大阪人、関東人、日本人 | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

大阪人、関東人、日本人

 Sさんの発表を聴いて気になったことは、「純粋なカナダ人はいない」ということであった。しかしそれは日本についても言えることである。

 Yさんの発表からわかるように、日本においても大阪人と関東人のように、異なる文化アイデンティティをもつ者がいる。また、日本で大阪人と関東人の違いが生じた原因として、異なる文化をもつ移民が入ってきたということではなく、歴史が深く関係していたということが挙げられていた。つまり、ある程度の歴史をもつ国には自ずと異なる文化アイデンティティが生まれるのではないだろうか。日本人がある地域の人々を、同じ日本人でありながら大阪人や関東人というように、○○人と呼ぶことからも、本当の意味における純粋な日本人はいないとの見方ができる。

 

【短  評】

  筆者が言いたかったのは、「純粋なカナダ人がいない」ように、「純粋な日本人もいない」ということであろう。おもしろい指摘であり、それゆえに本批評文を引用した。

 しかし、「カナダ人がいないように」「日本人もいない」の対照をどのように理解したらよいのか。筆者の説に従うと、カナダは、もともと先住民のいるところに異民族が次々と押し寄せて諸民族の混成体をかたちづくったが、日本でカナダにおける移住民の役割を果たしたのは諸地域の歴史であるという。

 だが、よくよく考えてみると、日本にもアジア系の先住民はおり、次々と彼らを東方に、そして北方に追放するかたちで寄せて国土を拡げた点で似ている。国家統合体の核が永続した点で日・加は共通するが、混血のレベルはカナダではさほど進まなかったのに対し、日本では大きく進んだ。

 原日本人こと、つまり縄文人の遺伝子は長く維持されるとともに、対馬海峡を間に挿んだ海峡国家「倭国」の名残で弥生人の流入をみている。7世紀以降の日本は今日にいたるまで半島から切断され島嶼国家として長く今日まで維持され、縄文人と弥生人の混血は大いに進んだとみてよい。

 一方、カナダでは初期は英国人フランス人のみであり、彼らが原住民族のインディオを追放して版図を拡げ、時々の移民推進政策を受けて中国人や黒人が付け加わった。固有の歴史をもつことと諸民族の混成という意味でカナダと日本のあいだに大差はない。違いがあるとすれば、「混血統合体」の日本と、歴然とした「国民統合体」のカナダの差である。

 そこにきて筆者が唱えるような、「大阪人」「関東人」の区別立てをもちこむと、話がややこしくなる。「日本人」であることと、「大阪人」または「関東人」であることは両立可能であるが、同じように「カナダ人」であることと、「ブリティッシュ・コロンビア州人」であることも両立可能ではないか。ただし、事ケベック州となると、言語体系や法慣習の違いからカナダ国家からの独立を企てようとする勢力も少なからずいる。

 日本には分離独立を図るような気運はほとんど見られないが、国民統合体のカナダにはつねにその可能性が胚胎されている。

 「純粋な日本人はいない」を一種のレトリックだとするなら、上掲文の主張は理解できるし、それを前提にしての議論であれば大いにやるべきである。しかし、「純粋な」をどのように規定するかによって分類はどうにでもなる。たとえば、年齢による区分、性別による区分、社会的出自による区分、世代による区分、学歴による区分、出身地による区分など、どのようなかたちにも日本人を区分することができる。「大阪人」「関東人」の区分だけではとても収まりきれない「北海道人」「九州人」「名古屋人」をもち込むとなると、日本人はそれこそ無限分裂することになりかねない。

 

【文章作法】

(1)読点。1行めの印の箇所に読点を打ちたい。理由は接続詞のあとだからだ。なお、後段末尾から2行めで下線の引かれた読点は削除する。

 

(2)表現。後段3~4行め:「原因として、異なる文化をもつ移民が入ってきたということではなく」⇒「のは、異文化をもつ移民が入ってきたからではなく」

*後段末尾から3~2行め:「日本人がある地域の人々を、同じ日本人でありながら、大坂人や関東人というように、○○人と呼ぶことからも」⇒「日本人が同胞を指すのに『大坂人』や『関東人』という呼名を使うことからも」。[注]もちろん原文でまちがいではない。的確表記するとこうなる、という意味で提言したまでのことだ。