シュリー、コルベール、テュルゴー(4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

シュリー、コルベール、テュルゴー(4)

 

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第3章 宗教戦争前におけるフランスの都市

 

1.歴史における都市の重要性

2.16世紀における都市の富と繁栄

3.貿易

4.ブルジョア階級の富

5.労働者団体

6.初期のストライキ

7.工業に従事する婦人

8.生活水準

9.住居・食糧・衣料

10.政治勢力としての都市の没落とレヴァントにおける富の増大

11. パリの例

 

1.歴史における都市の重要性

 16世紀にフランスを旅行した者はフランスの都市、特にパリの規模と美観に眼を奪われた。1506年、マリーノ・カヴァーラ(Marino Cavalla)はパリの巨大人口と、首都に法律家を引き寄せるパルルマンの重要性について、そして、大学生の数の多さに驚嘆した。オルレアンとルーアンはパリに次ぐ大都市だった。この同じ著者はオルレアンをパリに次ぐ大都市と呼び、ダーリントン(Dallington)は1592年に諸都市の様子について述べる。

ディエップ:著名な港湾都市

ボルドー: ブドウ酒貿易

トゥール: 果実と絹織物業

マルセーユ:エチオピアの山奥とまで取引する商業の一大拠点

リヨン:  ソーヌ地方と貿易、イタリア商人とも通商

p.36  16世紀前半に工業と貿易が大いに発展した。しかし、そうした都市がたぶんに農村的だったことに注意しなければならない。都市の重要性のひとつは、そこで大規模な定期市が開かれるところにあり、これら定期市はふつう家畜や農産物の販売で満たされていた。

オルレアン: 魚類、鳥類、良質のブドウ酒、木材

サンス:   油脂、クルミ

ネヴェール: 牧草地と家畜で有名

ボルドー:  ブドウ樹苗

 

2.16世紀における都市の富と繁栄

 16世紀前におけるフランスの都市は政治的な重要性を帯びていた。12世紀に北仏の宣誓コミューン(Communes jurées)と、南仏の領主都市(Consulates)はほぼ完璧な自治を獲得していた。そして、それらは封建領主と同じく、強力で危険な領主に協力した。しかし、その独立性の時代は短期に終わった。中央権力の成長は領主権を圧迫しはじめるのと時を同じくして都市の自由をも奪った。それまで都市は特権を保持していたが、独立的な自治も失った。やがて百年戦争となり、発展と産業発展が阻害された。カレーではイギリス人のためにフランドル貿易からフランスが切り離され、ラングドックの黒太子による襲撃は南仏の諸都市の破壊と壊滅を意味した。ヘンリー五世(英王1413~1422)の戦争は北仏にも困難をもたらした。15世紀末に内戦が終わると、町と工業は復興し、商業も急速に発展した。国王は都市の富を保護し、貴族に対する均衡勢力として市民を支持する準備ができていた。進歩は政治的である以上に経済的なものであり、そして都市が王権を簒奪したり、国家が任命した裁判官や財務官を排除したりしないかぎりという条件づきではあったが。

p.37  都市工業は何も目新しいものではなかった。それは当時大きな勢いがあった。なかでも織物はラングドック、ピカルディ、イル=ド=フランスで作られ、トゥールやリヨンでは絹織物が、ノルマンディでは陶器類が、サンジェルマン=アン=レーではガラスが製造され、パリ、リヨン、ボルドーの印刷業も有名となった。

 

3.貿易

 パリの手工業ギルドの数は平時における工業の性格を示す。上質の網細工から厚手のズックまで、あらゆる種類の亜麻マニュファクチュアが存在した。絹織物、鞣し皮、武具製造、製靴、ストッキング・帽子・手袋、印刷等もあった。これらの商品を売るべく極めて多数の店舗があり、旅行者の注視を引く多数のパン屋や菓子屋等もあった。工業のみならず、国内商業も発展しつつあったが、商業は一般に繁栄しつつあり、多数の国家がフランス商品のために港を開き、その見返りとして自国産の商品をフランスに送った。イタリア戦争は華麗な工芸品や建築物と同じく贅沢織物への嗜好を刺激した。… これらの物品は国内で生産されるか、または外国から輸入された。

 インディゴ、コーヒー、タバコ(オリエント由来)

 奢侈品貿易の拠点としてのリヨン(4大定期市に含まれる)…ドイツやフランドルの商人はソーヌ川渓谷を経由して渡来。スペイン商人はトゥールーズを経由し、サン=ジャン=ド=リュッツ(Saint-Jean-de-Luz)およびバイヨンヌから来た。

p.38  対イギリス貿易も順調に発展。イギリスからは羊毛と鉄がもち込まれ、フランスからはブドウ酒が主要な輸出品となり、ブルターニュからは亜麻布、塩その他物品が送られた。

 対オランダ貿易:フランスからはブドウ酒、塩、乾燥果実が、オランダからは織物、レース、つづれ織がもち込まれた。

 16世紀末の戦争にもかかわらず、イタリアはフランスに向けてあらゆる種の奢侈品を送った。対スペインも貿易も繁栄する。ポルトガルやドイツとの貿易も然り。スペインは対フランスと交戦中でさえフランス商品を必須とし、その交換に干ブドウ、オレンジ、アーモンド、油脂などを送った。これらのことすべては都市生活の活動の昂揚を意味するとともに、大型船が建造され、大型船が入港できるほどに深い港が建造されたことを意味する。マルセーユは良港ゆえにではなく、対オリエント貿易が盛んであったゆえにフランスの表玄関となった。1536年、フランソワ一世はトルコと通商条約を締結し、フランス商人に対しあらゆる便宜を提供した。そして、アルジェ、テュニス、モロッコ、ギリシアとの間におこなわれた頻繁な貿易は主にマルセーユを通しておこなわれた。仏西部では新大陸の発見は徐々にノルマンディやブルターニュの船員たちの野心を刺激し、北米海岸での漁業を思い立たせ、少なくとも新世界との通商の端緒となった。

 

4.ブルジョア階級の富

 都市や貿易が発展するにつれてブルジョア階級が社会的上昇を遂げ、貴族階級と競りあいを始めた。そして、彼らはしばしば富や生活の派手さの面で貴族を凌駕した。初期にはボルドー市民はガスコーニュにおける最も富裕な市民であり、イギリス国王でさえ彼らから借金するほどだった。今や、都市の上層階級はフランス全土に亘って急速に繁栄しつつあった。富裕な市民は大邸宅に住み、たとえばジャック・クール(Jacques Cæur)はブルジェに住んでいた。p.39 一方、ブルジョアジーは農村で零落した貴族から土地を購入し、新しい奢侈品と新たな慰安の観念が示しうるマンシオン〔注:戸建て住宅〕を建造した。しかし、こうした富の増大や発展にもかかわらず、貿易と工業はフランスにおいてけっして名誉を与えるものではなかった。貴族層にとっては職業として貿易に手を出すことは屈辱的行為と見なされ、政府は奢侈禁止令 ― 概して効果はなかったが ― によって市民やその妻が絹やビロードの衣服の着用することを禁止した。これらの衣服は旧貴族が着用すべきものとされていたのだ。パリにおいてさえ都市の首長は商人頭(Prêvôt des Marchands)であり、6個の主要な貿易商人ギルドが首座に位置していた。商人は領主よりも低身分と見なされていたのだ。しかし、16世紀になると、その工業的な部門から市民を困惑させる運動が巻き起こり、農村でも新貴族つまり、法服貴族(Noblesse de Robe)が形成されるのである。そのことによって特権階級の数が膨張し、それが時たま財政を富ましていた国家を貧乏に追いやる。というのは、新貴族は旧貴族の免税特権を要求し、その代わりに将来的にタイユ支払いを免除されていくからだ。この運動は官職売買、地代の売買の結果として生じた。自分の懐をつねにいっぱいにしておこうとしたフランソア一世はあらゆる種の官職(特に法務官と財務官)を売却するようつとめた。現存のポストから得られるカネに不満だったので、彼はまったく必要のない、かつしばしば業務を混乱させるような、新種の数えきれないほどの官職を創設した。一例を挙げると、トゥールーズのパルルマンは1515年に24人の成員をかかえていたが、1519年には84人に膨れあがった。同じ時期のボルドーのパルルマンは20人から80人になった。幾らかの実例では1つの役職に2人が就き、彼らは交互に働いた。このことは非常に恐るべき軋轢をもたらした。p.40 地代収取権の売買も国王の資金需要から生じたもので、多くの市民は彼らがもっていた資金のために受け取った利子で生計を立て、それを政府の財政に注ぎ込んだ。官職売買制と貴族特権の付与は後世のあらゆる改革者を手こずらせた最も大きな障碍となった。

 16世紀には国内工業を推進するための何らの工場もなかった。仕事は家宅や仕事場でなされ、貿易は手工業ギルドや同業組合の手で組織され、それぞれが規制を受けており、都市やその近隣地区で工業・商業の独占権を保持していた。だが、ギルド制は一般的なものではなかった。幾つかの都市 ― たとえばリヨンやボルドーが著名だが ― は長く町の工業に同業組合が組織されないままにあった。市当局自体がすべての仕事に責任をもち、必要な規制を課していた。だが、15世紀(1461年)になると、ボルドーに手工業ギルドが出現する。リヨンは16世紀初になっても工業の自由な都市だった。だが、16世紀に入ると、鍛冶屋、理髪業、鍵職などが組織された。しかし、他の商業は依然として自由なままだった。生じた結果は以下のとおり。外国の職人や職工 ― 彼らはふつう手工業ギルドによって排除され ― は難なく都市に流れ込み、彼らに技芸を教え、手工業を興して富裕になった。しかしながら、フランス国王は都市のギルドを好む傾向にあった。ルイ十六世はこうした王の政策を導入した。というのは、彼はそのことによってギルド成員からの支持を獲得し、また、すべての商業の発展を促進したかったからだ。彼は熱心に組織化と統制のために情熱を注ぎ、貴族と教会と並んで工業を国王の四輪馬車の車に縛りつけようとした。

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5.労働者団体

 貿易がギルドの手中において組織された都市は国王宣誓都市(Villes jurées)として知られるようになった。同業組合制度はしだいに全国に普及するようになる。しかし、幾つかの産業では依然として自由であり、アンリ四世治世下でもさほど拡がらなかった。農村でさえ農作業のために同業組合を作ろうという考えがまったく知られていなかったわけではなかった。小さな共同体は何らかの農村ギルドの性格をもち、そこでは成員は親方を選出し、仕事を共同でおこなうために組織化が必要だった。アルザスではブドウ業者は一種の組合をつくり、いかなる人も厳重な検査をパスしないかぎり、そして、穴掘り、植樹、切断、縛りつける過程の必要事を熟せないかぎり、また、ブドウ樹やブドウ園の識別ができないかぎり、ブドウ狩り(Vigneron)として認められなかった。パリはブドウ業者と庭師のギルドをもっていた。ブドウ狩りはルイ十六世の時代から存在し、4人の役人の監視下にあったが、役人は親方職人によって選ばれた。成文律をもつにすぎなかった園丁はアンリ四世の時代から古い同業組合であることが要求され、最低4年間の徒弟奉公をすべきという厳格な規制が課されていた。親方を代表して4人の監視員が選出された。しかし、一般に農作業は自由で組合は結成されなかった。そして、農村工業のある処では各仕事場で追加的業務として営まれ、農民たちは野良仕事を終えた夕方とか、野外仕事がしばしば不可能になった冬の短期間おこなった。あらゆる種の修理、機織り、紡ぎ、レースの製造は実際にこのようにして作られ、それらは主に村自体の需要に応じるか、あるいは隣の町の定期市で売られる商品を生産した。こうして勤勉な農民たちは余分なカネを得るのである。

 各種の商業のためのギルド組織の実行は非常に疑わしい利益をあげた。それは進歩を抑え、僅かの大家族が特殊な産業の独占を取得するのを可能にし、都市と都市のあいだ、商業と商業のあいだに競合関係と軋轢を拡げる傾向にあった。p.42 とりわけ、職人や徒弟に対する親方の専横をもたらした。というのは、規則が適正であっても、濫用は可能だったからだ。一方、賃金がかなり高い割合に定められている一方で、物価上昇が生活水準を維持するのに不十分な場合、賃金は固定されたままのことが多かった。貿易商ギルドまたはジュランドはそれ自身の規制をもち、君主からその承認を得るのが通例だった。このことは、(君主が)その規則に干渉でき、規則の数を付加できることを意味した。国家にとって特別な産業に関する規則を作成することや、ギルドがそれをどう実行したかを監視することのほうがこのような産業が独立し組織される以前の状態よりも簡単だった。概してこれらギルドは親方または複数の親方、下男(Valets)や職人(compagnons)から成り、後二者は親方の地位まで昇進できない賃労働者であり徒弟であった。ギルドの規則は各親方がもつべき徒弟の数、これら徒弟が商業について研修を受けるべき期間の長さ、彼らが親方の地位に昇進する前に果たさねばならない試作について定めていた。理論的にはこの計画は悪くはなかった。親方は徒弟に食事を供し、衣服を与え、教育しなければならなかった。そして、規則は彼が適切に訓練しうる以上に徒弟をかかえることを許されなかった。その仕事は高度のものであり、どんな人も自分自身の仕事を真に適正にやり遂げる以前には昇進できず、商人の有能な親方となるに相応しいことを示す試験に合格しなければ親方に昇進できなかった。しかし、実際にはその結果はさほど満足のいくものではなかった。親方たちの教育方法は相互に異なり、或る徒弟は極端に重労働に服さねばならなかったばかりか、それからほとんど何の利得も得なかった。試験はしばしば不公平に実施された。親方の子弟が試験に合格するのは容易だったが、他の者の場合は難しかった。時には金持ちの子弟は幾つかのごまかし手段を使って国家から親方職を購入できた。p.43 特定商業に就く親方職は少数の富裕な一族の手中に掌握される傾向にあった。親方試作はある特殊な条件のもとで作らねばならず、時に特殊な材料を用いて作らねばならなかった。通常の徒弟にとってそれを試みることは大変高価についた。しかも、作ってはみたものの、出来栄えがいかに立派であっても親方になることは不可能だった。

 ValetsまたはCompagnonsの階級 ― Compagnonsという呼称は16世紀になってふつう用いられるようになった ― は徒弟の上位、親方の下位に位置した。幾つかの貿易ではすべての者が通過しなければならない階位だった。いかなる者も徒弟から一直線に親方に成りあがることはできなかったが、長いあいだCompagnonsとしての地位に居つづけなければならなかった。また、ある場合にはCompagnonsは徒弟に割り当てられた時を満たす労働者であるが、一定の理由で試験に落ちるか、または傑作を制作できない者であった。したがって、彼の余生はCompagnonとしてとどまったであろう。これらの職人は非常に雑多な階級であり、しかも賃金を受け取ったmものの、その賃金率はギルド規制によって定められていた。資本こそ不十分だったにせよ、彼らはかなり裕福に暮らしたものと思われる。自由な産業で彼らはむろん完全な独立した労働者であり、好きなところを歩きまわり、仕事を探すことができた。どんな場合でも彼らは徒弟とは異なって独立していた。なぜというに、徒弟は宣誓によって服従を強いられ、仕事から離れるとき、このように仕事から離れるのは、たとえ病気にかかっていても規則に則って重い罰金を支払わねばならなかったからだ。16世紀(1572年)になると、興味深い試み、すなわち、ある鉱山を国営化する試みがなされた。鉱夫は国費で宿所を供され、扶養され、年俸を支給され、自由に診療を受けることができた。不幸にしてこの試みはその年が終わらぬうちに頓挫し、国家は現行のギルド規制をバックアップし、p.44 親方の利益を図るべく労働者を規制し、固定賃金率でもって多かれ少なかれ単一の制度をつくることで満足した。

 ギルドまたは国家によって労働時間が定められ、監督の行き届かない家内労働については非常に厳格な規則が課された。しかし、これらの労働時間は驚くほど長く、一定数の臨時的な休日を与えた教会の祭典があったため、労働日に対して尋常ならざる12~18時間の補いをすることができなかった。休日は支払停止を意味し、冬季の給料は照明の欠乏が日中の労働を必然的に短縮したところでは冬季の産業では比較的安かった。幾つかの商業では国家は夜業を禁止した。なぜというに、火事の危険性があり、光が不十分なため仕事がうまく捗らなかったからである。パリの手袋製造業者は、上品さというよりもむしろ暖を取るために必要だと言いつつ、より多くの手袋が必要だと述べたとき、冬季にはろうそく光の明かりで仕事をなす特別の許可を願い出ている。本屋も差し迫った事情のあるときは徹夜作業を許された。1567年、パリの建築業者に向けて命令が出された。それによると、夏季は午前5時~午後7時まで、冬季は午前6時から午後6時までと労働時間が定められていた。印刷業者は朝2時に始業し、夜の8,9時に終業したといわれる。17世紀になると、一般的傾向として労働時間は短縮どころか延長された。1666年の布告によれば、町のチンドン屋は午前3時に労働者を呼び集めるよう要請されたと述べている。