歴史学エッセイ 1599. 「合成の誤謬」
世の中には良かれと思っておこなっても、結果としては望ましくない結果につながるようなケースは実に多い。「逆も真なり」で、悪い事ばかりの連続で己の悲運を託つ毎日を送っていても、しばらく経ってからこれを顧みるとき、それが慶事の始まりであると認識することもある。凶事と慶事は概念上で対語であるが、必ずしもそうならないことが起こる。これを考えるために、具体的なケースを考えてみよう。これも3つに分かれる。
(1)その出来事をだれが、どんな理由で評価するかによって凶事と慶事が入れ替わる。
(2)また、同一人物が同じ出来事を評価するにしても、評価のあいだに時間的な隔たりがあると、その評価は逆転することもある。
(3)さらに、出来事の部分と全体の対照させるとき、皆が善かれと思ってやったことでも、全体的な観点から見なおしすると、必ずしも善行とはいえないどころか、却ってみんなが迷惑することもある。
上記(1)のケースは具体的にどのようなものが挙げられるだろうか。ある盗人 ― ここでは江戸時代の寛政期に現われた義賊の鼠小僧治郎吉を連想してみよう ― が大名屋敷の金蔵を破ってカネを奪いとり、それを貧乏人に配った〔注〕。強奪は、その理由の如何によらず悪行にほかならないが、日々食うにも苦労を強いられている貧乏人にしてみると、この“悪銭”はまさしく天から授かりもののカネとなるだろう。したがって、貧乏人は当面はなんとか食つないでいけるだけに、社会全体にとってもプラスにはたらく。
〔注〕十年間に荒らした屋敷95箇所、839回、盗んだ金3000両余となっているが、それは北町奉行所での供述によるもので、もっと高額だったともいわれる。
こうはいっても、小生が金蔵破りを勧めているのではないことを断っておく。あくまで理屈上での位置づけを明らかにするために例挙したにすぎない。金蔵破りといった仰々しいことでなく、お金持ちへの課税を増徴するといった譬えをいえばよいだろう。これでもって財の平準化がなせる。じっさい、累進課税制度をやめてから日本社会は急激に中流階層が没落したことを想起されたい。
(2)のケースは評価者が同一人物であっても、そのあいだに時間的な隔たりがあるため、別人の評価と見なすこともできる。若気の至りで失敗をやらかした同一人物がその後に大きく変わり、かの失敗を自らの過失と認め、贖罪のために世のため人のため何らかの奉仕をする。これは大なり小なり、だれにでも生じることである。卑近な例を出すと、子ども時分にあれほどトンボや蝶の類を殺しまくった反省から、大人になると生き物を労わるように変わった経験はだれもしているではないか。
一国民の戦勝または戦敗も、その間に時間的な隔たりをおくと、同じように評価の逆転を生じさせる。特に敗北した側の猛省を促し、捲土重来の気概を呼び起こすのは必至である。独仏の抗争は19世紀以降4度も干戈を交わしていますが、交互に勝ち負けを味わっている。
(3)のケースがいちばん解りにくいかもしれない。「合成の誤謬fallacy of composition」と言われるものがこれである。具体例をもって説明しよう。節度倹約はふつう良い徳目とされる。無駄遣いをやめ、将来への備えのため貯蓄をすることは個人的には良いことにちがいない。しかし、もし全員がこれをおこなったら、社会全体の購買力が落ちて、供給者がいくら生産をしても商品が売れなくなる。そうすると、利潤が落ち、生産を縮小しなければならなくなり、労働者の賃金を下げるか、または退職を強いることになる。そうすると、労働者は同時に消費者でもあるため、当人は貯金を崩して生活の資とするだろう。とうぜん、必需品しか購入しなくなり、その他調度品やおしゃれのための支出を抑える。そうなると、経済は縮小循環に陥り、しまいに長期の不況または恐慌をもたらしてしまう。
これは経済学者ケインズ(1883~1946)がその著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)で明らかにした考えの基礎にあるもので、個々には妥当しても、全体を合計すると妥当しない現象を指す。たとえば、人びとが所得のうち貯蓄する割合を増やすと、当人の貯蓄はその分だけ増える。それで社会全体の貯蓄も増えるかというと、そうはならない。ケインズの有効需要理論が明らかにしたように、貯蓄の増加が有効需要を減らし(人々はカネを貯めることにつとめ消費を減らため)国民所得で示される総生産額が縮小し、それが随伴する所得減が貯蓄減につながっていく(デフレ)。社会全体の投資が変わらなければ、社会全体の貯蓄に変化は生じず、結果的には個々人が貯蓄をすればするほど社会は貧しくなっていくのである〔注〕。
〔注〕個人の倹約精神と政府の緊縮財政の措置は、いうならば社会的には「貧乏へ誘(いざな)う道」となる。平成大不況の根は、消費を刺激するどころか、緊縮財政の永続と消費税率アップによりますます人びとの消費を抑えこんだところにある。若者の不正規雇用が拡大したことも大きな要因である。円高政策などは愚の骨頂である。まるで、資本の海外逃避を促すようなことを政府が率先してやっているのだから。それとも、外的な力が加わったからとみなすべきなのか。小生のみるところでは、その両方のせいではなかろうか。
「全体を寄せ集めてみる」はケインズ理論によれば、実際的な誤謬につながる「合成」だが、歴史学の立場からいうと、「合成」は認識上の操作となる。その手法は誤謬につながるどころか、誤謬の根源を突き止めるのに欠かせない手段となる。ここから、この認識法を採らないかぎり、必然的に誤謬の穴に嵌ることを意味する。すなわち、特定の考察対象とする出来事について政治・社会・経済・思想・宗教倫理・風俗習慣など多方面の角度から光をあて、最終的にこれらを総合して歴史的事象を構成することにほかならない。この操作自体にミクロ分析とマクロ総合のアプローチが含まれる。ということは、歴史事象のミクロ分析だけでは不完全な理解に終わり、マクロ分析だけに頼っても、茫洋とした像しか浮び上がらず、積極的な対策にむすびつかないということだ。ミクロとマクロの併用によって初めて “合成の正解” にいたるのである。
ここで分かったことは、出来事そのものが「正解」や「誤謬」ではないことである。出来事は出来事であり、それを人がどう解析するかしだいで、「正解」または「誤謬」につながるということだ。出来事は因果の鎖でつながれている。AがあったからBが生じ、Bが生じたからCへと続く「A → B → C」の連接がこれである。「連接」とい語をつかったのは、出来事に連続と不連続の面が同時に具わっているとみるからだ。つまり、出来事には連続の要素と不連続の要素とが表裏一体化して一本の線を成す。観察にあたっては連続と不連続の要素を見極めつつ追跡しなければならない。連続か不連続かを見極めるには連続する要素が何であるかを把握したうえ、その系譜の変化を追跡していかねばならない。そもそも、連続する一本線という観念がなければ、それの途切れる部分つまり不連続も語れないはずである。その一本線に寄り添うかたちで、やがては姿を消していく古い線も並行する。その一本線も徐々に変貌を遂げていく。
時代を画するような新たな創造的な出来事の中に古錆びた要素が混在しているのはごくふつうに見られることだ。17世紀ヨーロッパの思想的旗手たるパスカルやデカルトのような巨魁たちは、自分が斬新なことをやっているとの自覚はなかったと思われるが、結果として ― 現代人の視点からみると ― その行き着く先が斬新なことに疑いを挿む余地はない。そのことが確証されるのは、時間がかなり経って思想の連続・不連続の関係について系統だった解釈がなされるようになって初めて分かることである〔注〕。「歴史のターニングポイント」とは、いきなり革命政府が誕生し、旧制度が廃絶されるような状態がイメージとして浮かぶ。特定のポイントにたち至ると、それまで連綿と続いてきた古い要素がプツンと途切れてしまう、それがターニングポイントなのである。
〔注〕パスカルやデカルトは「疑うこと」の重要性を唱えたが、その一方で、なんとかしてキリスト教神学との調和をも考えていたのである。「科学革命」の旗手たちも自分たちが提起した事がらが世界観を一変させるほどの効果もつことを念頭においていたのではない。また、フランス革命の闘士たちは旧制度を憎むあまり、ギリシア=ローマの共和制の再興を夢見て自由・民主・平等主義の諸改革を断行しようとした。しかし、自分ちが成し遂げつつある事業が何であるのか、どういう結果になるかの自覚をほとんどもっていなかったことを想起されたい。