第19回 決闘の歴史(問い) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

新・高校生のための小論文指導

第19回(2023/5/22)論題:決闘の歴史

  以下の文章を読んで任意に論点を摘出し、自由に意見を述べよ。冒頭に論題を掲げること。ただし、字数は1,200字以内にとどめること。

 

 まとまったら松井のメールアドレス matsui6520@mf.point.ne.jp に直接打ち込むか、または添付ファイルにするかして(いずれかで一つでよい)送信されたい。締切りは5月25日(木)午前7時とする。

 原稿の末尾に必ずペンネーム(実名不可)と学年を記すこと。   

例:(ドラネコ 高3生)

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決闘の歴史

 ヨーロッパ中世における名誉の理想は厳密に定められ、まことに高いものであったが、実際にはそれほど厳格な試験審査があったわけではないし、決闘の場で勇敢な騎士が必ずしも高潔な人物であったとは限らない。ただ、キリスト教と封建制の国家体制を支えたこの精神は、決闘の姿が個人的な名誉維持のために貫かれたことは確かである。

 判決の決闘の発生と、中世まで法的基盤と慣行についてはモンテスキューの『法の精神』第38篇に詳しく書かれている。近代以前にあっては、いかにばかばかしい多くのことを賢明な方法で解決しようとしたか、良いことがいかにばかばかしい方法で解決されていたか、モンテスキューはこれらのことを詳しく記録したかったように思える。この著作で述べられていることのうちで興味をそそられるのは、体制がいかに発生するかの考察である。いったん何かを宣言してしまったら、もはや取り消すことはできない。そんなことをすれば罪を問われる、という社会が男子の一言を引っ込めることを許さない体制を作りあげていったいきさつである。さらに、モンテスキューは、棒から剣への武器の変遷が騎士あるいは貴人のあいだの階級的決闘を制度化していくもようを記している。杖や棒で戦う賤民を相手とすることは身分ある者にとっては侮辱と見なされた時代があったのである。ゲルマン民族からフランクの地に移った決闘の習慣は10世紀から12世紀にかけ、この土地で大いに流行った。国王は半独立の封建諸会の勢力を限定するため、判決の決闘をむしろ奨励していたのである。

 1610年に出版されたジョン・セルデンの『決闘すなわち1対1の闘い』で、著者は明確に「公言された嘘、咎められた名誉、肉体に与えられた理不尽な打撃、不当に扱われた騎士道精神に対し、義侠の行為をもって真実、名誉、自由を守るために、判決の試合場ではなく、1対1の個人的な争いにより相手の肉体にその悪の報いを与える習慣は、フランス人、イギリス人、ブルゴーニュ人、イタリア人、ゲルマン人、および北方諸族のあいだに拡がっていた」と記している。「名誉の決闘」は15世紀にいたるまでおこなわれていた判決のため設定された解決、および民間で盛んにおこなわれた無秩序な殺し合いにとって代わる形式として、人間性と秩序を擁護するために、16世紀以降、厳格な規制をもとに発達していったものであった。これは、ルネサンスを経て、個人の側から「自発的に」つくりあげた制度あるいは「文化」であったといえる。

 自分が護るべき女性に対する侮辱、自分の肉体に与えられた乱暴な行為、自分の名誉を傷つける中傷など、法的には何ら報復がなされない事態に対して、自分自身の尊厳を護るための手段は、社会的な約束として認められるようになっていった。ただ、決闘の原因として、16世紀以後最も基本的と見なされるようになったのは「嘘」をつくことに対する報復であったということから、ヨーロッパ近代にこの制度が成り立った背景を見ることができる。シェークスピアの「お気に召すまま」のタッチストンの台詞にあるとおり、「はっきりした嘘を除けば、すべての他の原因は避けることできる」のであった。

 16世紀から始まり、18世紀にほぼ完成を見た各国の「決闘の規制」では、決闘取り決め文書の交換、介添人の選定、武器の選定の3つが中心的な課題となっていた。とりわけ介添人については「決闘で人を殺すのは剣でもピストルでもなく、立会人である」といわれるほど、その役割は重要であり、見識をもってあたれば、決闘は半ば以上回避できると考えられていた。この点でも、報復のほうに重きを置きすぎるアイルランドの「規制」は他国からも批判されていた。作家ブラントームも「キリスト教徒の血が流されるのを喜ぶような、信仰のない者は適当ではない。アイルランド人は10中9人まで、事態を友好的に調整できないほど、闘争を先天的に好んでいる」と述べている。

 武器の選定にあたっては、自分が使いなれたものを選んだほうが優位に立つ。大陸では一般的には決闘を申し込まれた側が選ぶ権利をもつが、イギリスではその反対である点が目立つ。大陸の諸国で剣による決闘が続き、イギリスでは早くからピストルによる決闘が流行ったことも関係していよう。さらに言うなら、決闘の出発点において申込者はすでに被害者であると考えるかどうか、そして、ピストル決闘の流行する18世紀以降は、すでに形式のほうがかなり重んじられていたこともこうした違いの背景にあるだろう。

 剣は、18世紀の末まで、武器として長いあいだ使われてきた。中世期には鎧、次いで鎖帷子(かたびら)を着けての決闘であったから、剣は、諸手で使う重いものが好まれた。後にはしだいに軽くて片手で自由に扱える長剣のほうが、機先を制するのに利便であるとされ、16世紀の後半には、スペイン=イタリア型のラピアーという細身の長剣が流行るようになった。装束のほうも身軽に動きまわれるものとなっていった。長剣も、両刃で先の尖った姿をとっていく。フェンシングの技術が習得されはじめると、技のスピードが競われることになり、具足はかえって邪魔と見なされてゆく。受け止めるための左手の短剣もしだいに使われなくなっていった。しかし、17世紀までは相手に致命傷をあたえうる、刃の鋭い短剣のほうを好む者も未だ少なくなかった。とはいえ、短剣はもともと防禦に適しているため、この世紀の末には両者の中間にあたる、長さ30インチほどのフランベルジという剣が最も好んで使われるようになっている。剣は長すぎても使いにくいし、相手に対する効果がないと考えられたためである。

 ピストルが決闘の武器として、特にイギリスで使われだしたのは、18世紀の中頃からである。この武器は、剣術ほどには技術による差があらわれないと見なされていた。当初はそうだったであろうが、イギリスではピストルによる決闘の全盛期、1770年から1850年の頃、よりよい銃が高く売れることを知った鉄砲鍛冶の職人は、精巧なピストル、強力な火薬の弾丸を作りだすことを競うようになっていった。特に、ジョー・マントンは引きがねのバネ、握りの窪み、弾丸発射のための圧力部分を改良し、評判を得ていた。なかでも、ピストルを精巧な武器に仕立てたのは、触発引きがねの発明であった。19世紀に入るころにはピストルはすでに確度の高い人殺しの道具となっていた。

 決闘は先に述べたように、19世紀の半ばまでは各国で盛んにおこなわれていた。これが廃れるようになったのは、ヨーロッパ諸国において次々と法による規制がおこなわれたからであるが、そのためだけではない。貴族や特権階級は産業社会の到来により、自分たちの生活基盤の足元を揺るがされていた。ヨーロッパの王制にとっては、社会の枠組みを見直さざるをえない時期にきていた。列強が植民地政策に活路を求め、民族問題を理由に互いにあい争う時期となって、人類が戦争による大量殺戮の時代に突入していった19世紀の後半から決闘がおこなわれなくなったというのは、偶然の一致ではあるまい。アメリカでも南北戦争までは南部の農場主や北部の紳士たちだけのあいだで盛んにおこなわれていた決闘は、その後しだいに流行らなくなっている。とはいえ、19世紀に入って産業革命が進行し、貴族を中心とした階級構造が崩れ去っても、主義主張を異にする社会思想家や革命家のあいだで決闘が秘かに続けられていのは、「名誉」が決して片づいたわけではないこと、男性の心理の底にある「闘争」の本能の顕われかもしれない。

(藤野幸雄『決闘の話』勉誠出版、2006年、226頁。pp., 73-78.から引用)