計画について真剣に注意をはらった。しかしながら、この重大な問題の解決はコルベールの執政下において初めて可能だったといいうる。コルベールの執政は理論と実践の調和を保ち、原理と行為が十分に和合していた。じっさい、彼は何を望んだのか? それは特にフランス国内に貨幣を引きとめること、商業の便宜を図るべく輸送距離を縮めること、王国を輸送大国とすることであった。運河の手段で2大洋を繋げば、常に危険なジブラルタル海峡はもはや必要な航路ではなくなり、スペイン王にとってカディスから揚がる収益は減ることになる。あらゆる産物が豊富にあるラングドックはフランスの他の州と連絡をとることができるし、フランスは新輸送路を通じて北仏のすべての諸州をスペイン、レヴァントと連絡させることが容易になった。

 この連結を達成するには、一見、極めて単純に思われることをするだけで十分である。しかし、その実行にあたっては程度の差こそあれ、越えがたい困難が待ち受けていた。地中海のほうへ伸びるオード(Aude)川、大西洋側に流れるガロンヌ川の隔たり14リュ―を繋がねばならなかった。p.275  分水嶺の地点でそれを繋ぐ運河に注ぎ込むべき大量の水を何処に見出すのか? これは時間と経費以外のいかなる問題もなかった。その成功は金銭を別とすれば、もはや確実であった。ところで、コルベールの執政はこの点についてあらゆる保証を提供した。

 ボンヌポ(Bonnepos)の領主で、もちまえの天分により幾何学者となったピエール=ポール・ド・リケ(Pierre-Paul de Riquet)は1662年11月以来、コルベールにこの大工事を請け負うと申し出た。彼より前の計画の最も致命的な難点はノールーズ(Naureuse)の岩石を運ぶことにあった。・・・ リケの許を訪れたすべての技師は水位を上げるための川と機械の後退制度の手段によってのみこの障碍を取り除こうとした。〔以下、工事の中身…略…〕

p.276

【ラングドック運河の総経費】p.282

 王国の出資金  7,484,051リーヴル

 州       5,807,831          16スー 6ドニエ

 リケ      1,957,517             

 合計      15,249,399リーヴル 16スー 6ドニエ