ルイ十四世治下の大工業(1) | matsui michiakiのブログ

matsui michiakiのブログ

横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

松井道昭の抜粋ノート

ジェルマン・マルタン著『ルイ十四世治下の大工業』

German Martin, La Grande Industrie sous le Règne de Louis XIV (plus  particulièrement de 1660 à 1715), Paris, 1898.

 

p.7

序文

1.17、18世紀の大工業とは何か

2.「マニュファクチュア」という用語

3.王立マニュファクチュア:ゴブラン、サボヌリ他

4.王立マニュファクチュア:奨励金と独占

5.コルベール時代のマニュファクチュアの建物に関する記述

6.特権マニュファクチュア

7.小工業者:その状態と活動

 

1.17、18世紀の大工業とは何か

 私が1660~1715年のフランスの大工業史を書くために使用する諸古文書類はまったく‘Industrie’という用語を含んでいない。じじつ、原料を変形する技術は当時‘Manufacture’という名称をもって表示された

 ‘manufacture’という用語は1730年刊の「一般および特別規制法令集le Recueil des Réglements généraux et particulières」でしばしば使用されたが、p.8 ほとんど専ら「製造fabrication」と同義語である。「製造業者法典Code du fabricant」はこう言っている。「マニュファクチュアは土地の生産物を利用して社会の有用物に資する」、と。ここにおいてマニュファクチュアという用語は労働者を働かせる場所だけでなく、「製造fabrication」一般にも用いられていることは明瞭である。

  だが、上記の解釈はあまりに狭すぎる。

 

2.「マニュファクチュア」という用語

 サヴァリー(J. Savary)によるマニュファクチュアの定義:ある種の製品を製造し、同一種の商品を作るために多数の労働者または職人が集められる場所…  Savary, Dictionnaire du Commerce, t.III,col. 251, Paris, 1741, 3vol., in-4.

 ローラン・ド・ラ・プラティエール(Roland de la Platière)のよれば、「大量製造」「その場所」「製品」を意味するマニュファクチュアはとりわけ小工業家や小商人に対し、および彼が購入する生産品に対して適用される技芸(arts et métiers)の対語である。

 

3.王立マニュファクチュア:ゴブラン、サボヌリ他

 サヴァリーの2分法(Savary, Ibid., cd.253)

p.9  ①今日、われわれが国立マニュファクチュアと呼んでいるものに類似。すべての生産物は国家に帰属。賃金は国王によって支給される。労働者は国王のために働き、それゆえに「国王に宣誓を誓った労働者Ouvriers du Roi jurés」と呼ばれる。工場は「王の家des Maisons royales」とか言われ、国民経済の発展に寄与するというよりは、むしろ国王の「楽しみplasirs」のために創られた施設である。ゴブランとサヴォヌリが主なもので、もはやその数は少ない。

②王立ではなく、個人起業家に帰属するもの。パリにはなく地方に所在。国王は企業家と労働者に数多くの特権を与えた。

p.10 (イ)純粋に名誉的なものとして…工場の入口に「Xの王立マニュファクチュア」と記し、王室の紋章を刻んだ看板を掲げる。工場の表門には国王紋章をつけた門番が常駐。

(ロ)マニュファクチュア経営者(個人または子孫)に対して貴族の称号を授与。外国人には帰化特許状を授与。

(ハ)年金付与

(ニ)無利子資金の貸与、工場敷地の提供、機械設備費の全額または一部の国庫負担。

p.11 18世紀の中頃、ホーカー(Holker)というイギリス人はルーアンに工場を設立したが、シリンダーと縮絨機械を国王に提供してもらった。

(ホ)塩税ギャベルの免除

 

4.王立マニュファクチュア:奨励金と独占

(ヘ)独占権と下賜金  p.12

 17世紀末、純金ラシャの製造は南仏のラングドックのみに特認された。また、1669年、アブヴィルのヴァン・ロベ会社に一切の規制なしにラシャ染色を許可。

 下賜金は次の3タイプに分かれる

 <1> 工場または敷地が起業家のものでない場合、王がその賃借料を負担する

 <2> レヴァント向け純金ラシャの輸出品は1包ごとに10リーヴルを支給

 <3> 原材料の輸入関税の免除 p.13

 これら諸特権は企業家の怠慢の基礎となる。たとえば、或る者は現金での奨励金を取得するため王立マニュファクチュアの称号を要求。そしてまた、企業家たちは互いに示し合わせ、他の製造業者が製造するのを邪魔しようとした。たとえば、1715年11月21日、商業会議所の調査によれば、ラングドックの王立マニュファクチュアの所有者が「他のすべての者がレヴァント向けラシャを織るのを妨害した」。

 

5.コルベール時代におけるマニュファクチュアの建物に関する記述

 クレルモン=レロー(Clermont-l’Hérault)近郊ヴィレルヌヴェット(Villenouvette)マニュファクチュアの特権に関する記述によれば、1678年、王立マニュファクチュアに加えられた。p.14 ここには4つの門から突出する城壁が設置された。

p.15

6.特権マニュファクチュア

  マニュファクチュアに「王立マニュファクチュア」の称号はもたないが、p.16 その施設は「特定地域における製造の独占を含む」特権を有する。これを特権マニュファクチュアという。たとえば、1666年のリヨンの例:ピエール・リゴール(Pierre Rigord)は石鹸の製造販売の排他的独占を獲得した。こうした恩典は商業一般に有害な結果を招く。特にマルセーユの商業で有害だったので、コルベールは1669年に特権を取り消した。ラングドックでも同じような不評を買う声が挙がった。

 独占をめぐる排他的特権の要求は特に18世紀に頻発するが、コルベール時代においてもかなり声が挙がっていた。コルベールは稀な条件のもとでしか認めなかった。彼は「王国内に設置されたマニュファクチュアの諸特権は常に商業と公共の自由に反する」と考えていた(Clement, Ⅱ, 765)。

 不幸にして彼の後継者はそうは考えなかった。特権は個人に与えられる場合と団体に与えられる場合とに分けられるが、この恩恵は小生産者を圧迫する傾向がある。「小生産者は王立マニュファクチュアの所有者に較べ、劣勢であるにもかかわらず、彼らの不断の努力により競争相手を上まわる生産額を挙げている」。

p.17 

7.小工業者(petits fabricant):その状態と活動

 17,18世紀にはほとんどすべての州には小工業者しかいなかった。大都市では時どき、小工業者の数は数千に及んだ。著名な例をあげておこう。

 リヨン、パリ…金銀織物

 ルーアン、スダン、エルブフ、ランス…毛織物

 カン…亜麻布

 農村でもおそらく多数の小生産者がいたであろう。農村の小生産者は絶対的な自由を享受したのに対し、大都市では彼らは監視と宣誓ギルドの配下に置かれていた。p.18

 ラングドック織物の生産額(1703~1712)に見る小工業と大工業の比率: 小工業(17,710反)vs 大工業(32,753反)

 ラングドック織物の生産額(1713~1722;この期間中は特権強化)に見る小工業と大工業の比率:小工業(51,506反)vs 大工業(27,680反)

 

 

第1部 コルベール主義

p.19

第1章 コルベール以前における大工業

1.ルイ十一世とフランソア一世

2.イタリアの影響

3.昔の規制

4.16世紀末の工業衰退

5.アンリ四世のマニュファクチュア再興

6.ラフマとシュリー

7.最初の商業会議所

8.ルイ十三世とリシュリュー

9.新興工業の衰退

 

p.20 1.ルイ十一世とフランソア一世

 ルイ十一世…トゥールに絹工業を設置

 ルイ十二世…1418年7月、ニームに毛織物と絹織物のマニュファクチュアの設置を認可

 フランソア一世…フォンテンヌブローに絨毯工場、サンテチェンヌに武器マニュファクチュアを設立

 

2.イタリアの影響

 16世紀からイタリアから強い影響を受けはじめる。

 イタリアから絹織物、金銀織物を製造する労働者が来訪し、フランス国王はその身辺に巨費を投じて重要なマニュファクチュアを設立し、労働者を集結させる。

 

3.昔の規制

 1508年10月20日:ルイ十二世の布告

 1560年:オルレアン議会宛てに交付されたシャルル九世の規制 p.21

 1582年2月と12月、1584年5月:アンリ三世の布告

 

4.16世紀末の工業衰退

 上記3で生れたばかりの工業は16世紀末にはほとんど消滅。1597年の会合において貴族はこう述べた「騒動が発生する前は現在の4倍もの毛織物工業が存在した。その証拠にパリ東郊ブリーのプロヴァン(Provins)の町には1800人の業者がいたが、今や4人しかいない。」

 

5.アンリ四世のマニュファクチュア再興

 

6.ラフマ(Barthélemy De Laffemas)とシュリー(Antoine De Sully)

 シュリー…農業振興、ルーアン、ランス、ニームの亜麻布と毛織物

 ラフマ…奢侈品工業の導入:

① 商業会議所の設置

② 外国人職工の帰化認可

p.22 対象産業:製鉄、毛織物、ちりめん、サテン、ダマスク織、染色、ガラス染料、レース、絨毯、ガラス、クリスタル

 

7.最初の商業会議所

  構成員:国家参事、パルルマン、会計院、税務局

  p.23 1626年にリシュリューが再興

 

8.ルイ十三世とリシュリュー

   リシュリューはアンリ四世の治績の再興につとめる。

 1630年2月9日: サヴォヌリ―病院を設立

 建設大臣ド・フルシー(De Fourcy)は絨毯販売所を設立

 1630年4月13日:貧民にして身体壮健なる者を収容する施設をトロワに設置

 リシュリューの狙いは、外国貿易を育成して外国と対抗するところに定められていた。彼は外国との競争のために軍隊付きの大会社を設立した。

p.24

9.新興工業の衰退

 リシュリューの死後、ルイ十三世は彼の政策を踏襲したが、ルイ十三世の死去とともに商業会議所と工業振興策も消滅する。かくて、アンリ四世の治績は足跡だけを残すこととなり、既設のマニュファクチュアまたは規制は破壊または縮小された。メティエも勢いを失う。

 フランスの退勢とともにイギリスが海外市場を占拠しはじめ、オランダがフランスの毛織物を模倣し、事もあろうにフランス市場で販売する始末。地方ではラングドックの毛織物業も衰退し、リヨンの絹織物業は残存こそしたが、往時の力を喪失し職工数も激減。

 そのほか、鉄鋼業、冶金業、製綱業、建設業などは消滅の瀬戸際に立たされる。