255. 懐疑心のもち方
慣れ親しんだものに愛着を感じたり、記憶違いを悟ったりすることは、人間が成長するなかで獲得していく大切な能力である。何ごとについてもこの能力がなければ、いくら練習しても身につかないし、記憶にあること以外の新しい知恵を生みだすことはできない。しかし、一定の年齢になると、もはや愛着や記憶違いにも限度があるというレベルで脳の発達は止まってしまう。
こういった脳の成長停止がいつしか大人に常識を疑うことを忘れさせていることも確かである。子どもの豊かな想像力のせいで幽霊が出てきたりおもちゃが勝手に動いたりするかもしれないと考え、世間の常識を疑うことができるのは、子どもには万事について白紙の状態で考える余地が残されているためである。社会常識の奇妙さ加減を最初に発見するのはたいがい、未だその社会常識に染まっていない子どもたちである。未熟であり、言い換えれば慣習の束縛を受けない子どもは自由に発想し、奇想天外なことをおこなう。これとは逆に老成した大人たちは、本人が気づかないうちに頭脳の硬化を来たしているゆえに常識や慣習に囚われ、新しいことができない。
大人が子どものように何でも疑う必要はない。われわれが身につけなければいけないことは、考える余地のあるものとないものとをきちんと判断する力である。じっさい、考える余地のある事柄は、本人が思っているよりもずっと多い。それゆえ、大人にも一日の長があることも否定できない。なぜなら、豊かな体験に裏打ちされた確かな判断力をもつからだ。判断力のもととなるいろいろなケースを味わってきているのだ。判断力 ― 最終的に人の行動に行き着く ― というものは理屈や知力を要するのと同じ程度に実体験を積むことを要する。
すなわち、どちらが大切かという問題ではなく、どちらも重要だということだ。精神年齢の調節などということはむりな相談あり、想像性豊かな時分には徹底的にそれを鍛え、年をとったときにはそれに似つかわしいものを身につけるということが大切だ。グループや組織は異年齢で構成されるのが望ましい。若者だけのグループでは行動力に富む反面、防御に弱いし、老人だけのグループは冒険を懼れ、攻撃力に欠ける。
たとえば、軍の参謀総長が少壮気鋭の軍人に務まらないのは、彼は攻撃戦法こそ得意とするものの、臨機応変の戦法転換や防御戦術面で脆さを見せてしまうからだ。次の一手のさらにその先の一手を見る眼が必要なのである。それには実体験と人間心理のあやを読みとる老練さを要するのである。また、外交官についても実体験に裏づけられた知識を蓄積することが要請される。会社の経営者についても同じことが言えよう。小さな企業のうちは攻勢一辺倒でよいかもしれないが、その企業の規模が大きくなると、それに応じた経営戦略が必要となる。
この辺の事情に関し若者についてもう少し詳しく論じることにしよう。幼年時代には情操教育にもっと力を注いでもよいのではないか。指導よりも放任がはるかに重要である。自然(山・川・谷・海・植物)に親しみ、動物たちと戯れるのもよい。子どもたちどうしで遊ぶことが重要である。そこで常に新鮮な感覚を養い、共に生きることの愛しさ、大切さ、難しさ、ルール遵守の精神を悟っていくのである。そこに大人による干渉が加わると、最初から禁止項目ばかりを並べられ、失敗の経験をもたないまま育つことになる。オタマジャクシやカエルを何匹も潰し、トンボを引きちぎった体験があるからこそ、殺生の空しさを体得していくのである。
幼年期から塾通いをした学生たちと(ゼミ旅行などで)接していると、彼らは本当に何ごとも知らない、できないのに驚かされる。縄を綯うことすら知らないし、様々な縄の結び方を知らないこともある。薪の割れない男子学生、包丁の使い方さえ知らない女子学生もいる。自然界を冒険することの愉しさを知らないため、すぐに宿に帰ってテレビの前に座りたがる。万事につけ教師からの指示待ちである。放っておくと、何時間でも無為のままに過ごす。議論の愉しさも知らない。つまり、感受性が退化していると思われるほどに感動に乏しいのだ。
私は学生時分のアルバイト以外に社会経験(狭い意味でのサラリーマン生活)というものをもたない。それゆえに一般の会社員の実態がどうであるのか知らないので、語る資格がないと思う。大学世界のことは多少は知っているつもりだが、そこはある意味で特殊な世界であり、ここでの観察記録や教訓が社会的な汎用性をもつとは思われないため差しひかえることにしたい。ただ、ひとつだけ言っておくとすれば、大学では一般世間の常識がそのまま通用する部分と常識と非常識が逆立ちしている部分とが並存していることだ。つまり、知性と稚性の同居している人があまりにも多いのだ。そして世間に甘やかされてきたため、行動面はもとより考え方の幅さえ極度に狭い。
若者論にたち戻ろう。学問についても最適年齢というものはあり、哲学・数学・物理学では若いときに鍛えなければならないし、実体験や知的蓄積力がモノをいう法学や歴史学では晩成に期待しなければならない。前者は天才肌、後者は努力肌に向いている分野である。特に、最近の若者と接していて気づくのは、彼らはほんの一部のマニアを除き、文学に親しんでいないことだ。文学渉猟は異文化 ― 時間と空間を異にする ― の疑似体験として非常に貴重な分野だと思うが、「源氏物語」や「徒然草」はもとより、鴎外や漱石すらろくに読んでいないのである。バルザックやドストエフスキーはその名前すら知らない学生に出くわす。まさに驚きというより外はない。思春期の前・中期を逃していつ読むつもりなのか。おそらく生涯読まないことになるだろう。
それでいて若者は私のような高年齢世代を老人扱いし、自らの優位点を情報機器の駆使能力におく。その代価として彼らがどれだけ貴重な青春の時間を失っているかという自覚がないのだ。映像文化に慣れ親しむあまり、彼らは活字文化の裏に隠された想像的世界の広大無辺さと精神的葛藤の凄まじさを知らないのである。ある時、私が高校2年(17才)のときに書いた随筆文を学生に見せたことがある。彼らはショックを受けたようだ。
老人の繰言は止めるとして、懐疑心や鋭敏な感受性は若いときにしか養えないとだけは言っておこう。疑うことこそ成長の根源であり、そのためには幅広い社会体験を積み、同時に知的彷徨をすることだ。若者で気になってしようがないのは効率一辺倒の考え方である。最初からむりむだを省こうとするのである。失敗を重ねないで成長することなど、とうてい考えられないと思うのだが。