ルイ十四世治下の大工業(12) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 ルイ十四世治下の大工業(12)

 

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第5章 保護政策

 

 フランスの地方、つまりギエンヌ、ラングドック、リヨン市、ランス市は1667年に始まる関税戦争 ― これは1786年のイーデン条約締結によって終わる ― のせいで被害を受けた。地方のマニュファクチュアは取引のための販路がないことを嘆く。それにもかかわらず、王国政府は、外国産マニュファクチュア製品を締めだすための輸入関税を軽減する措置をとらなかった。

 1687年、外国からの輸入毛織物の税率を高くしたのを受けて、イギリスは直ちにぶどう酒税の増税をもって反撃した。シャンパーニュやボルドレーは政府に調停を請願した。英国首相は駐英フランス大使を通じて、フランスは商業的見地からみて他の諸国と同等の扱いを受けているのではないかと主張し、結局、両国間において何ら話しあいがなされなかった。

p.254  1699年の多くの書簡の中で駐英フランス大使は、イギリスの建設大臣がフランスの船舶を勝手に臨検したことを激しく非難せよとの命令書を受け取った。

 リヨンの商人は航海条例の諸規程に従いフランス国旗を掲揚してフランス商品を輸入できなかったため、イギリスの船舶を賃借して運搬する気になった。ところが、この船舶はダンケルク港で軍艦により拿捕された。ダグソーは抗議したが、それでも埒は開かない。

 政府が事情を理解しなかったため、商人たちは交易維持のための巧妙な術策を模索する。

 1695年7月5日、リヨンの商人は、フランスの物産、特にリヨン産タフタ〔注:薄地絹〕がイギリスで排斥されるのがあまりに大きく、かつ強烈であるため、あらゆる術策をもってしても効果のないことを国王に訴え出ている。

 1696年、リヨン商人たちはトリノ商人との間に条約を結ぶ計画を依然としてもちつづけていた。

p.255  鉛は法外に高価だった。イギリスがそれをフランスに流入させなかったため、詐欺をはたらく以外に取得する術はなかった。したがって、保護政策がほとんどの産業部門でかなりの桎梏になっていたことが推定できる。公益が私益に優先するという考え方は一般人の頭にはなかった。こうして、貿易商人、たとえばカルカソンヌの商人は「その産業を破滅に追い込み、p.256 イギリス、オランダ、ザクセン、ブリュッセル、リエージュ等の物産の販売を破滅させる禁止措置の不公平な執行」に対して激しく抗議し、この要求はリヨン、パリ、中仏全体で公然と叫ばれた。トゥールの織物業者は対外国報復が不完全だと判断し、イタリア産の絹織物およびイギリスまたはオランダ向けの絹織物に対して免税しないよう要求した。それゆえ、この地方の実業家たちは材料調達が困難を感じ、フランス産の原料を仕入れた。

  こうして1691~99年の間は激烈な窮乏時期と位置づけられる。マニュファクチュアは倒産し、外国に亡命しなかった労働者は対英・対蘭戦争に従軍するため兵役に就いた。1693年、飢饉に見舞われ、不幸な民にパンの給がほとんどできなくなった。かくて、救貧院を設立して小麦配給の実施が提案された。だが、この方法もほとんど効果はなかった。労働者階級を促して現実の諸困難を克服するよりほかはなかったのだ。幾年にもわたり、実業家たちが国家を頼りにし、個人を頼りとしない習慣に馴れっこになっていたというのは事実である。新法発布により労働に対する権利が国家に帰属することが国民に呈示された。しかし、1691年以降における財政の極度の逼迫状態は救済とか下賜金供与とかの余地はまったくなくなっていた。

 したがって、ポンシャルトランやダグソーはまったくやり甲斐のない役目を演じたことになる。p.257 戦争、財政難、ナント勅令廃止の悪影響、極端な保護政策および規制という時代後れの制度が私的イニシアティブを消滅させてしまった時代に生きた者の精神をすり減らす。財務長官とその同調者は、もはや手の打ちようのない窮境状態にあるマニュファクチュアを再興するゆとりをもたなかった。ポンシャルトランとダグソーのどちらも、もし彼らがもはや過去のものとなった佳き時代に生きていたなら、ルーヴォアの欠陥が当然受けるべき指弾を浴びただろうが、そうした機会をもたなかった。

 

 

 

第三部 1699年から1715年までの大工業

 

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第1章 マニュファクチュアの指導機関

1.マニュファクチュアの指導は財務長官と海軍省事務局

2.商業参事会(Conseil du Commerce)に関するダグソーの見解

 

1.マニュファクチュアの指導は財務長官と海軍省事務局

 1697年、レイスウェイク(Ryswick)の講和条約は財務長官とその協力者たちにさほど長くない猶予期間を提供したが、つづく1701年になると、フランスはスペイン継承戦争に突入した。しかし、この短い休戦は商業参事会で計画を考究することを可能にした。その計画は1700年に策定された。ここで提起された新制度はルイ十四世の治世最後の14年間に新たな幾つかの事業の設立を可能とするマニュファクチュアを維持した。

 ポンシャルトランは財務長官として①国内マニュファクチュアの指揮権を掌握し、②海相としてレヴァント向け毛織物業と対外貿易の指揮権も掌握した。これらの役職がルーヴォアとセニュレーの2人に分有されていたあいだは争いが絶えなかった。p.260  ルイ十四世はこの種の確執に嫌悪感を覚え、「王の命令を執行する栄誉」をもつ2人の間に割って入り、両者から権限を取りあげ、ポンシャルトラン独りに付託した。

 

2.商業参事会に関するダグソーの見解

 ダグソーの見解によれば、商事に関する指揮権を海軍大臣に与え、商業参事会の役割を財務と外務の2局の補佐機関とすることであった。p.261 だが、状況は一変しており、財務大臣はこの商業参事会の会議に精神的な権威に限定されることになった。この構想は政府官房の立場から見ても、おそらくは商業参事会の立場から見ても実態に合致しないであろう。したがって、商業参事会はつくらないほうがまだマシだった。かくて、ダグソーの提案は受け入れられなかった。

 1699年、ポンシャルトランは司法大臣を兼職する。

 1699年9月13日勅令:商業に関する指揮権をシャミヤール(Chamillart)とポンシャルトランの息子に分有させる → この分権は幾らか修正を受けながらも大革命までつづいた。こうして財務長官は「内外の商業およびマニュファクチュアの全般的指揮権」をもつにいたる。

 あらゆる紛争を予防するためにコルベールが設立した組織に似せた商業参事会が再建された。これはポンシャルトランが成就した業績のひとつである。

 

 

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第2章 1700年の商業参事会(Conseil du Commerce)

1.ダグソーとアムロ・ド・グルネー(Amelot de Gournay)

2.商業参事会の構成

3.商業参事会の権限

4.デマレ(Desmarets)

5.1708年から1715年までの商業参事会

 

1.ダグソーとアムロ・ド・グルネー(Amelot de Gournay)

 ダグソーは商事局の設立に反対したが、国王は肯ぜず、ダグソーに設立を委託した。ポンシャルトランがダグソーに信頼を寄せ、ポンシャルトラン財務長官の後を継いだため、ダグソーはこの困難な職務に立ち向かう気になった。

p.263 しかし、この参事会の積極的役割はダグソーの甥アムロ・ド・グルネーにより果された。アムロ・ド・グルネーはマニュファクチュアに比較的自由な法を与えるためにマニュファクチュア編成の細部にまで気配りを示した。しかし、その彼とて、勅令の厳格な遵守を軽んじることはできなかった。彼は関税率が定まり、法令が発令された後になっても、実業家にパスポートを発行し、積極的な対外進出を企て、外国で売りさばけなかった商品についても調査している。

 アムロ・ド・グルネーは労働者に科される刑罰の適用に手心を加えるようつとめた。彼は1701~3年にランスの知事ファヴォー(Favot)宛ての書簡でこう述べる。p.264 「商人と労働者間に生起した紛議について諸君はそれを友好的に決着するよう特段の注意をはらわねばならない。私は諸君らが平和維持のために提案するすべての理に適った事がらを承認するであろう。」それでもなお、グルネーは商標については厳格であり、権力を濫用する巡察官に対しても監視を強化した。

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2.商業参事会の構成

 ダグソー、シャミヤール(Chamillart)、ポンシャルラタン、アムロ、エルノトン(Hernothon)、ボワン(Bauyn)、ダンジェルヴィリエ(D’Angervillier)ほか、国内の12人の有力商人。

p.266  12人の商人の内訳:2人はパリの商人、残り10人は各都市が1人ずつを派遣する。ルーアン、ボルドー、リヨン、マルセーユ、ラ・ロシェル、ナント、サン=マロ、リール、バヨンヌ、ダンケルク

・1700年9月7日の法令:ラングドックのパルルマンが同州の有力商人の派遣を許可。

・1703年8月7日の法令:ラングドックは商業参事会に現職の市長の派遣を許可。この慣行は1712年までつづく。選出方法は自由な選挙による。毎年7月に市役所で選挙をおこなうために参集する。p.267  代表者は9月にパリに赴き、10月1日からの会議に参加する。

 代表者の参集を容易にするため、幾つかの町にマルセーユとダンケルクにある商業会議所に似た組織が設立された。1701年8月30日の法令によって、国王は国王参事会に代表を選出する権利をもつ町に同じような組織を立ちあげる条件を明示した覚書を国王宛てに提出するよう命じた。1702年から1714年までに7市に会議所が設立された。

 パリの代表は著名な銀行家の中から宮廷による選任となった。この地位は一時期サミュエル・ベルナール(Samuel Bernard)に帰したが、彼は会議を補佐する能力を示さなかったため解任された。商人または貿易商人のもう一人の代表はパリ6大商人組合(Six corps de métier)の中から選出された。商業参事会は通常、彼を筆頭の地位に置いた。しかし、内外の商業の基礎に通暁した人物を探すのは困難を極めた。

 多数の代表者の命名は財務長官によって承認され、海浜に面する町に対しては海軍大臣が承認した。彼らの選任については毎年改選とされ、こうした慣行は商業参事会の開設後しばらくはつづく。p.268  かくて、1705年4月2日、ラングドックの総書記(Syndic Général)ド・ジュベール(De Joubert)が商業参事会に席を占めた。彼の後任はデュ・ヴィダル・ド・モンフェリエ(Du Vidal de Montferrier;1705年)、つづいてド・ジュベール(De Joubert;1707年)、ド・ボワイエ(De Boyer;1708年)、1712年に貿易商人ド・ジリー(De Gilly)が選任されてからは1732年まで在任する。

 財務長官が必要と判断したときに召集し、商業参事会は10,700リーヴルの秘書局を併設していた。その職能は①提案事項についての詳細な記録、②覚書作成と議決に関する記録、③命令書の発送である。

 

3.商業参事会の権限

 「同参事会に提出されたすべての陳情書、覚書、陸運・水運の別を問わず国内外の商業および工業とマニュファクチュアに関して生起したあらゆる問題、諸困難」を討論し調査する。

 したがって、この会議はいかなる法令も発令できず、諸困難を一刀両断的に処理することは不可能だった。p.269  その権能は財務長官または海軍大臣に対し商業状況に関し説明することに限定された。州知事または巡察官により商業参事会または財務長官に送られた書類が会議にかけられた。書記局の許に週に1度参集する代表者たちは、討論に値すると思われる問題を調べることできた。王国政府が彼らの建議に従うかどうかはまったく自由であり、よって、その勧告を退けるのも自由だった。

 1701年に財務省に指揮官(directeurs)が設置されると、彼らも商業参事会の会合に参加するようになった。さらに、この会合に、ルーアンの大商人であり、総検査官(Inspecteur Général)の肩書をもつトマ・ド・グランドル(Thomas de Grandre)が参席した。彼は金持ちで慇懃な物腰の人物で、世界中のあらゆる場所と関係を維持していた。

 第1回会合は1700年10月27日にフォンテンヌブローのシャミヤールの城館でもたれた。それより後は毎週金曜日に議長ダグソーの邸宅で開催された。

 1701年になると、委員たちは商業の自由の長所と短所について十分に論議された覚書を作成した。その覚書は、当時横行していた思想についての精確な陳述と見なさなければならない。〔注:付録として収録あり〕商人たちはこの文書の中で商業の自由と関税率の引下げを説いている。p.270

 

4.デマレ(Desmarets)

 商業参事会は1705年に僅かばかりの修正を受けた。パリの警視総監として在職中のダルジャンソンが理事の資格で参加した。

 1708年、かつてベリンツァーニ(Bellinzani)と不幸を共にしたデマレ(Desmarets)が財務長官に就任した。アムロは1705年にスペイン駐在大使に赴任した。だが、商業監督官(Intendant du Commerce)の職は失っていなかった。ダグソーが彼を補佐したが、デマレは病気がちで会合をしばしば欠席した。アムロ・ド・グルネーがライバルとして控えており、さらに財政を支えるべく財務官としての方策を探しもとめる財務長官は新設の官職を設置することを考えた。その官職は200~300リーヴルで売却された。

p.271  ・1708年6月5日の法令:商業監督局に6つの委員会を発足させる。これは請願書の審理のための6部門に相応する。任官ごとに12500リーヴルを計上。

・1708年6月5日の法令:会合は毎週1回開催された。構成はダグソー、ポンシャルトラン、アムロ、ベシャメユ・ド・ノワンテル(Bechameil de Nointel)、p.272  デマレ、パリ出身の6人のギルド親方。このほかラングドックの書記官、既述の12人の代表者が含まれる。

・1708年10月9日の法令:この制度の職務の限界を定める。

 

5.1708年から1715年までの商業参事会

 参事会の会合にかけられる1時間前に警視総監ダルジャンソンが請願書を調べる。そののち、請願書を町の代表者の審理に付託するか、あるいは知事の周りの官僚に問い合わせるかを決めた。この場合、委員のうち1名は特段の責任を帯びることになる。すなわち、調書の欄外にその名称が記入される。

 その書類は商業省の代理人に送られるだろうか? やがてそれは検討され、その結論が商業参事会の記録簿に記入される。会議録を主催者の警視総監が署名し、その全部が財務省に送られ承認される。請願書の扱いは商業省の代理人に委任され、彼らが特別会議において検討し、次いで商業参事会の作業に関しても報告する。

p.273  こうしてデマレは商業参事会の権限を弱め、構成員の一人であり駐在地のスペインから帰国した(1709年)アムロに積極的に相談をもちかけることは避けた。財務長官は幾人かの商業省代理人、特にルーアンのメナジェ(Mesnager)とリヨンのアニソン(Anisson)と直接的関係をもちたがった。

 この会合は中央集権的機関としての役割を増した。そこの構成員は王国政府に宛てられた覚書、製造業者の請願、特権の要求等について検討した。

 アムロの支援と地方州の諸都市から派遣された使者の力によって意を強くしたダグソーは、この会議がデマレ財務長官に対し、産業を利するために執るべき方策をさし示すことを赦した。そして、この機能はアンシアンレジームの全期間を通して商業参事会において維持された。