ルイ十四世治下の大工業(6) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

ルイ十四世治下の大工業(6) 

 

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第15章 コルベール執政下におけるマニュファクチュア規制

 

1.コルベールの前任者

2.毛織物規制と毛織物工業の育成

3.亜麻布

4.絹織物

5.靴下・編物業

6.染色と染色業

7.つづれ織

8.絨毯

9.炭鉱

10. 製紙

11  レース

12. ブリキ

13. 皮革

14. 製糖

15. 石鹸

16. ルージとろうそく

17. 製綱

18. 絹ボタン

19. 瀝青と松脂

20. ガラス

21. 陶磁器

22. その他

 

p.155 1.コルベールの前任者

 コルベールは諸産業の創設者ではなく、歴代国王がおこなった前例に倣ったにすぎない。

・1270年:ルイ聖王の産業規制。パリ市長エティエンヌ・ボワローが工芸事典を著す。

・1383年:ジャン善王の規制:「各親方は隣接する親方の技法を侵害してはならない。」

・同様な規制は1256年、1581年、1597年の法令にも見える。ルーアンの毛織物製造に関しては1401年、1408年、1451年、1452年、1462年、1490年の布告にも同様の規定がある。また、ラングドックの毛織物に関して外国製品との競争から守るため免税措置が講じられている。

p.156 ・160?年:アンリ四世は鉄または青銅製のプレス機械を使っての過熱圧縮による艶出しを禁止した。

・1605年:アンリ四世治下における縮絨・染色・仕上げ・羊毛質・糸数等に関する規程。

・1625年:ルイ十三世治下で1605年規程を再確認。

 コルベールは歴代前任者が踏みならした道筋から外れることはない。染色は染色業者の専業とし、各織物業が為すことを禁止。全織物業の製造工程を細かく定めている。フランスの産業が諸外国に対し覇権を握るためには国家の助成が必須だ、と彼は考えていた。国民の側もおしなべて王権の助力を当てにし、織物の質・幅・染色等々をすべて政府に委託することに馴れっこになっていた。原料についても同じ発想にもとづく。

p.157  コルベールは工業に必須な原材料の確保につとめ、羊毛輸出を禁止するとともに、外国産原料の輸入には免税措置を執った。

 1698年のラングドックの州知事の言明:「コルベール氏は法令の題材を消尽してしまった。もはや執行のみが問題なのだ。」ドフィーヌ州のド・バンヴィル(De Bainville)も同じようなことを述べている。De Bainville, Mémoire pour l’Introduction du Daphiné

 「1661年から1672年までコルベールの権勢は絶大だった。すなわち、法典・布告などすべてが彼の署名をもつ」De Lucay, Les Secrétaire d’Etat, p.64.

p.158  コルベールの出す議定書は幾つかの名称をもつ:勅令(edicts)、法令(arrêts)、布告(ordonances)、特許状(lettres patents)

・議定書の冒頭の肩書:侯爵Colbert、国王参議(Conseiler du Roy)、財務省長官の命令(Commendeur de Grand Trésorier de Ses Ordre)、財務長官(Controleur général de Ses Finances)、国王陛下官房長(Surintendant des bastimens de Sa Majesté)、フランス工芸およびマニュファクチュア(Arts et Manufactures de France)

・議定書の奥付:商事に関する王参事会(Conseil Royal du Commerce)コルベールは1676年まで参与の地位にあった。

・1664年から1675年までに起草された議定書は2区分できる。つまり、王国全土宛てに適用されるものと、特定の地域に限定的に適用されるものとの2区分だ。

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2.毛織物規制と毛織物工業の育成

 毛織物工業はフランス工業中で最古のものである。たとえば、ラングドックは牧羊業で傑出していた。15世紀以前より、同地産の毛織物は外国で高い評価を受けていた。しかし、16世紀半ばになると、外国での評判は落ち、代わって英・蘭のものが突出しはじめた。アンリ四世は散々苦労して国内毛織物業の再興を企てる。産地はラングドック、プロヴァンス、ドフィーネ、プロヴァン(Provins)、サンリス、モー、ムラン、サン=ドニ、アミアンの諸地域である。地域は南仏、アルプス山麓、シャンパーニュ、パリ近郊。

 アンリ四世はフランスに毛織物業を蘇生させたが、続くルイ十三世はこの振興策を継承しなかった。コルベールがアンリ四世の企てを継承したことになる。その努力を象徴するのが1664年の法令である。

・1664年の法令:アミアン(Amiens)、スダン(Sedan)、ファレール(Falaire)、サン=ロー(Saint-Lô)、ボーヴェ、エルブーフ(Elbeuf)における良質の毛織物の製造を目途。1667年の記録では職人数の増大に見られるようにかなりの成果を挙げた。

・新設の機業地:オーヴェルニュ、アンベール、オリエルグ(Oriergues)、ノルマンディ、エクシェ(Ecouché)、アルジャンタン(Argentan)プロヴァン、アンボワーズ(Amboise)、ノジャン(Nogent)… p.160 また、1659年以降に毛織物マニュファクチュアがサン=ポン(Saint-Pons)とランス(Reims)に、そして、1662年にはブール・ド・ムシュー・コルベール(Bourg de M. Colbert)に設立された。

 トゥール(浮綾織)やアミアン(職工数7~8千)では上首尾な成果を挙げたが、すべての地域で狙いどおりに進んだわけではなく、幾つか頓挫したものもあったようだ。

・コルベールは毛織物産業の衰退を回避すべく予防的な警戒措置も講じた。一般法だけですんなり進むとは考えなかった彼は特別法を発令し、当該地域に適した製法を採用。幾つかの例を挙げておこう

 セヴェンヌ(Cevennes)…レヴァント向け毛織物の製造を禁止(品質の悪さを気遣う)

 アミアン(Amiens)・・・梳毛職人が劣悪の羊毛を使うことを禁止

 オーヴェルニュとラングドック…原毛を工程に入れる前に洗浄を義務化したり、原毛を湿気場所に放置したりすることを禁止  p.161

 ボーヴェ… 高級品紡織のために特別に指定された原料の保管者を処罰

・規格(幅と丈)と品質は厳格に定められていた。縮絨法や横糸と経糸の数も細かく規定。詐欺行為をはたらいた職人はマニュファクチュア巡察官に報告され厳罰を受けた。 p.162  製造者が誰であるかは織物の縁に明記されていたため、違反事はすぐに露見する。

・反物の縁についても毛織物は赤、サージは青とされた。p.163 

・毛織物業者による染色は原則的に認められたが、その場合でも法が定める彩色に依らねばならなかた。むろん、織物業者による染色を認めず、染色業への委託を義務づけた例もある。

p.164   ・コルベールは毛織物業の監視で満足することなく、在来製造法を完成させたいと願う実業家の奨励を念頭におき、助成金や機械を提供した。たとえば、1671年12月25日、オランダの製造法に倣って艶出しロール機械をリール市に提供。

 

3.亜麻布

 亜麻織物業は毛織物ほどには重視されなかったが、それでも、帆船の帆布として欠かせない品であったため、海港や水運の要衝地では意図的な育成策が図られた。

・1676年8月14日の布告:ノルマンディで織られた製品の丈と幅の規程。混紡の禁止。

・アランソン、ボージョレ、フォレ(Forez)、リヨネ(Lyonnais)における亜麻布関連の法令。

・最重視されたのは国王が搭乗する帆船の亜麻布。亜麻の耕作農民を精励したのみならず、それを扱う商人の品質管理や原材料の保管も気遣われた。p.165

・ドフィーネではレヴァント向け帆布に関する奨励

・ルーアン…亜麻と綿の混紡製品の輸出

・クタンス(Coutance)…コルベールは、アンリ四世時代に存在した、テーブル掛として亜麻と綿の混紡製品のためのマニュファクチュアを設立

・サン=カンタン…1604年に綾織綿布マニュファクチュアを再建

・パリ…1664年にオランダ風の上質亜麻布を製造する工場を設置し、最多で150人の職工をかかえたといわれる。

・亜麻織物業の盛んな地域はノルマンディ州とブルターニュ州(共に亜麻栽培地)。機業地を列挙しておく。

 アランソン(Alencon)、ヴィムティエ(Vimoutiers)、リジウー(Lisieux)、ラヴァル(Laval)、ル・マン(Le Mans)、マイエンヌ(Mayenne)、シャトー=ゴンティエ(Château-Gontiers)、ショレ(Cholet)、シャトー・デュ・ロワール(Château-du-Loir)、ル・ペルシュ(Le Perche)、モンターニュ(Montagne)、ロシュフォール(Rochefort)、バルブジウー(Barbezieu)、ロデ(Rodez)、ヴィルフランシュ=シュル=ロー(Villefranche-sur-Lot)、フィジアック(Figeac)、ドフィーネ(Dauphiné)、サン=ジャン(Sain-Jean)、クレミュー(Crémieu)、ラ=トゥール・デュ・パン(La Tour-du-Pin)ブルゴワン(Bourgoin)、ヴィエンヌ(Vienne)、ジャリュー(Jalieu)、リュイ(Ruy)、ヴォワロン(Voiron) p.166

 

4.絹織物

 絹織物のなかには金糸・銀糸と絹糸を絡ませた金銀織物と呼ばれるものがある。この産業はイタリア産品を模倣したものだが、17世紀の初頭においてはパリ、リヨン、トゥールが3大機業地だった。中でも傑出しているのがリヨンである。コルベールはこれに加えて4番目の都市ニームでの製造に力を入れた。

 歴代フランス国王はリヨンの繁栄に尽力してきた。1540年、1566年、1583年に特許状(Lettre Patent )を与えた。つづくアンリ四世は1605年に、ルイ十三世は1613年に、コルベールは1670年と1674年にそれぞれ特許状を出している。

 18世紀になると、リヨンは他都市に対し排他的に外国産の生糸を輸入する特権を享受し、パリ、トゥール、ニームの企業家も専らリヨン市場に絹織物を供給しなければならなくなった。

p.167  絹織物産業は商人と親方労働者は区別される。前者は後者に原料を供給し、後者は自宅において所定価格で種々の製品を織る。親方はむろん職人や労働者を雇い入れ製品生産に勤しむ。こうした2種の親方がいることが絹織物業の特質、つまり、問屋制家内工業の出現、これである。

 このようにして、親方商人が6人の監視員から成るギルド頂上部が形成される。6人の内訳は4人の商人と2人の親方労働者。

 1403年以降、上記構造のギルドがパリおよびフォブールの絹織物業、金銀織物業、リボン製造業に適用された。そして、同法は1514年と1585年にも復活する。

・1615年8月22日のパルルマンの法令

・1656年4月の法令:金・銀・絹製の毛織物業者は工場で働くことを命じた。p.168 リボン、飾り紐業に関する規定。

・1667年7月:コルベールはパリの街区、フォブール、郊外での金・銀・絹および混紡の織物に従事する労働者・親方・商人向けの規程と布告を公布したが、同法は毛織物製造の規程に類似する。同規程は縦糸、横糸の数、丈と幅など細部に亘る。

・1682年:トゥールの絹織物産業が活気を呈する。

・1667年以降、コルベールはトゥールの業者にリヨンと同じ法令を発令。p.169

・1682年:ニームの絹織物業者はリヨンとトゥール向けの法令に似た法令に服する。ニームでは特に靴下製造が盛ん。

・コルベール執政下で南アルプス山麓のプロヴァンスにペルテュイ(Pertuis)とトゥール=エーグ(Tour-d’Aigue)の絹織物業があり、後者は80人の労働者と9戸の水車小屋が所在。

・アブヴィルでアドリアン・リクアール(Adrien Ricouard)は3780オーヌを生産する特権工場を保有。

 

5.靴下・編物類

 サヴァリ商業事典(Dictionnaire du commerce, t.1, col.1025)によれば、「靴下・編物類商人が随意に購入または製造する縁なし帽、靴下と類似の他商品および製品、編物類という。」原料としては絹、羊毛、または各種の動物の獣毛を使い、機械を使わずに専ら編針を使うところに特徴があり、ほとんどが女子の手仕事。p.170

・この種の仕事は毛織物業とは異なり、厳格には規制されなかった。しかし、1527年以降、編物に従事する労働者はフォブール・サン=マルセル(Faubourg Saint-Marcel)に強力なギルドを結成し、少し遅れて靴下業者がこれに加盟した。

・サヴァリの述べるところによれば、「17世紀初頭のカン(Caen)近郊の貧しい錠前職人が一度にいくつもの網目を形づくる機械を発明したとの評判がパリに広まった。」

「これは神が創りたもうた最上の機械である」とペロー(Perrault)は書く。「大きな驚嘆が編物業者の間に拡がる。靴下販売が最も利益が大きかった。したがって、この新しい機械の出現によって、編物靴下が現われたときと同じく革命を決定づけるならば、ギルドはたちどころに破滅に瀕するかもしれない。というのは、発明の独占は発明家自身に帰属すると予想されるからだ。」

p.171 ・コルベールがこのギルドを保護したため、発明家はイギリス人にこの機会を売り払ってしまう。

 だが、この話をめぐって真偽論争が歴史家間に始まった。すなわち、A.フランクラン氏(『昔日の私生活la Vie Privée d’autrefois, t.3, p.297)によれば、この発明は1656年のことであって、コルベールは未だマザラン家の執事にすぎず、このような権限を保持していなかったはずだ、という。

p.172 ・靴下産業はフランスでは当時知られていなかった。ニーム人がイギリスを旅行した折に機械の仕組みを学び取り、これをフランスに1656年に伝えた。ブーローニュ森のマドリード城に工場を建造した、これが真相のようである。

 1656年、国王がマドリード城に行幸し、アンリ四世以来顧みられなくなった編物産業を再建したジャン・アンドレ(Jean Hindret)を顕彰したことは少なくとも確実であるといえる。そのうえさらに、このマニュファクチュアを仕上げする使命をもつもう一つ別の会社が設立された。だが、この会社設立が労働者の不評の的となった。曰く。ここでは親方になれないばかりか、個人的利得のために働く気になれない、と。かくて労働者は仕事をやろうという熱意をもたなくなり、マドリード工場長は国王に向かって「こうした悪意はきっと工場を破滅させるにちがいない」と言明。p.173  国王はこの不便宜を防止すべく、王国全土に次のような声明を発した。「親方およびギルドの資格において靴下、短上衣、ズボン下、および職人によって作られる他の絹織物の職人は法令を遵守すべし。」つまり、工場ではなくギルドに依るべしというわけだ。

 編物類製造に従事する手工業は非常に高くついた。それゆえ、「それを製造できる諸個人はそれを購入する力の弱さによって妨げられた。」国王は新産業の発展を促すために、200人の有力親方に各人が200リーヴルを提供するよう命じた。かくてその手工業で稼働していた機械一式が没収された。

・同時に、製造を規制する親方職が設置され、「短上衣、ズボン下、布靴、絹手袋にふり向けられる絹」は色よく染められた石鹸液に浸され、もつれ毛、粗磨き、鋼板、ケバをなくさなければならない。」p.174  法令の目的は良き踵の保持、絹靴下の重量は35オンス〔注:1オンスは28グラム〕の維持することにあった。違反の場合は没収のうえ、150リーヴルの科料。

・この法律は18世紀の初め、修正された。コルベールは靴下製品の宣伝に力を入れた。たむろする乞食に仕事を与えるべく、幾つかの町でギルド企業の開設に尽力した。

・1669年、コルベールはオクセールに靴下・編物のマニュファクチュアを設置する。設立者で技師のカミュゼ(Camuset)は、同市助役が「幾つもの手工業の設立のために必要な基盤を築く」のを刺激するため、自らの意志でモンタルジ(Montargis)を訪問した。当時、ブルゴーニュ議会はカミュゼの使命を成就するべく、あらゆる便宜を供する委任状を受け取った。彼のおかげでルーアン、モントーバン(Montauban)、イスーダン(Issoudun)、コンピエーニュ、アンジェ、クレルモンに靴下・編物業が興り、コルベールの死去前に大盛況を呈した。

 マルセーユ:羊毛の編物工場数は15か所、2千人の労働者を雇用。

 ヴィトレ(Vitré):羊毛の布靴下マニュファクチュア。