1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史<4>
(Ⅵ 百年戦争期)
力を増した王権は行政的・軍事的性格を強めつつあった。しかし、政治と戦争の代価は高くつき、そのせいで徴税を増やさねばならなくなった。その大部分を負担したブルジョアジーは、自分らが提供する貨幣を浪費するやり方に不安を覚えた。
ところが、ヴァロア朝の成立とともに王政は方向転換する。貴族の中から選ばれフィリップ六世となったこの封建領主は地主貴族の政府を自任し、恩賜によってブルジョアジーを味方につけるどころか、むしろ、彼らを警察の一般法に服従させるやり方のほうを望んだ。黒死病流行が終って労働者不足と全般的な物価騰貴が顕著になると、ジャン善王(フィリップ六世の子でジャン二世Jean le Bon)は1351年2月の著名な布告を通してこの法律を実行した。すなわち、ジャン王は商人のために賃金と商品価格に最高価格の限度を定め、ギルドの独占を築くための障壁を取り除くか、またはそれを弱めた。独占は残ったが、かくてブルジョアジーと王権の同盟は危機に瀕したのである。
フランスの騎士軍はイギリスの民兵を前にして国王と王族を取り残し逃亡するという不始末をしでかした。ポワティエ戦いでの大惨敗ののち、それはまた、騎士軍が身代金を支払うために臣民に圧力をかけた時と重なるのだが、三部会ですぐに財政的対応を要求されたブルジョアジーは騎士軍の実情を厳しく追及した。当時、パリ市長(Prévôt des Marchands)には大胆なエティエンヌ・マルセル(Etienne Marcel)が就任しており、若い王太子は何ら精神的威信をもたなかったため、ブルジョアジーが政務を執った。p.893 1357年3月の布告は国家によって指名された議会、貴族、僧侶、ブルジョアジーによって構成される会議をもって議会制度をフランスに与えたが、それは財政問題を処理するためのものだった。さらに三部会はその投票によって税徴収を命じる権限を独占的に保持していたが、直接にそれ自身でその権限を行使した。もしこのような憲法が実施できた ― たとえ部分的にせよ ― フランスは別の、おそらくもっとマシな運命を辿ることになったであろう。しかし、その憲法はあまりに早く登場したし、それ自体あまりに過激かつ非実際的だった。騒乱と内乱で2年を費やしたのち、エティエンヌ・マルセルの殺害がこの革命的企図を頓挫せしめた。パリ市民 ― 彼らのみがその騒乱に最後まで支持していたため ― 再び屈服させられ、シャルル五世〔ジャン善王の子1364-80〕の治世において平常の執政と軍事的勝利を以て、労働にとって好つごうな相対的な静穏が回帰した。
日ごろから切迫した貨幣の必要を感じていたため、シャルル五世の祖父、就中、父は貨幣改鋳によってそれを取得しようとしてフィリップ善王によって示された悪例を真似て、それより遥かに好ましくない結果をもたらした。シャルル五世自身、彼が摂政を勤めていたとき、この方法に訴えたことがあった。百年戦争のあいだ、108種の金貨と179種の銀貨が数えられた。高低差こそあれ、ツール=リーヴル貨は14世紀から15世紀半ばまでのあいだに金属部分の半分を喪失した。このような改鋳は商業にとって極めて有害で、日常的な売買活動を妨げるとともに長期的契約の障害となった。
課税は非常に重荷となり、シャルル五世の前任者の治世以上に彼の治世下のほうが重くなりさえした。しかし、課税は必要であり、次代の初めにその廃止を要求したマイヨッタン暴動に妨げられた摂政はローズベク(Roosebeke)の戦勝が摂政に力を与えたとき、大急ぎでそれを再課税し、民衆暴動を誘発させる恐怖についてすべてのブルジョアジーに仕返ししたのだ。つまり、パリ市とギルドのすべての特権は抑圧され、教団も同じ運命に遭った。他の多くの大都市も同じような厳しい取扱いを受けた。
貴族によって指揮された党派としてのアルマニャック党またはブルギニョン党はパリ民衆の様々な党派に支持を求める必要を覚えた。市は再建され、解体を免れたギルドはその合法的存在を回復した。ブルギニョン党がパリを陥れ支配した。そして、その領袖皮剝ぎ人(Caboche)がパリを恐怖の淵に陥れたのは肉屋と小手工業者であった。p.894 この過激な民衆暴動に憤慨した上層ブルジョアジーの支持を得てアルマニャック党がパリ市を劫略したとき、精肉卸組合Grande Boucherieは廃止された。大学で準備された1413年5月の改革大布告を押し流した暴力的反動が生じた。その2年後、ブルギニョン党が再入城し、虐殺者の首長におさまったのは死刑執行人だった。精肉卸組合が再建された。パリ史の痛ましい時代は1420年に、この町に英軍が侵入したことである。
定期市を頻繁に訪れ、その商品を行商する商人たちは封建領主と王権のどちらからも庇護を受けなかった。彼らは、いうならば自力で武装しなければならず、しばしば領主格として、また、ある時はあらゆる政治権力から独立して己を防衛した。裁縫業者の首長Rois des Merciersは商人を保護しなければならなかった。しかし、彼らは無政府時代にも業務を遂行したが、王権が商業的警察を独力でなしうる力を保持していたときに彼らをうまく抑圧した。彼らはこの王権に対しつねづね疑念を懐いていた。
当時の首都は人口・製造業・商業の大部分を失っていた。英軍がパリを退去せざるをえなくなったとき、市場は空っぽであり、2万戸以上の家屋が放棄され、その多くは廃墟と化していた。
このことはパリにとどまらない。戦争が荒らしまわったのは、フランドルのような僅かな州を除くフランス全土においてだった。農村における軍隊や兵隊崩れの乱暴者の徒党は、それらが交戦国の戦役のために従事しなくなったとき、平地を思うままに荒らしまわったため、ブルギニョン党とアルマニャック党の争闘中、城から城へ向けての私闘は、シャルル五世が夢として描いた事業に情け容赦ない害悪をもたらした。それ以前よりかなり増大していた王国の住民数は百年戦争のあいだに激減し、おそらく半減したものと思われる。富もまた減少した。大部分の畑地はもはや耕されなくなり、耕作農民もいなくなった。土地価格は大幅に下落する。道路の安全はもはや保障されなくなり、商業は大部分の諸州において阻害された。
荒廃からの再興と公安の再建、職人と商人に特権を与えることによって工業と商業の発展を促さねばならないという責務はシャルル七世とルイ十一世の肩の上に降りた。常備軍の開設 ― それは、主に皮剥ぎ人から成る自由ギルド(Corps francs)に対しての国王タイユ税の永続化を意味したが ― は最初にして最も有力な施策であった。国王のパリ帰還の2年後、オルレアン三部会の攻撃の的となったのがそれである。そして、それはフォルミニーFormignyとカスティヨンCastillonでの会戦の前にすでに適用されていた。都市に対して商業上の自由を与えること、通行税ペア―ジュ(Péage)または内国関税の廃止、p.895 定期市と多数の市場の開設または再建、特許状による組織され、または再編成されたギルドの承認などは15世紀後半、王権の経済的変化を特徴づける重要な政策のひとつに数えられる。
このような政策はもはや14世紀前半のそれではなくなっていた。14世紀後半の王室行政は、ギルドに表われ発展した独占を真っ向から抑制した。これとは逆に前者(14世紀前半の施策)は、これらギルドの組織化を促し、特権をうち固めることだった。なぜというに、再興した工業は後見人を必要とすると考えられたからである。このため、この政策はその固有の利点を活用するのを放棄した。というのは、特許状によって公式の叙階を受け取ったギルドは王権の発露、したがってその拡大を意味し、王権はしばしば収受を合法化した支払うべき税の一部分を我が物であると主張した。王権はふたたび封建制との戦いを開始し、12世紀にブルジョアジーとの間で締結した同盟は是正された。ルイ十一世はそれを活用すべき術を心得ていたのだ。
職人(Gens de Boutique)以上にフランスの経済的利害を配慮することにより、王権は好機とみたら地方的独占の城砦を幾らか開かせる試みを放棄したのではなかった。その一方で、同じ利害の目配りから、しかも規制という狭い見地から、王権はギルド組織の業務に関する規程に関して徐々に干渉していくようになり、また、模倣の精神によってパリにおけるギルド法規の典型は地方においても普及することになった。王権はその頃、国王が即位、生誕、婚姻の際に売却した親方特許状(Brevets de maître royale)を発行する権限を我が物とし、親方制度の各段階を踏むことなしに、そしてギルド入会金未納者のギルドへの加入を認めることになった。王権は宮廷付き職人(Artisan suivant la Cour)の称号を授与した人物にギルドの諸義務を免除した。王権は多数の職業、殊に理髪師を官職として昇格させたが、それは財成上の必要に由来するものである。
手工業ギルドは原理としては13世紀にあったのと同じ状態にあった。すなわち、職人を保護するという砦という意味だ。しかし、職人たちは彼らを競争から保護する防御物を増やし、高くすることに熱意を注いだ。したがって、法規はより精細に煩雑になった。その結果、差し押さえが頻発し、訴訟の件数が増大した。独占は収縮する。13世紀には極めて稀だった親方試作(chef-d’œuvre)は親方株の不可欠の条件としてほとんどの部門に導入され、しかも複雑になった。
p.896 手工業ギルドと教団の数を減少させた飢餓にもかかわらず、ギルドの精神は習俗の中にかなり地歩を築いていたため、百年戦争時でさえ職種がギルドに編成され、こうしたギルドが国王の認証を求めることが見られ。諸領邦が再建された戦後となる。なおさらそうだった。百年戦争の最中と後は、あらゆる場所で教団が設立された。それは手工業ギルドと混同されたりされなかったりしたが、宗教的祭祀により、そして家族の祭典においてギルドの構成員を結合させた。この手段によって紐帯は緊密となった。
しかし、同じ町の親方相互間ではとりわけ強かった。親方と異なりギルドに結びつけられることなく、その特権に関与しなかった労働者は特に建設業において流浪の身に晒された。多くの者が仕事を求めて町から町へ移動した。彼らはフランス修行(Tour de France)を形づくった。法律を規定する雇い主はギルドにさほど関心をもたなかったため、彼らはもうひとつの組合によって自らを守ろうとし、職人組合(Compagnonage)を創設した。しかし、この職人組合は、ギルドに承認された公権力に対し差し向けられた秘密権力で、いうならば一種の既存勢力に対する反抗の核となった。王権は(禁圧の)請求がなくても、その存在を承認するどころか禁止した。
この時代は特異な対照を提供する。すなわち、王権は、まずフィリップ六世〔ヴァロア朝開祖1328-50〕において王権そのものが基礎とする貴族の庇護者となり、ルイ十一世〔1461-83〕において封建勢力を打倒することによって終わる。前者は特に15世紀前半の貧困と人口減少であり、後者は贅沢の大々的な展開、芸術産業の発展、実質賃金の上昇である。次いで15世紀後半になると、国家の全般的再建、経済的基盤の再建と商業の拡大が続く。