「和の精神」の功罪
今回の解説で、日本の「和」の精神が、ほかのあらゆる日本文化の源となっていることを理解した。それはたとえば、稲作文化の受容やアニミズム、勝者の敗者への配慮や第一人称の抑制などが挙げられていたが、枚挙に遑がない。これらは今回、日本人の美徳という観点から論じられていた。確かに、文化事象として俯瞰してみるうえでは誇らしいものである。
しかし、生活主体の視点に降り立ってみると、一概に称賛できるものではない。「以心伝心」が不可能とみなされる相手は必ず存在する。このような、一度協調できないと判断された人間はやがて排除されていき、いじめや村八分につながっていく。そして「士農工商」に含まれなかった被差別部落の人々の歴史に至って、最も明らかなかたちで表れているのが、「和」の負の側面である。うちとけたくない人を、人間と認めなければよいのであるから、そのうえで調和しあうことはむしろ簡単なのではないか。
現代においても、「和」から外れた人の孤独死や自殺、または反対に政府・官僚・財界の癒着という「甘え」が社会問題となっている。本来の日本の精神をかえりみるべきである。
【短 評】
筆者によれば、「和」「相互依存」「相互信頼」を特徴とする日本社会というが、一枚皮をめくってみれば、そうした「美徳」をもたなかったり認めなかったりする者に対して排他的になる社会的体質あるのではないか。すなわち、昔の「村八分」、現今の「いじめ」現象は日本人の行きすぎた同調気質の表われではないか、― 以上である。
確かに鋭い指摘である。筆者はさらに論を進め、現今の孤独死や自殺、政・官・財の癒着の根源にもそれがあるという。しかし、政・官・財の癒着を「甘え」というのは適切でない。なぜなら、そうした癒着は日本に特有の現象ではないからだ。
日本人はどこでも「ムラ社会」を形成し、同じ仲間うちでは分け隔てなく交際するが、異質の集団に対しては警戒怠りない態度で臨む。会社、同胞、同窓、同学年、同級生、部活動、同郷会、同好会、町内会、同一宗教団、政治的党派、アウトロー組織・・・などが「仲間うち」のフレームとなる。ここでは法律などの一般通則は通用せず、伝統的な掟や決まりごとが幅を利かす。しばしば言われるように、「企業で憲法は通用しない」のだ。筆者の問題提起はきわめて重要である。いつか機会をみて持論を述べることにしたい。
被差別部落の問題においても、上記に示したような、部分社会の全体社会に対する優位傾向が伺われる。これは習俗として続いていたものを支配者側が意図的に永続化させた身分制度であり、明治維新時に根絶やしにすべきところを戸籍上の措置が不徹底であったため、今なお残ることになってしまった。
本批評文の評価は80点。
【文章作法】
(1)冗語。第一段落1行め:「、ほかの」⇒ 削除
(2)語の補足。同段落3~4行め:「抑制などが挙げられていたが、枚挙に遑ない」⇒「抑制などが挙げられていたが、その外にも枚挙に遑ない」または「抑制など、枚挙に遑ない」
(3)表現。第一段落2行め:「を理解した」⇒「が理解できた」
*第二段落4~7行めは文を転倒したほうがわかりやすい。「そして『士農工商』に含まれなかった被差別部落の人々の歴史に至って、もっとも明らかなかたちで表れているのが、「和」の負の側面である」⇒「そして、『和』の負の側面がもっとも明瞭なかたちで表れているのが、『士農工商』に含まれなかった被差別部落の人々の歴史である」
*第二段落最終行:「そのうえで」⇒「彼らを除外したうえで」
(4)読点過多。文中で下線を引いた読点は不要につき削除せよ。