ルイ十四世治下の大工業(16) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 ルイ十四世治下の大工業(16)

 

p.306

第5章  1700年から1715年までの労働者の状態

1.1708~1709年のおける窮乏と飢餓

2.不幸な労働者に与えられた救済措置

3.ストライキ

4.サボタージュ

5.プロテスタント派の労働者

6.労働者の脱走

 

1.1708~1709年のおける窮乏と飢餓

 アブヴィルにおいて、その事業所で1千人以上もの労働者を擁し、毎日の食事に12人の召使を擁し、6頭の幌付四輪馬車、6頭の騎乗馬を保有するヴァン・ロベのような経営者は1711年時点では極めて例外的な存在だった。しかし、他の多くのマニュファクチュア経営者が同じような生活様式に従っていたと信じることはできない。それどころか、前章でわれわれが示したように、極めて重大な窮乏が、特に1708~1709年に労働者に襲いかかった。

 

2.不幸な労働者に与えられた救済措置

・リヨン … 絹織物販売 → 停止

p.307  ・マルセーユ … 貧民が急増し、市長は救済策を立案する。:パンを市が買いあげ、その費用負担は富者に3ドニエずつ支払わせる、剰余金が出た場合、労働者の仕事確保のために費やす。

・オルレアン … 公設授産場の開設

・アミアン … オルレアンを模倣

・オクセール … 神父が1,300人に食料を与える

・シャンパーニュ … シャルルヴィル(Charleville)でティトン(Titon)某が建てた兵器工廠の労働者に食料を供すべく、知事がパンまたは小麦粉の供給を要求した。ほとんどが既婚者である400人の職人はパンを口にすることができず、1日当たり2千リーヴルをかける。

 北仏一帯は穀物の収穫がまったくなく、したがって、財務長官はビールおよび火酒の醸造を禁止するほどだった。p.308 

・ランス …「法廷はまったく機能を停止し、家々は荒れ果て、商人や職人の店舗は店じまいとなり、パン屋は穀物不足のためにもはやパンを製造していない。」

・ラングドック … ここでも飢饉が感じられ、セット(Cette)の砂糖精製業者ジリー(Gilly)兄弟は小麦を確保すべく植民地行きの船舶の武装を提案。

・ロモランタン(Romorantin)… 軍服製造のマニュファクチュアは倒産。「深刻な飢饉が多数の労働者の間に蔓延し、多くの餓死者を出した。」

・ルーアン … 1680年には幾千人もいたというのに、今や357人の職人だけが操業。アプト(Apt)司教区では四旬節中のすべての宣教を停止。これでもって捻出された資金は乞食の救済費用に充当された。

p.309  ・オマールとダンケルク … 救貧院の設置

 

3.ストライキ

 職人や徒弟は悲惨な状況にあったため、彼らが雇用者や地方行政府の悪口をたれたり謀反を起すことは禁止された。じっさい、絹織物業の経営者と労働者の間に衝突が生じた。

・リヨン … 1700年、700人の職人は、自分らの親方がギルド理事会を無視した、と知事に訴え出た。知事は暴動を防止すべく職人たちの要求を受け容れた。

p.310  ・ランス … 同じような争議が毛織物業の経営者と職人の間にもちあがる。アムロは平和的な解決を図るために特別の注意をはらうよう巡察官に要請した。

 しかし、この種の困難は当時(1704~1710年)では日常茶飯事だった。暴動はほとんどすべての大工業の所在地で勃発した。アミアンのマニュファクチュア経営者は1704年11月29日、財務長官に、同市マニュファクチュア経営者に対し「鉛商標税(droit du plomb de fabrique)」と呼ばれる新税が課されんとしていると報告する。卸売商人たちは当時の毛織物の購入を拒否する商人に支払わせようとした。かくて、製造が中止され、労働者は解雇された。

 

4.サボタージュ

p.311  ハンガリー産の銅マニュファクチュアの経営者は、職人が製造法規に従わないと苦情を述べた。かくて、サボタージュを回避すべく雇用者は穏当な義務を課す権限を取得した。

 オルレアンでも靴下および編物類に対し新税が課された。製造業者はこうした条件下ではもはや労働者に仕事を与えることができないと主張。労働者たちは州知事の役所に赴き、パンと仕事を要求した。これに驚いた知事は直ちに雇用者たちを召集し、武力に訴えても労働者を働かせるよう強請した。

・ティエール … 製紙業で賃上げストライキ

 財務長官の許に、全国のマニュファクチュアを倒産に追い込む騒動に関する報告が寄せられた。p.312  当然なことに、デマレ長官はメントノン(Maintenon)夫人に「事件の不幸な状態は徐々に深刻化している」と書く。

 

5.プロテスタント派の労働者

 1700年、国王はマニュファクチュア経営者にアンケートをおこない、配下の労働者についてカトリック派と新教派の比率を調査している。質問項目は以下のとおり。①労働者は義務を履行しているかどうか、②子供の教育を支援しているかどうか、③彼らの間で祈祷がおこなわれているかどうか。④結婚しているかどうか。⑤外国人の有無

・アミアン … 2人の職工が改宗せず、したがって投獄刑に遭う。

・ニーム … 幾人かのプロテスタント派の職人が亡命せず、司祭のもとで結婚し、自分らの子弟に教育を施していると回答。

p.313  ・ラ・ロッシェル … 精製所と亜麻布マニュファクチュアでは新規改宗者はいない。

・パリとオマール … 多数のカルヴァン派が存在。

・ポワティエ … 或る新教派の商人が柄物亜麻布を行商したかどで処罰を受ける。

・アブヴィル … ヴァン・ロベ―のみが新教派の雇用者として認可された。

 

6.労働者の脱走

 商業会議所への派遣される代表のみがこのような措置に抗議した。アニソン(Anisson)は1710年3月4日に書いている。:「多額の資金、商才、良き手腕をもつ新教徒を失ったのでは、彼らの逃亡を避けることはできず、彼らは亡命先の外国で国家による適切な助力を得て工場を設立し、わが国商業の沈滞、後退の原因となっている」と。

p.314  1700年以降もフランスの労働者の逃亡はひきつづく。ランスの手工業者、リヨンのマニュファクチュア経営者、サン=ゴバンのガラス会社の指揮者らは労働者が逃亡欲に駆り立てられているとの苦情を述べている。

・リヨンの織物業者 … 中国へ行こうとしてサン=マロから出航し、失敗し引き戻す。

・バスティーユの記録によると、熱狂的な引き抜き人の名前が登録されている。

・1702年、ジュネーヴ出身のサミュエル・グランガレ(Samuel Gringalet)はオレンジ侯のスパイとして告発され、最終的に鉱夫として鉱山に送られた。

・ラ・ポメラレー(La Pommeraye)夫人はスペインでガラス・マニュファクチュアを興すために亡命の道を選ぶ。彼女はサン=ゴバンの労働者を勧誘したかどで逮捕され、投獄の刑を受けた。

 

 

p.315

第6章 1700~1715年における賃金のサンプル:その性格と報酬

1.平均賃金

2.製紙労働者の栄養状態

3.食品価格

4.現物賃金:財務係とエコノミスト

5.紙幣の強制通用

 

1.平均賃金

 猛威をふるった窮乏状態にもかかわらず、18世紀初頭においては高級官僚の報償は適度なレベルで安定していた。かくて、プロヴァンス州知事ルブレ(Lebret)単独で3万6千リーヴルを受け取り、1万5千リーヴルを自分の警護団用として受け取った。これが税の増徴につながり、労働者賃金を圧迫したことはいうまでもない。

 収税長官も同じように臨時収入を受け取った。

【婦人の日給】

・アンジュ― … 下着製造業=6スー

・オーヴェルニュ … レース編の熟練職人=25スー

・パリ…ふつうの婦人労働者=12~14スー p.316 

【1709年当時の肉体労働者の日給】

・トゥール … 土方賃金=6~7スー

・サンテチェンヌ … 炭鉱夫=15~16スー

・カルモー(Carmaux)… 炭鉱夫=13スー

・ポワティエ … 人夫=8~10スー、金細工師=年収600リーヴル

・トロワ … 門番、守衛所の召使、庭師、ブドウ栽培、コルベール・ド・ヴィラセール(Colbert de Villacerf)修道院の牛飼い(トロワ在住)は食事付で年額30リーヴル以上。七面鳥の番人=15リーヴル、家禽飼養場の3人の娘=36~39リーヴル。

 地方州のマニュファクチュアで雇用された労働者の平均賃金は12~15スーだった。ヴォーバン(Vauban)は「国王10分の1税(la Dîme Royale)」の中でパリ、リヨン、ルーアンのような富裕都市ではふつう、毛織物業者、剪毛工、紡績工、帽子製造業の下男、錠前師などは15~30スーの日給を得ていると記す。p.317

 労働者は冬季中は仕事がなく、失業状態になるのは稀ではない。よって、すべての職業に共通な失業は52日の日曜日と所定の38日の祭日を付け加えねばならない。したがって、平均で220~250日が労働日になったと推定しうる。

 賃金支給がいつも現金であったとは限らない。しばしば賃金は現物で支給された。この制度は、経理担当がいて労働者に賃金を食料でもって支払うすべての会社に適用された。この制度は外国、とりわけイギリスで適用されたが、この地では「トラック・システム Truc System」の名で知られている。17、18世紀のオランダでも顕著であり、労働者やふつうの事務員には乳製品が支給された。イタリアのトリノではシチリア王は絹織物マニュファクチュアを保有していた。「トリノのこの工場のすべての労働者は自己の生活必需品を手に入れるために、たとえ一歩たりとも動かなかった。p.318  というのは、工場の囲いの中に肉屋、パン屋、居酒屋があったからだ。そこには働き、徒弟を教育しているフランス人やピエモンテ人が多数住んでいた。」

「労働者の賃金の支払いのために貨幣を与える代わりに鉛の商標が与えられ、これをもって生活必需品を入手した。」

「ラ・メイユラージュLa Meillerage公爵はジロマニーGiromagny鉱山で採掘鉱夫に食品でもって給料を払った。」

 

2.製紙労働者の栄養状態

 北仏およびパリの大規模マニュファクチュアにおける労働者は彼らの消費するビールの代金を支払わなかった。南仏では彼らは1日に1~2リットルのブドウ酒の頒布を受けた。製紙労働者は例外的な制度に従った。彼らは年間300日しか操業しなかった。そして、かなり高い賃金のうえに食品を受け取った。彼らは雇い主の負担で1日当たり3回食卓を囲む。その食事の内容は次のとおり。スープ、肉切れ、ラードまたは塩漬け豚、(1人当たり1リーヴル)、野菜、フリカセ…

p.319  1日3回の休息。特別急速(extraordinaire)と呼ばれる4回目の休息もあった。その際は1.33パイント(pinte)のブドウ酒が出た。

 

p.320  3.食品価格

 1パイントのブドウ酒=4スー

 1リーヴルのパン=2スー;褐色パン&第二級のパン=1スー

 1スティエの小麦=16リーヴル (1709年は除外、同年は52リーヴル)

1スティエのライ麦=12リーヴル

 1スティエの大麦=11リーヴル

 1リーヴルの羊肉=5スー

 1リーヴルの牛肉=4スー

 1リーヴルの牝牛肉=3スー6ドニエ

 1キャンタルの豚肉=17~18リーヴル

 1リーヴルのオリーブ油=7スー

 12個の卵=6スー

 1リーヴルのバター=8~9スー

 1リーヴルのろうそく=8~9スー (1706~1710年間は価格高騰)

  パリでは1リーヴルのパンは7~8スーで売られた。王立マニュファクチュアあるいは大工場の労働者は周知のように宿賃を支払わなかった。家具、食器類、亜麻布、ベッド類は工場側で用意されていたからだ。職人たちは税金も支払わず、彼らが消費する塩についてもガベル(Gabelle)税が適用されなかった。

 

4.現物賃金:財務係とエコノミスト

 このようなあらゆる利点があったにもかかわらず、彼らの賃金は依然として高くなかった。1713年、ティエールの製紙労働者はあまりの低賃金ゆえに暴動を起こし、賃上げされないかぎり持ち場に戻らなかった。小売商人への支払が滞ったため、裁判を起こされ、道具や機械の没収を回避するためにp.321 1704年8月19日に宣言を発し「マニュファクチュアに奉仕するためのすべての道具の差し押さえ」を禁じた。

 この条項はサン=ゴバンの大会社の労働者にとってもなおさら必要だったのだが、商業会議所の禁止令にもかかわらず、労働者に報酬を与えなかった。1702年、金銀製の家具・織物・食器の所持を禁止する奢侈禁止令が発令された。貨幣不足が深刻だったのである。ボワギルベール(Boisguilbert)はこの問題について財務長官に書簡を書き送っている。つまり、貨幣はパリに集中し、地方で不足をきたしている、と。地方の知事は抗議する。たとえば、ルーアンの知事は意図的に金銀の引き寄せを図る。

 

5.紙幣の強制通用

 1706年10月18日の法令は不幸にして、最終的手段として国家が発行する紙幣の強制通用を課した。少なくとも支払額の4分の1はこの信用証券による支払いが義務づけられたのである。しかし、労働者たちはこの新たな制度に慣れていなかった。しかも、食品購入では現金でおこなわれ、紙幣ではなされていなかった。上記の措置はサミュエル・ベルナール(Samuel Bernard)が示唆したものである。p. 322  しかし、その彼は「紙幣が外国および王国内の地方では信用されないということ」を無視していた。

 1709年 … 貨幣の流通量が多大であり、かくてエルブーフの経営者は「500人の労働者を生活させる」ことはもはや不可能となったという。ドンブのガラス会社の工場の金庫は紙幣でいっぱいだった。

 ルーアンの知事は財務長官宛てに書簡を送り、紙幣の強制通用にいたった困難を釈明するよう要求した。

p.323  貨幣の欠乏に因るこうした危機状態は1712年までつづく。

  大勢の人々はドウーエおよびシャロンのマニュファクチュアを支えるために王室金庫に40万リーヴルをもたらすという条件で4万リーヴルの借り入れを願い出た。財務長官はこの願い出を拒絶する。借り入れは紙幣ということになろうが、その紙幣自体は数年来まったく価値をもたなくなっていたのだ。

 かくて、貨幣不足、飢餓、課税と諸賦課、引き続く戦争などが食糧価格の高騰をもたらした。このような状態から生じうる非常事態を回避すべく、王国政府は知事らに命じて生活必需品の価格を公式に定めさせた。1709年、1スティエ当たりの小麦が52リーヴルであるのに、プロヴァンス知事ルブレ(Lebret)は30リーヴルと公定。当時は長く続かなかったが、15年後に貨幣危機に見舞われたとき、賃金だけでは支払うことができなかったので、各知事は価格(賃金と商品価格の両方)を公的に定める権限をもつにいたった。

p.324  ・プロヴァンス … 労働者の日給の切り下げは無理だった。当時、陰謀計画と暴動が頻発していた。

・ドフィーネ … 約5分の1引下げ

・ムーラン … 日給と食品(パン、ブドウ酒、肉を除外)を公定

・オーヴェルニュ … 取引価格が正常であっため、日給の切り下げは困難だった。知事は幾人かの職人を24時間拘束した。

・リヨン … 引下げ