武士道と騎士道の違い
武士道という言葉は江戸時代につくられたもので、当時の支配階級である武士に対して模範・道徳で徹底責任を取るべきだということから始まった。一方、騎士道はヨーロッパにおいて広く浸透していた騎士階級の行動規範のことを言う。武士道と騎士道にはどのような違いがあるのか。
騎士道は、常に鍛錬に励み、弱者を守り、誠実であり、忠誠心に優れたことが主な内容で、神への信仰もこれに含まれる。武士道では、君主に対する絶対的忠誠を重視し,犠牲・礼儀・質素・倹約・尚武などが求められた。このように騎士道ではキリスト教が、武士道では儒学が裏づけられている。そのため自殺という観点で違いがみられる。武士道では切腹という言葉があるが、騎士道では、自殺することを最大の悪としている。これはキリスト教の考えにおけるものである。そのため、「自殺して死ぬのならだったら戦って死ぬ」と考え、名誉や意地よりも倫理的に正しいことを選ぶ。また、武士道と騎士道では君主に対する忠誠心にも違いがある。武士道において、君主への忠誠心は絶対的な価値がある。実際に、戦国時代で最も有名な戦いの一つでもある「桶狭間の戦い」では、織田信長が桶狭間で今川軍を強襲し、君主である今川義元を討ち取ったとき、2万人ほどいた今川軍は一斉に撤退した。一方で、騎士道では倫理的・道徳的に間違っていたり、君主が理不尽な振る舞いをしたりしたら、命令を拒否してもいいとされている。また、キリスト教においての神の教えは絶対だ。そのため、神への教えに背くのであれば、君主であっても命令を拒否してもいいとされている。そして、戦争に対する考え方にも違いがみられる。切腹という言葉からも分かるように武士道では自分の名誉こそが全てである。武士道のなかで戦争は「戦う」というよりも「名誉を守る」ためのものだ。一方で、騎士道では異教徒の殲滅、弱者の救済、悪への抵抗などのようなものが彼らを戦いに導く。武士道は個人間での価値観だが、騎士道は社会的、宗教的、団体の中での正義感が大事になるのだ。
このように、武士や騎士の規範行動や考え方は宗教に大きく関係していることが分かる。武士道には儒学が、騎士道にはキリスト教が裏づけられている。中世ヨーロッパでは長きにわたり裁判としての決闘が行われた。こうした裁判が行われたのは▼「神は正しい者に味方する」「決闘の結果は神の審判」というキリスト教の信仰が背景にあったのだ。
(のりっち 高2生)
〈参考文献〉
【武士道&騎士道】2つの思想から見る日本と西洋の文化の違い - ミナトのすゝめ (minato-intl.com)
「騎士道」と「武士道」の違いとは?分かりやすく解釈 | 言葉の違いが分かる読み物 (meaning-difference.com)
騎士道と武士道の違いと共通点は? | イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ (rekishiwales.com)
【文章作法上の問題】
特に問題になる箇所はなく、平易で読みやすい。
(1)読点の過不足(3か所)。上掲文において▼印の付された箇所に読点をうち、下線の引かれた読点は削除せよ。
(2)表現。第二段落:「君主であっても命令」⇒「君主の命令であってもそれ」
【内容に関わる問題】
まず上掲文を段落ごとに要約してみる。本文訳1000字強の文章において3段落では少なすぎるのではないか。そのせいで第二段落が膨れあがり、この段落だけで716字にもなり、しかも、多種多様な事がらが未整理のままに詰め込まれている。したがって、内容的にひとまとまりになるところで新たに段落を設けたほうがよい。1200字程度の文章であれば、4段落構成にするのがふつうである。
第一段落:日本武士の倫理規範たる武士道は江戸時代につくられ、中世ヨーロッパの騎士道は騎士の行動規範である。
第二段落:武士道、騎士道ともに尚武・至誠・名誉を謳うが、規範の礎となる宗教倫理がそれぞれ儒学、キリスト教という違いが見られる。主君への忠誠および戒律の面で武士道は騎士道に劣る。武士道は個人間の規範、騎士道では団体内の規範という違いもある。
第三段落:騎士道における決闘は神による法的裁定の意味あいがあった。
上掲文の内容に関わる問題はいくつかあるが、その前にまず出題に対して上掲文が何らかの解答を出しているかという観点から問題を取りあげよう。課題文は中世~近代ヨーロッパにおける決闘様式の変遷であった。そこで、筆者は中世ヨーロッパの騎士道を連想し、それと対比させるべく日本の武士道を取りあげ、それらを比較考究しようとした。その動機と研究法はそれ自体としてまちがっていない。「論点設定は自由」ということだったのだから。しかし、「決闘」という字句が上掲文の結論部分で一度のみ出てくるだけで、肝心かなめの日欧間決闘の比較研究がなされていないのは真に遺憾に思う。すなわち、筆者は騎士道と武士道の背景にそれぞれ宗教観念の違いがあることを探り当てているだけに、その違いをさらに考究していれば、決闘の意味あいの違いに行きついた可能性がある。ここで手を休めてしまったのは惜しいかぎりといわざるをえない。
この問題が高校生にとっては無理難題であることは重々承知のうえで出題した。というのは、前回(第18回)の「経済史と経済学」の相関関係を問う問題に対し、筆者(のりっち)クンは核心を突く見事な解答を出したゆえに、今回の難問についてもなんらか妥当な解答を出すであろう、と半分期待を込めて出題したつもりである。じっさい、上掲文では「決闘」部分を除けば、騎士道と武士道の異同について、その概要と根幹部分に関する説明は的を射ている。特に「自害」「名誉」「意地」「帰属意識」の面で騎士道と武士道は明瞭に価値観の違いが認められるとしている点が優れている。
ポジティブ評価はここまでで、以降はいくつか首肯できない難点があり、以下、これを問題提起というかたちで摘出してみよう。とはいっても、筆者の主張の全部が的外れとみるのではなく、半知半解の部分が含まれていることを示したい。
細部に入る前に上掲文を評価・採点しておこう。現状では70点を献上したい。
(1)戦闘の一形態として「決闘」を位置づけてよいか
筆者は戦闘(または戦争)と決闘の関係をどう捉えているのか不明確である。筆者は第二段落の末尾部分で「武士道のなかで戦争は『戦う』というよりも『名誉を守る』ためのもの」と捉えているところから、どうやら「決闘」を戦闘の一形態と捉えているように思われる〔注〕。しかし、実戦での戦闘の最中に「名誉」を求めて自死(ハラキリ)を選ぶなどは想定外のことである。そもそも、平時であっても「決闘」は私闘の類として原則的に禁止され、実在したとしても決闘は真に稀有な事例である。
〔注〕有史上、部族を代表する闘士どうで雌雄を決する戦闘がなかったのではなく、鉄砲が普及する以前のアフリカでは部族抗争の決着をつけるのに一騎討ちの方式が用いられたことが知られている。これは殺生の惨劇を食い止め部族の絶滅を防止するためのものだったらしい。結果的に負けた側が譲歩し、係争地を去るかたちで収まったらしい。ここでは対象が欧日であり、合戦における一騎討ち決着は武勇伝の伝説レベルのものでしかない。
また、中世ヨーロッパでも戦闘と「決闘」は次元を異にする扱いをされるのがふつうだった。ただし、キリスト教徒どうしの争いを私闘として禁止したカトリック教会は別として、騎士階級以上の貴族身分および諸侯のあいだで名誉をかけての「決闘は」中世・近世・近代を通じて行われてきたため、「私闘禁止」は名分にすぎなかったし、私闘を徹底的に取り締まる国法や裁判制度が未発達であり、それを抑止する権力が不在でありつづけた。
ということは、戦闘と「決闘」について欧日ともに史実にもとづいてもっと細かく洗いなおし、それにもとづいて結論づけねばならないことを意味する。
(2)主従関係の強弱についての欧日比較
封建的主従制と「決闘」が何らかの関係があることは認めなければならない。というのは、封建制が成立する以前においては「決闘」なるものは存在せず、封建制とともに産声を挙げ、市民革命とともにその位置づけが一変したからである。そこに大きく関連する要素として公法的世界(国権)の出現が挙げられる。つまり、封建的主従制や「決闘」はあくまで私法的世界での社会現象であり、市民革命の出現でもって公法権力が姿を現わすと、主従制と「決闘」はいずれも例外的な現象に成りさがるのだ。
上掲文の筆者は、主従関係 ― 封(禄)の授与とその対価としての奉仕を媒介とする主君と従者の関係 ― をもって欧日間の強弱度あいを論じている。そして、筆者はヨーロッパでは主従関係が概ね双務的であるのに対し、日本の主従関係は主君の立場が強いとしたうえで、これを律する価値観がカトリック教会から与えられたのに対し、日本では主従関係はあくまで個人間の関係であり、それを律するような上位機関ないしは宗教規律が存在しないため、どうしても主人の立場が優位でありつづけたと説く。筆者はこうとまで明言しているわけではないが、文脈からそのように読みとることができる。この考え方は大雑把にいえば、それでよいのかもしれない。
筆者の言明「武士道は個人間での価値観だが、騎士道は社会的、宗教的、団体の中での正義感が大事になる」も再検討しなければならない。日欧の封建制はともに私法的世界のシステムである、と評者は言った。ということは、主従契約は公法的世界の出現前の個人間の約定であり、「日本=個人 vs 西洋=団体」の図式は当てはまらない。どちらの封建制も基本的に個人間の約定であり、死去などにより主君と従者のいずれかが欠けるときは改めて契約を結ばなければならない。ふつうは主・従ともに世襲相続者をパートナーに選ぶのだが、必ずそうしなければならないわけではない。西洋の封建制はこの個人的性格が日本よりも濃厚であり、契約の切断は比較的に容易だった。ということは、むしろ西洋の主従契約のほうがドライだったことを意味する。ドライでありすぎたために、主従の紐帯を締めなおすべく宗教的信条(キリスト教倫理観)を必須としたともいえる。
一方、氏族社会の名残をとどめる日本では個人的関係より家と家の関係が顕著であって、主従関係の切断はよほどの事情がないかぎり難しかった。どちらかというと切断は主君側からは自由だったが、従者側から申し出るのは一族郎党揃って武家社会からの脱出(=追放)を志願するに等しかった。だから、日本の主従制のほうがもともと団体や社会の縛りが強かったのである。明治期に入って国家が前面に出ることによって、それ以前の郷党にとって換わる。国家が社会、団体、イエの悉くを呑みこんでしまうのだ。
したがって、主従関係の強弱と関係を規定する価値観はもっとそれぞれの歴史に根差して分析しなければなんともいえない面ももち合わせている。つまり、封建制の成立当初、最盛期(封建的分散の進行した時期)、絶対王政期、そして市民革命期以降と分けて考察しなければならない。主従制は市民革命と同時に死滅に向かったにもかかわらず、件の「決闘」のほうはいっこうに衰える気配もなく19世紀全体を生きのび、20世紀に入ってもなお持続する。このことは主従契約と「決闘」の基盤は共通する面とともに、どこかに大きな違う面があることを物語る。
(3)武士道に影響を与えた宗教は儒教(朱子学)だけでよいものか
筆者は騎士道におけるカトリック教義に否定されるものとして武士道における儒教を挙げる。新渡戸稲造が「武士道」を著したとき(1899年)の宗教として儒教特に朱子学にもとづいているのはまさにそのとおりだが、武士道は用語「武士道」はともかくとして、類似語「葉隠」「戦陣訓」「武家故実」「家訓」「祖法」やその考え方自体はもっと前からあり、したがって、日本の宗教には仏教と神道をも考慮に入れなければならない。特に、日本の武士(戦闘員)における諦観に染まりやすい精神的素地は仏教の無常観や諦観に根差すところが大きい。戦士を引退した者が剃髪してまず向かう先は僧界であることも忘れてはならない〔注〕。
〔注〕これは明治期からの傾向であるが、多くの名将を排出する軍族家系からは兄弟のうち最低一人は僧籍に入れるのが慣わしとなっている。やはり殺生行為の代価としての魂鎮めのためである。
朱子学は武士に「忠君」および愛国(藩)を勧奨したが、これは完成期に入った武士道の考え方であり、草創期および戦国時代における武士道はもっと粗野な考え方であり、忠君を勧める一方で、君主に意見したり、暴君は家臣の仲間うちで謀って廃嫡したりする行為に出ることもあった。それゆえに下剋上や敵方と内通する者も数知れず多かった。反抗に失敗した家臣の多くは主君の許を離れ出奔し、他家に奉仕するのが慣わしだった。それも叶わぬ時は浪人に成り下がるのが通例だった。「忠君愛国一筋」の武士道は明治の軍国主義に入ってからつくられたものと考えて差し支えない。
江戸時代の初期に現われた山鹿素行は「中朝事実」を著し(1669年)、軍学と儒学の統一を企てた。「中朝」とは万世一系の皇統を尊ぶ考え方であり、日本こそホンモノの中華の国であるという。それゆえに徳川幕府からは警戒の眼をふり向けられことになったが、山鹿の特異な点は主従関係を律する規範としての「天」を想定したことである。この点で西洋のカトリック教義に似た面がある。このことは考えようによっては「忠君」と同時に「抗君」の思想も胚胎していたのである。山鹿は後に赤穂義士の義挙を誉めそやす一方で、公儀に背いたとして名誉のハラキリをもって処分することを積極的に説いた人物である。ここで言いたいのは、日本の「武士道」にもいろいろな思想が混淆しており、一枚岩ではないということである。特に、自然神道や道教、韓非子(法家)、禅宗の思想的混入もあり、細かく洗ってみなければならない。
(4)裁判としての「決闘」の位置づけ
話が前後してしまったが、西洋封建制に付きものの「神の審理」としての「決闘」の位置づけについて論じたい。かつて古代ローマ帝国に存在した公法的世界(ローマ法)が帝国の崩壊とともに消滅し、代わって封建制なる私法的世界が出現したため、人倫を司る主体があいまいになった。ローマ帝国の代役を果すのがカトリック教会である。バラバラに分解した諸部族・小国家群をひとつの文明のもとに再結合を促す役割を担ったのだ。社会がバラバラであっては弱肉強食の原理が罷りとおり、正義を「力」で決することにでもなれば、結局は流血の惨事を招来し、それが常態化する。だからこそ、強者を戒め弱者を救済し、皆が自立し共存できるような社会の実現のためにカトリック教会は大きな使命をもつことになった。
キリスト教とどうしの争いは禁止するという建前はあっても、だからといって私闘が消滅するわけではない。私闘は相変わらず続いたし、それによって争い事がなくなるのでもない。裁判制度があっても、それは封建法の範囲内での処理にすぎず、係争者の双方が同じ君主を戴いていれば、この君主に裁定を依頼すれば済む問題だが、それですべてが片づくというわけでもない。裁定を頼まれた主君も、直ちに双方を満足させ穏便に事を解決できる自信もない状態では、係争案件について、双方に「決闘」による決着を付託する道を提案する。要するに、全人の負託に応えるだけの整った裁判制度がないもとでは「決闘」による審判がいちばん “合理的” かつ “穏便” だったのである。ここで重要なのは、争いあう者の双方が高身分の領主ないし騎士(戦闘員)であったことであり、農民や商工業者の従属民でないことである。従属民どうし、従属民と領主の係争は領主裁判の管轄に入り、ここでは「決闘」などはもとより問題になりようがない。
日本封建制のもとでは主従関係において主君の役割が強いため、従者相互で係争が起きた場合、主君の裁定でもって片づくことがほとんどであった。ところが西洋では主君と従者の関係が原則的に対等かつドライであり、係争人双方が主君の裁定に承服する可能性は低かった。だからこそ、「決闘」は西洋に特有の社会現象でありつづけた。日本での「決闘」は仇討ち、剣豪たちの果しあい、侠客・博徒の勢力争いに限られた。いずれも例外的現象でありつづけた。
日欧いずれも、貴族寡頭制が薄れ、法の前の平等原則が承認され、近代的法制度が整い、私法に対する公法の優位性が確立されるに伴い、貴族の浮ついた自尊心または社会的落伍者の虚ろな虚栄心は実際的基盤を失い、全国民が法秩序に従うことを潔しとするようになると、前近代社会の残滓としての「決闘」は姿を消していくのである。